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3巻
3-2
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私は開いた口を閉じるのも忘れて、建物の中から一連のことを見ておりましたが、アルフリード様たちが動き始めるのを見届けると、ようやく口を閉じ――そして、次の瞬間には吹き出しておりました。
他人の不幸を笑ってはいけないと思いつつも、我慢できません。脳裏にあの白いドロワース姿が焼きついて、離れないのです。手で口を押さえながら、私はくすくす笑い続けました。
今回のことは、ラビニア様にとっては謹慎や登城禁止よりはるかに辛い罰になったのではないでしょうか。だって、この話は絶対に面白おかしく広められますもの。王子の前で、さらに賓客の前での粗相は、プライドの高いラビニア様にとって何よりの痛手となるに違いありません。
気の毒だとは思います。けれど、これでしばらくの間は城に顔を出せないだろうと思うと、愉快になる気持ちを抑えることができません。他人の不幸は蜜の味ってこういうことを言うのでしょうね。ぷぷぷ。それにしても、あのドロワース姿といったら……!
ようやく笑うのをやめて目尻に溜まった涙を拭うと、私は顔を上げ、何もない空間に向かって言いました。
「あの、ありがとうございました。おかげさまで、ちょっと溜飲が下がりました」
ラビニア様の身に起こった不幸な出来事は、言うまでもなく精霊たちの仕業でしょう。だってコケるだけならまだしも、ドレスがめくれ上がるほどの風が、タイミングよく吹くわけありませんもの。
ドレスって、布やレースを何枚も重ねているからけっこう重たいんですよ。特に、ああいったフレアのドレスは。多少風が吹いたくらいで、めくれ上がるものではありません。ましてや、ラビニア様の周囲だけ突風が吹くなどあり得ないことです。
私の悪口――というよりグリード様に対する侮辱に腹を立てて、ラビニア様にお仕置きをしたのだと思います。精霊たちはグリード様のことが大好きなので。いささかやりすぎの感はありますが、グッジョブと言いたいです。おかげでエリューシオンに行くまでの間、ラビニア様と会わなくて済みそうです。
私のお礼に応えるように、風がふっと私の頬を撫でていきました。一回、二回と。それに、気のせいでしょうか、何やらくすくすと楽しそうに笑う声が聞こえたような? だけど、廊下にいるのは私だけ。他に人の姿は見えません。私は生まれて初めて、精霊の気配を感じられた気がしました。
知識の上では、いることがわかっている存在。けれど、決して見ることはできなかった遠い存在。それを、確かに感じられたのです。
私は、知らず知らずのうちに笑顔になっていました。ラビニア様と遭遇した後のささくれ立った気持ちはすっかり消えうせ、残ったのは何だか楽しく、そして温かな気持ちでした。
私は「姫様の部屋に戻りましょう」と何もない空間に向かって言うと、軽い足取りで歩き出しました。
けれど、心の中でしっかりツッコんでおくのを忘れません。
……やっぱり私、精霊にひっつかれて行動を監視されているんですね――と。
3 場所が変わればイベントが起こるもの
「あれ、ノーウェン君?」
ラビニア様事件から数日経った今日、城の通用門に向かう途中で見知った人物を見かけた私は、思わず声をかけました。
「あ、アーリアさん。こんにちは!」
振り返ってそう言ったのは、ふわふわな茶色の髪と翡翠のような目を持つ少年。見習い魔法使いのノーウェン君でした。王家専属の魔法使いである、ファミール様のお弟子さんです。
「ノーウェン君は、お遣いですか?」
彼も通用門に向かって歩いていましたが、魔法使いのローブは身につけたまま。休暇で外出するのなら私服に着替えるでしょうから、おそらく仕事で外出するのでしょう。
実は、魔法使いの外出は厳しく制限されているのです。休日でも城の外に出るには許可が必要で、その許可もなかなか下りないくらいです。
というのも城の結界を維持するためには、一定の魔力を注ぎ続ける必要があるからです。その役割を担っているのが、ファミール様を筆頭とする国付きの魔法使いたち。彼らが仕事場であり住居でもある「魔法使いの塔」にいるだけで、城の結界に魔力が供給される仕組みになっているのです。そのため、城内にいる魔法使いの人数は、神経質なほど管理されているのです。
ノーウェン君はまだ見習いなので外出許可が下りやすく、よく他の魔法使いたちに用事を頼まれて城下町に下りるそうです。案の定、ノーウェン君は私の言葉にうなずきました。
「そうなんです。お師匠様のお遣いで、城下町の魔具屋に行く予定なんです。アーリアさんは休日ですね?」
確信めいた口調なのは、私がいつもの侍女服ではなくピンクのワンピースを着て、買い物籠を持っているからでしょう。私はにっこり笑ってうなずきました。
「ええ、まる一日休暇をいただいたのです」
半日の休みは時々あるのですが、まる一日の休みをいただいたのは、とても久しぶりです。
実は侍女というのは休みが少ないのです。主の身の回りのお世話をするという仕事の性質上、交代で休暇を取るしかありません。さらに、姫様付きの第一、第二侍女くらいになると、ますます休みは少なくなります。姫様のお世話という大切な仕事を慣れない新人だけに任せることはできないからです。
おかげで私とベリンダは、姫様の公務の予定などを考慮しつつ、半日ずつ交代で休みを取ることになってしまいます。だから、まる一日休みを取ることができたのは、何ヵ月ぶりでしょうか。
