竜の王子とかりそめの花嫁

富樫 聖夜

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1巻

1-1

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   プロローグ 竜の王子と森の魔女


「運命だなんて、私は認めない!」

 その悲痛な声と共に少年の頭を、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が襲った。圧倒的な「力」に抵抗できず、少年はガクッと膝を落とす。

「殿下!」

 ここまで同行を許された唯一の護衛が慌てて駆け寄ってくる。激しい頭の痛みに、殿下と呼ばれた少年は立ち上がることすらできなかった。

「二度とつがいとは会わせないわ!」

 目の前の女性が涙を流しながら叫ぶ。最初に見た時は思わず見とれてしまうほど美しい女性だったが、今その顔は悲しみと憎しみに歪んでいる。

「おのれ、魔女め……!」

 護衛が憤怒ふんぬの表情を浮かべて剣のつかに手をかけた。あるじの異変もたった今起きた不可思議な出来事も、全てこの「魔女」が原因だと分かったからだ。
 ――違う、彼女は魔女じゃない。
 痛みとこうしきれない力の奔流ほんりゅうに意識が朦朧もうろうとする中、少年は護衛を制止しようとした。ところがそのとたん、頭の中を掻き回されるような強烈な不快感がして、声も出せなくなる。

「殿下に何をした!? そしてあの子どもをどこへやった!?」

 その護衛の言葉に、少年は引っかかりを覚えた。
 ――子どもとはなんだ?
 だが、考えようとしても思考は形をなさずに崩れていく。襲ってくる「力」のせいだと思うものの、少年にはどうすることもできなかった。

「殿下にあだなす者は、魔女だろうが巫女みこだろうが許すわけにはいかない!」
「……だめ、だ……」

 かろうじてつむいだ言葉も護衛の耳には届かない。止めなければと思うのに、意識は急速に遠のいていく。
 ――だめだ。魔女ではなくて、彼女は……
 剣を手に、女性に向かっていく護衛。その足音を聞きながら少年は気を失った。
 他の護衛たちが、異変を感じて駆けつけた時――そこには気を失った少年と、無残に切り裂かれて血の海に沈んだ護衛の遺体。そして他にもう一つ、魔女のものと思われる血溜まりだけが残されていた。


 ――それ以後、「沈黙の森の魔女」の姿を見た者はいない。



   第一章 辺境の侯爵令嬢と呪われた王子


 竜王の末裔まつえいが治めるグリーグバルトは、三方を海に囲まれた海洋王国だ。隣国と陸続きである北部は、深い森にぐるりと囲まれている。人々から「沈黙の森」と呼ばれるその森には、怖い魔女がいると言われていた。一度入ったら出てこられないと恐れられ、地元の人間もほとんど近づかない。
 ところが、そんな森に平然と足を踏み入れる娘がいた。他の人々にとっては魔女がいる恐ろしい森でも、その娘――フィリーネにとっては恵みの森なのだ。
 今日もまた彼女はそこに分け入り、森の恵みをせっせと収穫していた。赤い林檎りんごをたくさんつけた木に手を伸ばし、果実を傷つけないよう優しくもぎ取っていく。背中の真ん中まで伸びた濃い褐色かっしょくの髪が、フィリーネが動くたびに揺れていた。
 手の届く範囲にある林檎のうち、最後の一つをもぎ取ると、彼女は足元を見下ろした。

「これくらいでいいかしら?」

 林檎が山盛りになったかごを見て、フィリーネは満足そうに笑う。
 これだけあれば、しばらくお金に困ることはない。
 最後の林檎を籠に入れると、フィリーネは木に向かって手を合わせた。