実はこの休暇を取ることになったのは、隣国アルバトロに嫁がれたマリアージュ様の里帰りが決定したからなのです。
魔王に攫われた妹のルイーゼ様をいたく心配しておられたマリアージュ様ですが、皇太子妃ともなると、隣国とはいえおいそれと里帰りはできません。ですが、どうしても妹姫の無事をその目で確かめたいという希望が叶い、里帰りが実現することになったのです。しかも、今回は夫君であらせられるロートリッシュ皇太子殿下と、その妹のティアナ様もご一緒されるとか。つまり、隣国の王族が一度に三人も訪れるわけですよ。
ラビニア様のドロワース事件に居合わせた賓客らしき男性。あの方はアルバトロの外務大臣で、その件について協議するために訪問されていたのです。お忍びならともかく、一国の王族が他国を公式に訪れるというのは、ものすごく大変なことなのです。いろいろな手順を踏む必要がありますから。
これがマリアージュ様だけならまだしも、皇太子殿下に、我が国の王子様方のお妃候補にも名前が挙がっているティアナ様までいらっしゃるのですから、そりゃもう、お祭り騒ぎです。歓迎式典やら舞踏会やらが開かれるのは必至なので、今から城中がその準備に追われているのです。
私たち侍女は、基本的に主の世話をするのが仕事。ですから今回も、歓迎式典や舞踏会に備えて姫様のドレスを用意したり装飾品を選んだり、準備といってもそんなことだけで済んだはずでした。しかし侍女長様の依頼で、私たち姫様付きの侍女も何人か、舞踏会の準備を手伝うことになったのです。当然、その間は姫様のお世話をする人数が減るわけですから、休みは取りづらくなります。なので先に休暇を取っておこうということになり、私も前倒しで休みをもらえることになったわけです。
「それで城下町に?」
ノーウェン君の問いに、うなずいて答えます。
「ええ、こんな機会でもないと行けないですからね」
今までも、半日の休暇を利用して城の外に買出しに行ったりはしていました。しかし、姫様が攫われてからというもの、とても外出する気になどなれず……。姫様が帰って来た後も、勇者様の求婚騒ぎで新聞記者などに狙われていることもあり、城の外に出ることはできなかったのです。
もちろん、まだ城の近辺を『勇者タイムズ』の記者がうろついていることに変わりはありません。ですが先日、城の外に出たベリンダが、記者に呼び止められて見せられた例の号外。その紙面を飾った私の似顔絵――それも目隠し無しバージョン――は、私にまったく似ていなかったらしいのです。おそらく記者が、城の誰かから聞いた話を基に描いたものの、どこにでもいる顔なので、特徴を捉えられなかったのでしょう。それなら記者など怖くありません。ふっ、モブ顔万歳ですよ。
……いえね、私だって馬鹿ではないですから、危険は承知しています。勇者様の(不本意ながら)婚約者として、記者だけではなくその他のよからぬことを企てる者たちにとっても、絶好の標的になり得るでしょう。ですが、一生城の中にいるわけにはいきません。お茶っ葉も補充しなければならないし、実家の母に街で人気のお菓子などを手紙と一緒に送ってあげたいのです。
幸いにも、王様や宰相様による情報統制が効いているのか、私の名前や正しい容姿はまだ漏れていないようです。だから、今なら大丈夫かな、なんて思うのです。警護の人間をつけてもらうことも考えましたが……どこの街娘が、兵士を引き連れて買い物をするでしょうか。……値切れんわ!
グリード様たちは論外です。頼めばついて来てくれるのでしょうけど、誰があんな目立つ連中を連れて歩きたいものですか。一緒に歩くなど、私が(不本意ながら)グリード様の婚約者であると宣伝しているも同然ですもの。それに今回、勇者様ご一行には外出のことは伝えていません。知っているのは姫様とベリンダだけです。
ノーウェン君は、顔を綻ばせて言いました。
「外出は楽しいですよね。僕も仕事とはいえ、城下町に下りるのがすごく楽しみなんです。あ、でも記者がうろついているらしいので、アーリアさんはくれぐれも気をつけてくださいね」
「ええ。もちろん」
と言いつつも、私はあまり心配はしていませんでした。だって――私には秘密兵器があるのですから。
先日のラビニア様事件の時に確信したことですが、私はグリード様たちの命を受けた精霊に張り付かれているのです。おそらく、彼らは私を監視するだけじゃなくて、危険から守るという命も受けているのではないかと思うのです。私に会おうとするアルフリード様の妨害をしているくらいですから、本体を守れと命じられてないわけがないですものね。……というか、守護しろよとツッコミを入れさせていただきます。
つまり、私には目に見えない護衛がついているも同然なのです。これを利用しない手はないではありませんか。それに、グリード様にはその精霊を通して私の行動が筒抜けのはずなのに、ここに至るまで妨害がなかったということは……外出を許可されたも同然ですよね? ええ、特に聞きもしませんが、そう思うことにいたします。
「じゃあ、楽しんで行って来てください」
「ノーウェン君も、お仕事しっかりね」
別の知り合いに呼び止められたノーウェン君と挨拶を交わして別れ、私は通用門に向かいます。
「こんにちは、お疲れ様です」
あれ? という顔をする守衛の兵士に声をかけて、通用門から城の外へ一歩踏み出しました。
久しぶりの外出に浮かれる私は、その時左の手首にある婚約腕輪が一瞬だけ光ったことに、気づきませんでした。
* * *