「竜王様、森の魔女様、森の恵みをありがとうございます」

 感謝の言葉を口にしたあと、かごを両腕に抱えて出口の方角へと進む。
 この「沈黙の森」には誰も近寄らないため、道らしい道はない。あるとしたら獣道くらいだ。けれどフィリーネは慣れたもので、木と木の間をすり抜け、鬱蒼うっそうとした森から迷うことなく出た。
 そして、待機させておいた荷馬車に林檎りんごの籠を載せる。木との間をもう何往復もしたので、荷台には林檎の入った籠がいくつも置かれていた。全てフィリーネの労働の成果だ。
 汗を拭って一息つくと、フィリーネは馬車の御者台ぎょしゃだいに乗り込む。そして馬の手綱を引いてデコボコの道を進んだ。
 家に帰ったら、家政婦のヘザーにパイを作ってもらおう。ヘザーが作るアップルパイは絶品だから、街に出て売ればいい値段になる。残りは砂糖漬けやジャムにして売ればいい。
 林檎の活用方法をあれこれ考えながら、フィリーネは馬車を走らせる。途中、彼女の姿に気づいた領民が、農作業の手を休めて手を振った。それに手を振り返しつつ馬車を進めると、やがて大きな屋敷が見えてきた。小高い丘の上にどんと立つその屋敷が、フィリーネの家であるキルシュ侯爵邸だ。
 遠くから見れば、侯爵家の名に相応ふさわしく大きく立派に見えるだろう。だが近づくにつれて、その印象は変わっていく。かつてレンガ色だった壁はくすみ、つたい回っている。いくつかの部屋の窓ガラスは割れており、雨風が中に入らないよう内側から木を打ちつけてあった。
 廃墟とまではいかないまでも、それに近い状態だ。
 所々崩れた塀をぐるりと回り込みながら、フィリーネは屋敷を見上げてため息をつく。収穫した林檎をいくら売ったとしても、修理費用をまかなうことは不可能だろう。

「……空からお金が降ってこないかしら……?」

 思わずそんな言葉が口から漏れる。十九歳の若い女性には似合わない言葉だが、すでに口癖になってしまっていた。
 こんなフィリーネだが、一応侯爵令嬢という肩書きを持っている。荷馬車を使って一人で森に出かけようが、質素な服を身にまとっていようが、舞踏会や夜会などのきらびやかな場に一度も行ったことがなかろうが、れっきとした貴族の一員だ。
 キルシュ侯爵家といえば、由緒正しい家柄として知られている。大昔には宰相や大臣といった人材を輩出はいしゅつし、時の国王の妹姫が降嫁こうかしたこともあった。それが今や広大だった領地のほとんどを売り払い、庶民同様の暮らしを余儀なくされている。それもこれも全ては曽祖父の放蕩ほうとうのせいだった。
 フィリーネの曽祖父――先々代のキルシュ侯爵は女遊びや賭け事に明け暮れ、あっという間に身代を潰してしまった。その上、莫大な借金まで残して亡くなったのだ。跡を継いだ祖父は仕方なく領地を切り売りしてしのいだが、領地が減ればそれだけ収入も少なくなる。借金を返すために領地を売るという悪循環を繰り返した結果、フィリーネの父がまだ小さいうちに立ち行かなくなってしまったという。
 零落れいらくして王都の屋敷を畳み、狭い領地に引っ込むしかなくなったキルシュ侯爵家は、次第に貴族社会から忘れられていった。
 フィリーネも正直なところ、貴族令嬢としての自覚はなかった。なぜなら大きな屋敷に住み、領民からお嬢様と呼ばれていようが、暮らし向きは彼らとほとんど変わらないのだ。使用人も少なく、父が幼い頃からキルシュ家に仕えてくれている、ベンとヘザーという名の老夫婦だけであった。
 給料もろくに払えないのに、見捨てずにいてくれる二人には感謝している。せめて彼らが引退する時に生活の心配がいらないくらいの退職金を渡してあげたい、というのが当面のフィリーネの目標だ。

「……うーん。何かお金がぱーっと稼げる方法はないかしら?」

 そう呟いた時、正門の方からベンが走ってくるのが見えた。

「お嬢様ぁ!」
「あら、ベン。どうしたの?」

 いつもはおっとりしているベンの慌てように、フィリーネは眉をひそめる。馬車を止めて待っていると、近くに来たベンが興奮した様子で言った。

「コール様がいらしてますよ、お嬢様! すぐに応接室の方へいらしてください!」
「メルヴィンおじ様が……?」

 メルヴィン・コール伯爵はフィリーネの父の幼馴染おさななじみだ。キルシュ侯爵家が零落れいらくして田舎の領地に引っ込んだあとも交流が続いている、数少ない貴族のうちの一人でもある。