門を出てすぐ、城下町へ続く坂で、私はさっそく記者らしき若い男と遭遇してしまいました。しかし、彼は城から出て来る人間に片っ端から声をかけているだけで、私を「勇者が求婚した侍女Aさん」だと認識していたわけではありません。
ベリンダが言っていたことは本当でした。彼が手にしていた似顔絵は、目隠しされた状態だと似ているようにも見えましたが、目隠しのないものは何か違うのです。似ているといえば似ていますが、それを見て絶対私だと思えるようなものではありません。
私は、これはいける! と思いました。城の食堂で働いているべリンダですと名乗り、すっとぼけたのです。それでも、ちょっとばかり疑われてはいたようですが、精霊さんたちの協力で彼が転んでいる間に、さっさと逃げることに成功したのです。ふぅ。
と、初っ端から記者に出くわしてしまいましたが、気を取り直して私は坂を下りました。
シュワルゼの城は高台に築かれていて、その城を中心に、放射状に城下町が広がっています。城の正門から続く道を進めば、やがて街のメイン通りに出ます。
メイン通りの、城に近い一画には貴族たちの邸宅が立ち並び、その付近はお店も高級店ばかりです。城の御用達である高級茶屋もその界隈にあるらしいのですが、私が行くのはそっちではありません。坂の途中で、私は脇道へ入りました。その先には庶民の住宅とお店が集まるエリアがあるのです。
この街はシュワルゼ国の王都ですから、世界各地からいろいろなものが集まってきます。通りは、荷車を押す人や店先でお客と話す店主、私と同じような格好の女性など、様々な人たちがいて、活気に溢れていました。私は完全に街娘として周囲に溶け込……いえ埋没しながら、商店が立ち並ぶにぎやかな通りを進みます。
途中、お菓子屋さんでエリューシオン産のブラウンベリー入りクッキーを購入したり、雑貨屋で持っている茶器にピッタリなティーコゼを購入したりします。街の人に交じっての買い物はとても楽しく、気分はウキウキワクワクです。城の中で生活している時には味わえない、何とも言えない解放感に、私は自然と笑顔になっていました。
こうして街娘気分を満喫する私が最後に訪れたのは、今日の買い物の最大の目的でもあるお茶屋さんでした。
姫様が魔王に攫われる前は休みをいただくたびに、ここでお茶っ葉を買っていました。王室御用達の高級茶屋は取り寄せた茶葉をただ売るだけでろくに接客もしてくれませんが、この店は違います。店主のおじさんが研究熱心で、お茶に関することなら何でも答えてくれるのです。値切りにも応じてくれるし、オマケをくれることもあります。
……ちなみに、高級茶屋は値切りにはまったく応じてくれません。ちぇっ。
「おじさーん。お久しぶりです!」
私は店の中でお茶を啜っている、頭の禿げかかった店主に声をかけました。
「おや、アーちゃんじゃないか! 久しぶりだね、最近来ないから何かあったのかと心配してたよ」
「すみません。いろいろあって外出がままならなかったんです」
おじさんは私のことを「アーちゃん」と呼びます。というか、常連客は誰でもそんな風に呼んでいるのです。ダールスという名前のいい年したオッサンを「ダーちゃん」と呼ぶのを聞いた時には思わず「そりゃないだろう」というツッコミが喉まで出かかりました、ええ。
アーリアだから「アーちゃん」。ダールスだから「ダーちゃん」。ネーミングセンスは皆無のようです。私がベリンダという名前だったら、「ベーちゃん」って呼ばれていたに違いありません。……アーリアでよかったです。何となく。
どうしてお客を愛称で呼ぶのか、おじさんの奥様に聞いてみたところ、どうやら人の名前を覚えるのが苦手なようです。それで、覚えやすい愛称をつけているらしいんですよね。
おそらく、おじさんは私が「ア」のつく名前であることのみ記憶しているのでしょう。
……まぁいいんですよ。どうせモブ顔ですから、正式な名前を覚えてなくても。だってそれが私を助けることもあるのですから。ほら、現に今だって――
「確かお城に勤めているって言ってたもんなぁ、アーちゃんは。姫様が魔族に攫われて戻って来たと思ったら、今はその姫様を助けた勇者の一行が滞在しているというし、そりゃあ忙しかろうよ。……あれ? そういえば号外に出ていた、勇者が求婚した侍女Aって……」
おじさんが私の顔をマジマジと見つめるので、思わずギクリとしてしまいました。鼓動がバクンバクンと大いに乱れます。だって不意打ちだったんですもの!
ですが、どうにか平静を装って答えました。
「私ではありません。だって、私は侍女ではなくて食堂の給仕係ですから! 同じような茶色の髪と瞳だし、Aから始まる名前だからよく間違われますが……違いますからね?」
その言葉に、おじさんは「そうだなぁ」と笑いました。
「あの号外の絵はわかりづらいよな。茶色の髪に茶色の瞳なんていう大雑把な情報じゃ、当てはまる人間はたくさんいるに違いないさ」
「ええ、そうですよ。私のようなモブ顔など、いっくらでもいますとも!」
……今日の私の演技力は冴えているかもしれません。にわかに自信を持った私は、その後のおじさんの言葉にも動じませんでした。
「アーちゃんは名前もAだしな……って、そういえばアーちゃんの名前って何だったかな? ごめんよ、おじさんすっかり忘れちゃったよ」
ハハと笑って頭の後ろを掻くおじさんに、私はにっこり笑って答えました。
「アミーリア。アミーリアです。おじさん」
妙に偽名を使うハメになる日です。今日の私は記者にはベリンダ、そしてお茶屋の主人にはアミーリアです。共通項は、食堂で働いていること。……ふむ、心のメモに忘れずに書いておかないといけませんね!
別に、おじさんには本名を名乗ってもよかったのですが、万が一、勇者の婚約者の名前が「アーリア」だということが漏れたりしたら困りますからね。念には念をです。だって、シュワルゼを離れるその日まで、このお茶屋さんには通い続けたいですから。
……さて、お茶屋に来たからには、お茶っ葉を買わねばなりません。
「おじさん、レイクサリダ産の二等茶葉と、いつものブレンドのやつ下さいな。量はいつもの倍で。あ、そういえばこの前買ったベルガモットのフレーバーティーですが、気に入ってくださる方と匂いが気になるという方が半々でした。もっとも、他の茶葉をブレンドすれば気にならないって方がほとんどでしたけど」
「好みだからなぁ。だけど一度気に入ると癖になるんだよね、あれは」
「私も気に入ったので今回も買います! あ、ミンダルク産の茶葉も入荷してる!」
「勇者が魔王をやっつけてくれたおかげで、ようやくミンダルク産の茶葉も出回るようになったよ」
「うん、うん。勇者様には感謝ですね。このミンダルク産の二等茶葉も下さいな、おじさん」
「まいど~」
「もちろん……まけてくださいね?」
私は首を傾げ、にっこり笑っておねだりしました。まぁ、私なんぞがやってもたいして可愛くないとは思います。ですが、これが意外と店主には有効でして……
「もう、仕方ないなぁ。他ならぬアーちゃんの頼みだ。まけてやらぁ!」
「わーい。おじさん、ありがとうございます!」
ああ、この値切れた時の充足感……!
え? 貴族の令嬢らしくない? ええ、ベリンダにもよく言われます。ですが、ちょっとでも安くしてもらった方がいいじゃないですか。貧乏な男爵や子爵の生活なんて、下手をすれば裕福な商人より質素なのですから。
ちなみに、貴族の令嬢がこうして自ら街に買い物に出ることは少なく、商人を屋敷に呼びつけて買うのが一般的です。
「アーちゃんは大切な常連だし、お茶の研究仲間だしね」
バチンと器用に片目だけ瞑ってみせるおじさん。私はそれにも笑顔で応じました。ええ、まけてくれるならいくらでも笑顔になりますとも。それに、今は値切れて嬉しいので自然と笑顔になっています。
その時、不意におじさんがぶるっと身体を震わせました。
「おじさん?」
「いや、何か急に寒気が……」
両手で自分の身体を抱きしめながら言うおじさんに、私は同情の目を向けました。
「風邪のひき始めかもしれません。お大事にしてくださいね?」
目的のお茶っ葉を格安で手に入れてご満悦の私は、おじさんに挨拶をして店の外へ出ました。母へのお土産は買ったし、ティーコゼも買ったし、お茶っ葉も買ったので、外出の目的は全て果たしたことになります。
いつもなら、買い物を終えた後も街中を散策したり、新しい店の開拓をしたりします。けれど、今日はこれで打ち止めにした方がいいかな、なんて思うのですよ。というのも、物語の中では場所を移動すると、イベントというものが起きるのが定番なのです。いつまでも同じ場所だとマンネリ化するので、場所を移動させることによってストーリーを回すという、お話作りの常套手段なのだとか。
もちろん、これは物語ではなくて現実ですから、私が城の外に出て街をふらふらしているからといって、そんなイベントに遭遇することはないと思いますけどね。……でも、用心するに越したことはありません。私は、来た道を城の方へ戻り始めました。
ところが、少し歩いたところで見覚えのある胡散臭い顔を、前方の人ごみに発見してしまったのです。
それは、城の外で出会った新聞記者でした。例の似顔絵を手にしていますから、間違いありません。しかも、彼はその似顔絵を時々見つつ、誰かを探すようにキョロキョロしているではありませんか。
もしかして、もしかしなくても私を追って来たのでしょうか? コケたのを無視して行ってしまったから腹を立てた……なーんてことはあり得ないですよね!
やはり、私が侍女Aだと勘付いた……ということでしょうか。確信するには至らなくとも、記者の第六感が働いたのかもしれません。
私はとっさの判断で、彼がこちらに気づく前にさっと横道に入りました。そして、念には念を入れて、さらにその横道に入ろうとしたのです。
治安の良い街ですが、犯罪がまるっきりないわけではありません。なので、普段の私なら決して裏道に入ったりはしないのです。けれど、記者が通り過ぎるのを待つ間だけ――そう思っての行動でした。
そう、私はこの時スポーンと忘れていたのです。場所が変われば、イベントが発生する確率が高くなることを。
――角を曲がった私は、ぎょっとして足を止めました。
だって、そこには思いもよらない光景があったのですから。
所々崩れている塀。所々抉れている地面。そして、肩で息をしている見習い魔法使いのノーウェン君。
――それだけではありません。
ノーウェン君は険しい表情で、空を見上げています。その視線を追った私は、目を見張りました。
「……え……?」
――その男の第一印象は、黒。
シンプルな黒いズボンに黒いシャツ。そのシャツの襟に届くくらいの長さの髪は群青色です。とても濃く、暗い蒼。……だからでしょうか、全体的に黒っぽい印象を受けるのは。
男は腕を組み、悠然とノーウェン君を見下ろしておりました。笑みを浮かべているその顔は美形の類です。ですが、私が驚いたのは美形だからではありません。最近、私の周囲は美形率がとても高いので、そんなことではもう驚きはしないのです。
私がぎょっとしたのは、男が宙に浮いていたから。そして――長い前髪から覗くその瞳が、血のように赤い色をしていたからです。
私は、その姿を呆然と見つめながら思いました。
――こんな遭遇イベントはいりません、と。
他人の不幸を笑ってはいけないと思いつつも、我慢できません。脳裏にあの白いドロワース姿が焼きついて、離れないのです。手で口を押さえながら、私はくすくす笑い続けました。
今回のことは、ラビニア様にとっては謹慎や登城禁止よりはるかに辛い罰になったのではないでしょうか。だって、この話は絶対に面白おかしく広められますもの。王子の前で、さらに賓客の前での粗相は、プライドの高いラビニア様にとって何よりの痛手となるに違いありません。
気の毒だとは思います。けれど、これでしばらくの間は城に顔を出せないだろうと思うと、愉快になる気持ちを抑えることができません。他人の不幸は蜜の味ってこういうことを言うのでしょうね。ぷぷぷ。それにしても、あのドロワース姿といったら……!