「まぁ、メルヴィンおじ様がここに来るなんて何年ぶりかしら」

 何しろ彼は、このグリーグバルトの宰相を務めているのだ。以前はお土産を手に時々訪ねてきてくれたが、宰相になってからは忙しいようで、久しく訪れていない。

「前にいらしてからもう五年になりますよ、お嬢様」

 ベンはさらりと答える。年をとっても記憶力のよさは健在だ。

「もうそんなになるのね」

 フィリーネが頷きながらしみじみと呟くと、ベンは何かを思い出したようにハッとしたあと、馬車の方へ身を乗り出した。

「そんなことより、コール様がお嬢様にいい話があると!」
「いい話?」

 なんのことだか分からずキョトンとしたフィリーネだが、その意味を悟って目を丸くする。
 妙齢の自分に持ってこられた「いい話」とくれば、縁談しかないだろう。
 どうりでベンがこんなに興奮しているわけだ。彼は常日頃からフィリーネの結婚について心配していたのだから。

「コール様のご紹介なら、きっととてもいいお相手に違いありません。もう、お嬢様がお金の心配をする必要もなくなるでしょう。もともとお嬢様は器量よしなのです。キルシュ侯爵家が貧窮ひんきゅうしているとはいえ、社交界に出れば引く手あまただったはずですよ」
「……家が貧窮しているというのは由々しき問題よ、ベン」

 十九歳といえば、この国では結婚適齢期真っ只中だ。それに貴族の令嬢なのだから、縁談の一つや二つあってもおかしくない。けれど、家が持参金も用意できないほど貧乏で、社交界デビューすら果たしていないフィリーネに縁談は皆無かいむだった。
 フィリーネ自身も結婚は諦めている。それに、家の経済状況のことばかり心配していて、自分の将来のことなど考えられないのが実情だ。だからこそベンも心配しているのだが……

「とにかく話を聞いてみるわ。応接室ね」

 フィリーネは馬車を降りながら尋ねた。馬の手綱をフィリーネから受け取りつつ、ベンは頷く。

「はい。旦那様と奥様も、応接室でお嬢様の帰りを待っております」
「じゃあベン、この林檎りんごを貯蔵庫に運んでおいて。話を聞いたらすぐ手伝いに行くから」

 その言葉を聞いたベンは、しわだらけの顔に笑みを浮かべた。

「これしきのこと、私一人でも平気ですよ。それより皆さんお待ちですから、お急ぎください」
「分かったわ」

 フィリーネはスカートをひるがえし、貴族女性とはとても思えない軽い足どりで応接室へ向かった。


「おお、フィリーネか。すっかり綺麗なお嬢さんになったね」

 応接室に入ったフィリーネを迎えてくれたのは、ふっくらした顔に人のよさそうな笑みを浮かべるメルヴィン・コール宰相だった。

「いらっしゃいませ、メルヴィンおじ様」

 つられて笑みを返しながらフィリーネは挨拶あいさつをする。

「小さかったフィリーネがこんなに大きくなるなんて、私たちも年を取るはずだな、アイザック」

 コール宰相はフィリーネの父親であるアイザック・キルシュ侯爵に視線を向けた。キルシュ侯爵は、微笑しながら頷く。

「そうだな」
「あら、おじ様は最後に会った時から、ちっとも変わってらっしゃらないわ」

 母親の隣に腰を下ろしつつ、フィリーネはコール宰相に告げた。
 痩せ型の父の倍はあると思われる、恰幅かっぷくのよい身体。丸っこい目をした姿は、なんとなくたぬきを思わせる。そんな彼を一目見ただけで、「グリーグバルトにこの人あり」と言われるほど有能な宰相だと思う人はいないだろう。

「で、メルヴィン。忙しい君がわざわざこんな辺鄙へんぴな場所までやってくるほどいい話とは、一体なんなんだい?」

 キルシュ侯爵が身を乗り出して尋ねる。フィリーネはおや? と眉を上げた。メルヴィンが持ってきた「いい話」がなんであるかは、両親もまだ知らないらしい。
 フィリーネの考えていることが分かったのか、母親のキルシュ侯爵夫人が困ったような笑みを浮かべてささやく。