ようやく笑うのをやめて目尻に溜まった涙を拭うと、私は顔を上げ、何もない空間に向かって言いました。
「あの、ありがとうございました。おかげさまで、ちょっと溜飲が下がりました」
ラビニア様の身に起こった不幸な出来事は、言うまでもなく精霊たちの仕業でしょう。だってコケるだけならまだしも、ドレスがめくれ上がるほどの風が、タイミングよく吹くわけありませんもの。
ドレスって、布やレースを何枚も重ねているからけっこう重たいんですよ。特に、ああいったフレアのドレスは。多少風が吹いたくらいで、めくれ上がるものではありません。ましてや、ラビニア様の周囲だけ突風が吹くなどあり得ないことです。
私の悪口――というよりグリード様に対する侮辱に腹を立てて、ラビニア様にお仕置きをしたのだと思います。精霊たちはグリード様のことが大好きなので。いささかやりすぎの感はありますが、グッジョブと言いたいです。おかげでエリューシオンに行くまでの間、ラビニア様と会わなくて済みそうです。
私のお礼に応えるように、風がふっと私の頬を撫でていきました。一回、二回と。それに、気のせいでしょうか、何やらくすくすと楽しそうに笑う声が聞こえたような? だけど、廊下にいるのは私だけ。他に人の姿は見えません。私は生まれて初めて、精霊の気配を感じられた気がしました。
知識の上では、いることがわかっている存在。けれど、決して見ることはできなかった遠い存在。それを、確かに感じられたのです。
私は、知らず知らずのうちに笑顔になっていました。ラビニア様と遭遇した後のささくれ立った気持ちはすっかり消えうせ、残ったのは何だか楽しく、そして温かな気持ちでした。
私は「姫様の部屋に戻りましょう」と何もない空間に向かって言うと、軽い足取りで歩き出しました。
けれど、心の中でしっかりツッコんでおくのを忘れません。
……やっぱり私、精霊にひっつかれて行動を監視されているんですね――と。
3 場所が変わればイベントが起こるもの
「あれ、ノーウェン君?」
ラビニア様事件から数日経った今日、城の通用門に向かう途中で見知った人物を見かけた私は、思わず声をかけました。
「あ、アーリアさん。こんにちは!」
振り返ってそう言ったのは、ふわふわな茶色の髪と翡翠のような目を持つ少年。見習い魔法使いのノーウェン君でした。王家専属の魔法使いである、ファミール様のお弟子さんです。
「ノーウェン君は、お遣いですか?」
彼も通用門に向かって歩いていましたが、魔法使いのローブは身につけたまま。休暇で外出するのなら私服に着替えるでしょうから、おそらく仕事で外出するのでしょう。
実は、魔法使いの外出は厳しく制限されているのです。休日でも城の外に出るには許可が必要で、その許可もなかなか下りないくらいです。
というのも城の結界を維持するためには、一定の魔力を注ぎ続ける必要があるからです。その役割を担っているのが、ファミール様を筆頭とする国付きの魔法使いたち。彼らが仕事場であり住居でもある「魔法使いの塔」にいるだけで、城の結界に魔力が供給される仕組みになっているのです。そのため、城内にいる魔法使いの人数は、神経質なほど管理されているのです。
ノーウェン君はまだ見習いなので外出許可が下りやすく、よく他の魔法使いたちに用事を頼まれて城下町に下りるそうです。案の定、ノーウェン君は私の言葉にうなずきました。
「そうなんです。お師匠様のお遣いで、城下町の魔具屋に行く予定なんです。アーリアさんは休日ですね?」
確信めいた口調なのは、私がいつもの侍女服ではなくピンクのワンピースを着て、買い物籠を持っているからでしょう。私はにっこり笑ってうなずきました。
「ええ、まる一日休暇をいただいたのです」
半日の休みは時々あるのですが、まる一日の休みをいただいたのは、とても久しぶりです。
実は侍女というのは休みが少ないのです。主の身の回りのお世話をするという仕事の性質上、交代で休暇を取るしかありません。さらに、姫様付きの第一、第二侍女くらいになると、ますます休みは少なくなります。姫様のお世話という大切な仕事を慣れない新人だけに任せることはできないからです。
おかげで私とベリンダは、姫様の公務の予定などを考慮しつつ、半日ずつ交代で休みを取ることになってしまいます。だから、まる一日休みを取ることができたのは、何ヵ月ぶりでしょうか。
実はこの休暇を取ることになったのは、隣国アルバトロに嫁がれたマリアージュ様の里帰りが決定したからなのです。
魔王に攫われた妹のルイーゼ様をいたく心配しておられたマリアージュ様ですが、皇太子妃ともなると、隣国とはいえおいそれと里帰りはできません。ですが、どうしても妹姫の無事をその目で確かめたいという希望が叶い、里帰りが実現することになったのです。しかも、今回は夫君であらせられるロートリッシュ皇太子殿下と、その妹のティアナ様もご一緒されるとか。つまり、隣国の王族が一度に三人も訪れるわけですよ。
ラビニア様のドロワース事件に居合わせた賓客らしき男性。あの方はアルバトロの外務大臣で、その件について協議するために訪問されていたのです。お忍びならともかく、一国の王族が他国を公式に訪れるというのは、ものすごく大変なことなのです。いろいろな手順を踏む必要がありますから。