「メルヴィン様が、あなたに直接話したいとおっしゃってね」
「私に直接……?」

 それはおかしい。貴族令嬢の縁談となれば、まず親に話を通すのが一般的だ。いくら没落していようが、平民同然の生活を送っていようが、キルシュ家は一応貴族社会に名をつらねている。
 ――なのに、私に直接話したいだなんて……
 これはどう考えても縁談ではなさそうだ。もしかしたら、フィリーネにいい働き口でも見つけてきてくれたのかもしれない。
 ……結果として、このフィリーネの考えは間違っていたが、ある意味正解だったとも言える。コール宰相はフィリーネをじっと見つめ、背筋を伸ばしてこう切り出した。

「そのことなんだが、フィリーネ。王太子妃になってはくれまいか?」
「――――は?」

 フィリーネの口がポカンと開いた。


 竜王の国、神に愛された国とも呼ばれるグリーグバルト。大陸有数の大国であるこの地を治めているのは、竜王の末裔まつえいと言われる王族だ。
 現国王夫妻の間には一人の男子がいる。今年二十四歳になる王太子のジェスライールだ。
 彼が若い頃の国王によく似た美男子で、女性たちの憧れの的だということは、辺境の地に住むフィリーネですら知っている。彼が誰を伴侶はんりょに選ぶのか、国中の人々が固唾かたずを呑んで見守っていることも。

「フィリーネがジェスライール王子の妃に?」

 キルシュ侯爵夫妻もフィリーネの隣であんぐりと口を開けている。三人の驚きを他所よそに、コール宰相はにこにこと笑いながら何度も頷いた。

「ああ、実に名誉なことだろう。なあに、曲がりなりにも侯爵令嬢だ。王族にしてもなんの問題もない」
「……ちょっと待ってください、メルヴィンおじ様!」

 ようやく声を出せるようになったフィリーネは、慌てて口を挟んだ。
 確かに侯爵家といえば、公爵家に次いで高い地位になる。ここが普通の国なら、侯爵令嬢が王太子妃に選ばれたとしてもなんの問題もないだろう。
 けれど、ここグリーグバルトに限っては違うのだ。

「ジェスライール殿下のつがいは? 番はどうしたんです? 王族の妃には、番がなるのが習わしでしょう?」

 そう、グリーグバルトの王族は人であって人ではない。かつてこの世界の生物の頂点に立っていた竜族。その血を継ぐ、半竜半人なのだ。今やその血は薄れ、竜の姿を取ることはできないものの、常人が持ち得ない強大な「力」を持っているという。
 それだけでなく、王族は竜族特有の性質も継いでいた。その最たる例が、番と呼ばれるたった一人の異性を伴侶に選ぶことだった。
 番に選ばれる相手は貴族も平民も関係ない。現に今の国王の番である王妃は、外交官の娘で下位の貴族出身だ。
 王族はひとたび番を選べばその相手だけを愛し、他の異性には見向きもしないらしい。そのため、番は自動的に結婚相手として迎えられるのが習わしだった。
 キルシュ侯爵夫人が、ぱぁっと顔を輝かせる。

「もしや、フィリーネが王太子殿下のつがいなの?」

 王族の番に選ばれ、一途いちずに愛されることは、グリーグバルトの女性なら誰もが夢見るシチュエーションだ。自分の娘が王太子の番に選ばれたのだと考え、夫人が興奮するのも無理はない。
 けれど、コール宰相は首を横に振った。

「いや、違う。番に選ばれたわけじゃないんだ」

 でしょうね、とフィリーネは内心呟く。社交界デビューどころか、一度も王都に行ったことがないフィリーネは、当然王太子とも面識がない。そんな彼女が番に選ばれるわけがないのだ。

「では、なぜフィリーネを王太子妃に?」

 キルシュ侯爵が不思議そうに首を傾げる。コール宰相は扉の方をちらりと見て、人の気配がないのを確認すると、声をひそめて告げた。

「これは本来なら国家秘密なんだ。だからこれから私が話すことは、他の誰にも言わないでほしい。もちろんベンたちにもな」
「……何か重大な事情があるんだな。分かった。誰にも言わないと誓おう」