これがマリアージュ様だけならまだしも、皇太子殿下に、我が国の王子様方のお妃候補にも名前が挙がっているティアナ様までいらっしゃるのですから、そりゃもう、お祭り騒ぎです。歓迎式典やら舞踏会やらが開かれるのは必至なので、今から城中がその準備に追われているのです。
私たち侍女は、基本的に主の世話をするのが仕事。ですから今回も、歓迎式典や舞踏会に備えて姫様のドレスを用意したり装飾品を選んだり、準備といってもそんなことだけで済んだはずでした。しかし侍女長様の依頼で、私たち姫様付きの侍女も何人か、舞踏会の準備を手伝うことになったのです。当然、その間は姫様のお世話をする人数が減るわけですから、休みは取りづらくなります。なので先に休暇を取っておこうということになり、私も前倒しで休みをもらえることになったわけです。
「それで城下町に?」
ノーウェン君の問いに、うなずいて答えます。
「ええ、こんな機会でもないと行けないですからね」
今までも、半日の休暇を利用して城の外に買出しに行ったりはしていました。しかし、姫様が攫われてからというもの、とても外出する気になどなれず……。姫様が帰って来た後も、勇者様の求婚騒ぎで新聞記者などに狙われていることもあり、城の外に出ることはできなかったのです。
もちろん、まだ城の近辺を『勇者タイムズ』の記者がうろついていることに変わりはありません。ですが先日、城の外に出たベリンダが、記者に呼び止められて見せられた例の号外。その紙面を飾った私の似顔絵――それも目隠し無しバージョン――は、私にまったく似ていなかったらしいのです。おそらく記者が、城の誰かから聞いた話を基に描いたものの、どこにでもいる顔なので、特徴を捉えられなかったのでしょう。それなら記者など怖くありません。ふっ、モブ顔万歳ですよ。
……いえね、私だって馬鹿ではないですから、危険は承知しています。勇者様の(不本意ながら)婚約者として、記者だけではなくその他のよからぬことを企てる者たちにとっても、絶好の標的になり得るでしょう。ですが、一生城の中にいるわけにはいきません。お茶っ葉も補充しなければならないし、実家の母に街で人気のお菓子などを手紙と一緒に送ってあげたいのです。
幸いにも、王様や宰相様による情報統制が効いているのか、私の名前や正しい容姿はまだ漏れていないようです。だから、今なら大丈夫かな、なんて思うのです。警護の人間をつけてもらうことも考えましたが……どこの街娘が、兵士を引き連れて買い物をするでしょうか。……値切れんわ!
グリード様たちは論外です。頼めばついて来てくれるのでしょうけど、誰があんな目立つ連中を連れて歩きたいものですか。一緒に歩くなど、私が(不本意ながら)グリード様の婚約者であると宣伝しているも同然ですもの。それに今回、勇者様ご一行には外出のことは伝えていません。知っているのは姫様とベリンダだけです。
ノーウェン君は、顔を綻ばせて言いました。
「外出は楽しいですよね。僕も仕事とはいえ、城下町に下りるのがすごく楽しみなんです。あ、でも記者がうろついているらしいので、アーリアさんはくれぐれも気をつけてくださいね」
「ええ。もちろん」
と言いつつも、私はあまり心配はしていませんでした。だって――私には秘密兵器があるのですから。
先日のラビニア様事件の時に確信したことですが、私はグリード様たちの命を受けた精霊に張り付かれているのです。おそらく、彼らは私を監視するだけじゃなくて、危険から守るという命も受けているのではないかと思うのです。私に会おうとするアルフリード様の妨害をしているくらいですから、本体を守れと命じられてないわけがないですものね。……というか、守護しろよとツッコミを入れさせていただきます。
つまり、私には目に見えない護衛がついているも同然なのです。これを利用しない手はないではありませんか。それに、グリード様にはその精霊を通して私の行動が筒抜けのはずなのに、ここに至るまで妨害がなかったということは……外出を許可されたも同然ですよね? ええ、特に聞きもしませんが、そう思うことにいたします。
「じゃあ、楽しんで行って来てください」
「ノーウェン君も、お仕事しっかりね」
別の知り合いに呼び止められたノーウェン君と挨拶を交わして別れ、私は通用門に向かいます。
「こんにちは、お疲れ様です」
あれ? という顔をする守衛の兵士に声をかけて、通用門から城の外へ一歩踏み出しました。
久しぶりの外出に浮かれる私は、その時左の手首にある婚約腕輪が一瞬だけ光ったことに、気づきませんでした。
* * *
門を出てすぐ、城下町へ続く坂で、私はさっそく記者らしき若い男と遭遇してしまいました。しかし、彼は城から出て来る人間に片っ端から声をかけているだけで、私を「勇者が求婚した侍女Aさん」だと認識していたわけではありません。
ベリンダが言っていたことは本当でした。彼が手にしていた似顔絵は、目隠しされた状態だと似ているようにも見えましたが、目隠しのないものは何か違うのです。似ているといえば似ていますが、それを見て絶対私だと思えるようなものではありません。