 神妙な顔でキルシュ侯爵が頷き、夫人もそれにならう。最後にフィリーネが頷くのを見て取ると、コール宰相は重々しく口を開いた。

「実は王太子……ジェスライール殿下には呪いがかけられていて、番を選ぶことができんのだ」
「……番を選ぶことができなくなる呪い?」

 フィリーネは目を大きく見開いた。

「正確に言えば、番が誰だか分からなくなる呪いだ。そのため、殿下は番を選ぶことができない」
「では、殿下が二十四歳になっても未だ番を選ばないのは、その人とまだ出会ってないからではなくて……」
「会っても分からないので、選びようがないだけだ」
「……なんということだ。確かにそれは一大事だな」

 キルシュ侯爵が眉を寄せて呟く。直後、彼はふと何かに気づいたように顔を上げた。

「王族に呪いをかけることができるとは、相手は一体何者だ? まさかグローヴ国の者かい?」

 グローヴ国というのはグリーグバルトの隣国だ。半島であるこの国と「沈黙の森」を挟んで唯一国境を接している。だが、グリーグバルトの豊かな領土を狙い、幾度も侵攻されかけた歴史があり、お世辞にも良好な関係とは言えない。

「いや、確かにグローヴ国は色々ときな臭いが、殿下の呪いに関しては違う。ジェスライール殿下に呪いをかけたのは、『沈黙の森の魔女』だ」
「魔女が?」

 予想もしなかった言葉に、フィリーネたちは戸惑う。
「沈黙の森」には魔女がいて、森に入った人間を惑わすというのは、お伽噺とぎばなしのように広く伝わっている。だが、魔女に呪われたなどという話は聞いたことがなかった。そもそも魔女の姿を直接見た者はおらず、存在を信じない人も多い。

「本当に『沈黙の森の魔女』なのかい?」
「ああ。殿下は十二歳の時に沈黙の森で魔女と顔を合わせ、その時に呪いをかけられた。その呪いは強力で、十二年経った今も解けないままだ」

 コール宰相は深いため息をつく。

「けれど、殿下には『つがい』が必要だ。いや、このグリーグバルト国にとって必要なのだ。そこで、フィリーネに白羽の矢が立った。表向きは番に選ばれたということにして、さっそく宮殿に……」
「待って! 待ってください、メルヴィンおじ様!」

 フィリーネは慌ててコール宰相の言葉をさえぎった。

「つまり、おじ様は私に全国民をだまして、偽物の番になれと言ってるのね?」
「かいつまんで言うと、そういうことだ」

 大きく頷くコール宰相に、フィリーネは胡乱うろんな目を向ける。
 王太子が番を見いだせないというのは確かに大問題だ。けれど、だからといって偽物の番を王太子妃に据えるとは、いささか乱暴すぎやしないだろうか?
 しかも、偽物の番に選ばれたのが自分となれば、笑うに笑えない。

「国民に正直に説明した方がいいんじゃないの? ジェスライール殿下の事情を」

 そう言いながらもフィリーネには分かっていた。国民に向かって王太子が呪われていると発表するのは難しいだろうと。
 国王の子どもはジェスライール王子ただ一人で、代わりはいない。将来の国王が呪われているなどと知られたら混乱は必至だ。
 当然、コール宰相は首を横に振った。

「そんなことはできない。殿下の事情を国民に知らせたら、国が傾きかねんからな」
「まさか。そんな大げさな……」

 思わず口にしたフィリーネを、コール宰相はじろりとにらんだ。

「この国にとって王族の番がどれだけ重要かを、フィリーネは理解できていないようだな。いいかい、フィリーネ。この国が豊かなのも、竜の血を継ぐ王族がいるからなのだ。それくらいは習っているだろう?」
「そりゃあ、知っているけれど……」

 かつて、ここは何も生み出さない不毛な大地だったという。だが竜王が人間の娘を番に選び、この地に国をおこした。自然を操る竜王の力によって大地はうるおい、豊かな国土となったらしい。
 竜王が亡くなり数千年の時を経た今も、この国は災害に見舞われることなく、恵み豊かな地であり続けている。それは、竜王の力を継ぐ王族がいるからこそ……というのは小さな子どもでも知っていた。
 けれど正直に言って、フィリーネは真実だと思っていない。王族の求心力を失わないための方便だと考えていたのだ。……王族至上主義なコール宰相の前ではとても口にできないが。

「そして王族が竜の力を維持できているのは、次代を生み出す『番』のおかげだ。ジェスライール殿下の問題は、わが国の存続に関わる。特にグローヴ国の動きが活発になってきている今はな」

 そのコール宰相の言葉に、キルシュ侯爵がハッと顔を上げた。

「グローヴ国が戦争の準備をしているという噂は本当なのか?」
「え?」

 初耳だったフィリーネは驚いて父親の顔を見る。その視線を受けて、キルシュ侯爵が困ったように微笑んだ。

「流れの商人がそんなことを言っていたと、村人が報告してくれたんだよ。まさかと思って、本気にしてはいなかったんだが……」
「グローヴ国の噂はもう、ここにまで届いているのか」

 コール宰相は顔をしかめたあと、重々しく頷いた。

「噂は本当だ。やつらはまたこの国に侵攻しようと、戦争の準備を始めておる」
「なんてことだ。ここしばらくの間は平和だったのに……」

 グローヴ国が前回戦争を仕掛けてきたのは、もう二十六年も前のことだ。その時は陸と海から同時に攻めてきたのだが、陸からの軍勢は「沈黙の森」を越えることができず、また海からの軍勢もグリーグバルトには到達できなかった。当時はまだ王太子だったジークフリード国王が自ら海軍を率い、グローヴ国の船団を殲滅せんめつさせたのだ。

「なあに、今度も殿下たちのお力があれば、グローヴ国など恐るるに足りん」

 胸を張って言うコール宰相だったが、不意に肩を落とした。

「……と言いたいところだが、今回は不安要素がある。ジェスライール殿下が呪いのせいでつがいを見いだせないことを、なぜかグローヴ国は知っておるのだ」
「なんですって?」

 フィリーネたちは息を呑んだ。

「殿下の呪いのことはごくわずかな人間にしか知らされておらず、極秘とされている。現にグリーグバルトの国民に漏れた形跡はない。けれど、つい最近グローヴ国に放っていた密偵から、驚くべき報告があったのだ。なぜかグローヴ国の王や重鎮が殿下の呪いのことを知っていて、これを侵攻の好機と見ているとな」
「誰かが秘密を暴露した……ってこと?」

 フィリーネが恐る恐る尋ねると、コール宰相は首を横に振った。

「分からない。グローヴ国も我が国に密偵を放っているだろうから、そういった者たちが探り当てたのかもしれない。なんにせよ、戦争が始まればやつらはその事実を流布るふし、国民を動揺させようとするだろう」
「でも……たとえ国民を動揺させたって、簡単に侵攻できるとは思えないわ。だってグローヴ国との間には森があるもの。あそこは越えられないでしょう?」

 この国は大陸から南に突き出た半島である。そして国の北側には、「沈黙の森」がまるでふたをするかのように横たわっていた。陸から攻めるなら森を通らなければならないが、今まで他国の軍隊が森を越えられたことはない。森はずっとこの国を敵の侵攻から守ってきたのだ。
 国民が森を恐れる一方でうやまってもいるのはそのためだ。けれど、人々の森に対する畏怖いふの感情が、ジェスライール王子にとって不利になるかもしれないとコール宰相は言う。

「その『沈黙の森』の魔女に殿下は呪われているのだ。グローヴ国の軍隊が魔女を味方につけ、今度こそ森を越えて侵攻してくるかもしれない――国民がそんな不安を抱けば、足並みは崩れるだろう」

 少なくとも、王族の求心力が低下するのは必至だ。

「だからこそ、殿下のつがいが今すぐ必要なのだ。殿下が番を見つけてめとり、この国にはなんの不安要素もないことを内外に示さねばならない」

 なるほど、とフィリーネは納得する。どうりでコール宰相が慌てて偽物の番を王太子妃にしようとしているわけだ。殿下が番を見つけたと示せばグローヴ国の動きを封じられるだけでなく、国民の不安を払拭ふっしょくすることもできる。
 番に目に見える印はなく、誰が番なのかを知ることができるのはジェスライール王子だけだ。裏を返せば、彼が番だと認めれば、誰も異を唱えることはできない。


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