私は、これはいける! と思いました。城の食堂で働いているべリンダですと名乗り、すっとぼけたのです。それでも、ちょっとばかり疑われてはいたようですが、精霊さんたちの協力で彼が転んでいる間に、さっさと逃げることに成功したのです。ふぅ。
と、初っ端から記者に出くわしてしまいましたが、気を取り直して私は坂を下りました。
シュワルゼの城は高台に築かれていて、その城を中心に、放射状に城下町が広がっています。城の正門から続く道を進めば、やがて街のメイン通りに出ます。
メイン通りの、城に近い一画には貴族たちの邸宅が立ち並び、その付近はお店も高級店ばかりです。城の御用達である高級茶屋もその界隈にあるらしいのですが、私が行くのはそっちではありません。坂の途中で、私は脇道へ入りました。その先には庶民の住宅とお店が集まるエリアがあるのです。
この街はシュワルゼ国の王都ですから、世界各地からいろいろなものが集まってきます。通りは、荷車を押す人や店先でお客と話す店主、私と同じような格好の女性など、様々な人たちがいて、活気に溢れていました。私は完全に街娘として周囲に溶け込……いえ埋没しながら、商店が立ち並ぶにぎやかな通りを進みます。
途中、お菓子屋さんでエリューシオン産のブラウンベリー入りクッキーを購入したり、雑貨屋で持っている茶器にピッタリなティーコゼを購入したりします。街の人に交じっての買い物はとても楽しく、気分はウキウキワクワクです。城の中で生活している時には味わえない、何とも言えない解放感に、私は自然と笑顔になっていました。
こうして街娘気分を満喫する私が最後に訪れたのは、今日の買い物の最大の目的でもあるお茶屋さんでした。
姫様が魔王に攫われる前は休みをいただくたびに、ここでお茶っ葉を買っていました。王室御用達の高級茶屋は取り寄せた茶葉をただ売るだけでろくに接客もしてくれませんが、この店は違います。店主のおじさんが研究熱心で、お茶に関することなら何でも答えてくれるのです。値切りにも応じてくれるし、オマケをくれることもあります。
……ちなみに、高級茶屋は値切りにはまったく応じてくれません。ちぇっ。
「おじさーん。お久しぶりです!」
私は店の中でお茶を啜っている、頭の禿げかかった店主に声をかけました。
「おや、アーちゃんじゃないか! 久しぶりだね、最近来ないから何かあったのかと心配してたよ」
「すみません。いろいろあって外出がままならなかったんです」
おじさんは私のことを「アーちゃん」と呼びます。というか、常連客は誰でもそんな風に呼んでいるのです。ダールスという名前のいい年したオッサンを「ダーちゃん」と呼ぶのを聞いた時には思わず「そりゃないだろう」というツッコミが喉まで出かかりました、ええ。
アーリアだから「アーちゃん」。ダールスだから「ダーちゃん」。ネーミングセンスは皆無のようです。私がベリンダという名前だったら、「ベーちゃん」って呼ばれていたに違いありません。……アーリアでよかったです。何となく。
どうしてお客を愛称で呼ぶのか、おじさんの奥様に聞いてみたところ、どうやら人の名前を覚えるのが苦手なようです。それで、覚えやすい愛称をつけているらしいんですよね。
おそらく、おじさんは私が「ア」のつく名前であることのみ記憶しているのでしょう。
……まぁいいんですよ。どうせモブ顔ですから、正式な名前を覚えてなくても。だってそれが私を助けることもあるのですから。ほら、現に今だって――
「確かお城に勤めているって言ってたもんなぁ、アーちゃんは。姫様が魔族に攫われて戻って来たと思ったら、今はその姫様を助けた勇者の一行が滞在しているというし、そりゃあ忙しかろうよ。……あれ? そういえば号外に出ていた、勇者が求婚した侍女Aって……」
おじさんが私の顔をマジマジと見つめるので、思わずギクリとしてしまいました。鼓動がバクンバクンと大いに乱れます。だって不意打ちだったんですもの!
ですが、どうにか平静を装って答えました。
「私ではありません。だって、私は侍女ではなくて食堂の給仕係ですから! 同じような茶色の髪と瞳だし、Aから始まる名前だからよく間違われますが……違いますからね?」
その言葉に、おじさんは「そうだなぁ」と笑いました。
「あの号外の絵はわかりづらいよな。茶色の髪に茶色の瞳なんていう大雑把な情報じゃ、当てはまる人間はたくさんいるに違いないさ」
「ええ、そうですよ。私のようなモブ顔など、いっくらでもいますとも!」
……今日の私の演技力は冴えているかもしれません。にわかに自信を持った私は、その後のおじさんの言葉にも動じませんでした。
「アーちゃんは名前もAだしな……って、そういえばアーちゃんの名前って何だったかな? ごめんよ、おじさんすっかり忘れちゃったよ」
ハハと笑って頭の後ろを掻くおじさんに、私はにっこり笑って答えました。
「アミーリア。アミーリアです。おじさん」
妙に偽名を使うハメになる日です。今日の私は記者にはベリンダ、そしてお茶屋の主人にはアミーリアです。共通項は、食堂で働いていること。……ふむ、心のメモに忘れずに書いておかないといけませんね!
別に、おじさんには本名を名乗ってもよかったのですが、万が一、勇者の婚約者の名前が「アーリア」だということが漏れたりしたら困りますからね。念には念をです。だって、シュワルゼを離れるその日まで、このお茶屋さんには通い続けたいですから。
……さて、お茶屋に来たからには、お茶っ葉を買わねばなりません。
「おじさん、レイクサリダ産の二等茶葉と、いつものブレンドのやつ下さいな。量はいつもの倍で。あ、そういえばこの前買ったベルガモットのフレーバーティーですが、気に入ってくださる方と匂いが気になるという方が半々でした。もっとも、他の茶葉をブレンドすれば気にならないって方がほとんどでしたけど」
「好みだからなぁ。だけど一度気に入ると癖になるんだよね、あれは」
「私も気に入ったので今回も買います! あ、ミンダルク産の茶葉も入荷してる!」
「勇者が魔王をやっつけてくれたおかげで、ようやくミンダルク産の茶葉も出回るようになったよ」
「うん、うん。勇者様には感謝ですね。このミンダルク産の二等茶葉も下さいな、おじさん」
「まいど~」
「もちろん……まけてくださいね?」
私は首を傾げ、にっこり笑っておねだりしました。まぁ、私なんぞがやってもたいして可愛くないとは思います。ですが、これが意外と店主には有効でして……
「もう、仕方ないなぁ。他ならぬアーちゃんの頼みだ。まけてやらぁ!」
「わーい。おじさん、ありがとうございます!」
ああ、この値切れた時の充足感……!
え? 貴族の令嬢らしくない? ええ、ベリンダにもよく言われます。ですが、ちょっとでも安くしてもらった方がいいじゃないですか。貧乏な男爵や子爵の生活なんて、下手をすれば裕福な商人より質素なのですから。
ちなみに、貴族の令嬢がこうして自ら街に買い物に出ることは少なく、商人を屋敷に呼びつけて買うのが一般的です。
「アーちゃんは大切な常連だし、お茶の研究仲間だしね」
バチンと器用に片目だけ瞑ってみせるおじさん。私はそれにも笑顔で応じました。ええ、まけてくれるならいくらでも笑顔になりますとも。それに、今は値切れて嬉しいので自然と笑顔になっています。
その時、不意におじさんがぶるっと身体を震わせました。
「おじさん?」
「いや、何か急に寒気が……」
両手で自分の身体を抱きしめながら言うおじさんに、私は同情の目を向けました。
「風邪のひき始めかもしれません。お大事にしてくださいね?」
目的のお茶っ葉を格安で手に入れてご満悦の私は、おじさんに挨拶をして店の外へ出ました。母へのお土産は買ったし、ティーコゼも買ったし、お茶っ葉も買ったので、外出の目的は全て果たしたことになります。
いつもなら、買い物を終えた後も街中を散策したり、新しい店の開拓をしたりします。けれど、今日はこれで打ち止めにした方がいいかな、なんて思うのですよ。というのも、物語の中では場所を移動すると、イベントというものが起きるのが定番なのです。いつまでも同じ場所だとマンネリ化するので、場所を移動させることによってストーリーを回すという、お話作りの常套手段なのだとか。
もちろん、これは物語ではなくて現実ですから、私が城の外に出て街をふらふらしているからといって、そんなイベントに遭遇することはないと思いますけどね。……でも、用心するに越したことはありません。私は、来た道を城の方へ戻り始めました。
ところが、少し歩いたところで見覚えのある胡散臭い顔を、前方の人ごみに発見してしまったのです。
それは、城の外で出会った新聞記者でした。例の似顔絵を手にしていますから、間違いありません。しかも、彼はその似顔絵を時々見つつ、誰かを探すようにキョロキョロしているではありませんか。
もしかして、もしかしなくても私を追って来たのでしょうか? コケたのを無視して行ってしまったから腹を立てた……なーんてことはあり得ないですよね!
やはり、私が侍女Aだと勘付いた……ということでしょうか。確信するには至らなくとも、記者の第六感が働いたのかもしれません。
私はとっさの判断で、彼がこちらに気づく前にさっと横道に入りました。そして、念には念を入れて、さらにその横道に入ろうとしたのです。
治安の良い街ですが、犯罪がまるっきりないわけではありません。なので、普段の私なら決して裏道に入ったりはしないのです。けれど、記者が通り過ぎるのを待つ間だけ――そう思っての行動でした。
そう、私はこの時スポーンと忘れていたのです。場所が変われば、イベントが発生する確率が高くなることを。
――角を曲がった私は、ぎょっとして足を止めました。
だって、そこには思いもよらない光景があったのですから。
所々崩れている塀。所々抉れている地面。そして、肩で息をしている見習い魔法使いのノーウェン君。
――それだけではありません。
ノーウェン君は険しい表情で、空を見上げています。その視線を追った私は、目を見張りました。
「……え……?」
――その男の第一印象は、黒。
シンプルな黒いズボンに黒いシャツ。そのシャツの襟に届くくらいの長さの髪は群青色です。とても濃く、暗い蒼。……だからでしょうか、全体的に黒っぽい印象を受けるのは。
男は腕を組み、悠然とノーウェン君を見下ろしておりました。笑みを浮かべているその顔は美形の類です。ですが、私が驚いたのは美形だからではありません。最近、私の周囲は美形率がとても高いので、そんなことではもう驚きはしないのです。
私がぎょっとしたのは、男が宙に浮いていたから。そして――長い前髪から覗くその瞳が、血のように赤い色をしていたからです。
私は、その姿を呆然と見つめながら思いました。
――こんな遭遇イベントはいりません、と。
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