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5巻
5-2
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「そういえば、まなみちゃんとは全然会わなかったから、言ってなかったわね」
お互いの近況を報告し合った後、美代子おばあちゃんが不意に思い出したように言った。
「はい?」
「うちと三条家との縁談が白紙に戻ったことは、聞いたでしょう?」
「う、うん」
私は内心ドキリとしながら頷く。
「このことについては、まなみちゃんにも色々迷惑かけたと思うから、ずっと謝らなきゃと思っていたの」
「そ、そんな。私は別に……」
思わず首を横に振った。この問題にずっと振り回されてきたのは事実だけど、矢面に立ってくれていた舞ちゃんほどではない。
「それより美代子おばあちゃんの方が、その、ガッカリしたんじゃないかって……」
実は少し心配していたのだ。以前佐伯邸にお邪魔した時、美代子おばあちゃんが縁談に熱心な理由を聞いた。だから、縁談が白紙に戻ってどんなにガッカリしただろうって。
けれど、意外にも美代子おばあちゃんは明るく笑ってみせた。
「落胆はしたけど、全然平気よ。とりあえず一つの目的は達成できたのだから」
「え?」
縁談は白紙に戻ったのに……?
私が目を丸くしていると、美代子おばあちゃんとの話を黙って聞いていたお母さんが、ため息まじりに口を挟んだ。
「要するにね、おばさまやお父様たちは、あなたたち……いいえ、彰人君と透君が反発することを見込んだ上で、この縁談を進めていたのよ。まったく結婚しようとしない彼らに危機感を与えるために」
「それって……」
その事実を知って驚いたけど、意外というわけじゃなかった。だって前に田中係長が推測していた通りだったから。
……どうやらドンピシャのようですよ、係長!
私は心の中でこそっと呟いてから、美代子おばあちゃんを見つめた。美代子おばあちゃんは何も言わず、にこにこ笑っている。つまり、お母さんの言ったことは……田中係長の推測は、正しかったのだ。
「それに、おばさまはもちろん、誰もガッカリしてなんかいないわよ。だって、まだ諦めていないんですもの」
「え!? 諦めていないって……もしかして、縁談を……?」
「やあね、沙耶子ちゃんったら、バラしちゃうなんて」
美代子おばあちゃんは笑顔のまま言った。どうやらこっちもドンピシャらしい。
……そういえば、すっかり忘れていたけれど、縁談が白紙に戻った直後に、透兄さんが懸念してたっけ。まだ完全には終わっていないって。
私は恐る恐る尋ねる。
「縁談は白紙に戻ったんだよね? でも本当はそうじゃないの?」
「いいえ、ちゃんと白紙に戻ったわ、まなみちゃん」
美代子おばあちゃんはそう断言した後、「でもね」と続けた。
「これは彰人さんにも透君にも言ったけど、あの子たちが自分で伴侶を選ぶための時間と猶予を与えただけ。それにもかかわらず以前と状況が変わらなかったら、私たちはすぐにでも動くつもりよ」
「そ、そんなぁ……」
これじゃあ、縁談が白紙に戻る前とまったく変わっていないということになる。ううん、二年間の猶予がなくなった分、状況はもっと悪くなっているのでは……?
ああ、透兄さんはこのことを見越していたから、自分と真綾ちゃんの関係を公にしなかったんだ。もし縁談話が復活してしまったら、今度は自分たちが私や真央ちゃんを守る盾になるつもりで……
「舞ちゃんの次は真綾ちゃんが、その……許婚候補になるの?」
そう尋ねる私の顔は多分、曇っていたに違いない。美代子おばあちゃんは少し目を見張った後、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、まなみちゃん。舞ちゃんのことで反省したから、あなたたちに無理強いはしないつもりよ」
それを聞いて、私はホッとする。けれど次の美代子おばあちゃんの言葉で、安堵の気持ちはすぐに吹っ飛んだ。
「もちろん、眞子ちゃんの孫であるあなたたちにお嫁に来て欲しいという思いはまだあるわ。でも、嫌なことを無理に押しつけたくはないの。大丈夫。社交界には他にも彰人さんに釣り合いそうなお嬢さんがいるから」
「……え?」
私の心臓が、やけに大きく音を立てた。
その言葉は美代子おばあちゃんにしてみたら、私を安心させるためのものだったのだろう。でも彰人さんの恋人である私にとっては、ものすごくショッキングな言葉だった。
……そうだ。今まで考えたこともなかったけれど、何も彰人さんの結婚相手は私たちじゃなきゃだめってわけではない。
私たちは美代子おばあちゃんの親友である眞子お祖母ちゃんの孫で、三条家なら佐伯家と家柄も釣り合ってちょうどよかったから、許嫁候補に選ばれた。ただそれだけの話で、社交界には彰人さんに相応しい女の人が、まだまだいる……
胸の奥がざわめいた。そんなの嫌だと思う気持ちと、仕方ないって思う気持ちが、入り混じっている。
『一応忠告しておく。とっとと正直に話すんだな。無用なトラブルを招く前に』
透兄さんの言葉が脳裏をよぎった。
もしかして透兄さんが言ってた「無用なトラブル」っていうのは、このことを指していたのかな……。確かに私と彰人さんが付き合っていることを公表していたら、こんなことにはならなかったはずだもの。
ここで、お母さんがまた口を挟んだ。
「美代子おばさま……。縁談が白紙に戻ってから、まだ三ヶ月しか経っていないのよ」
どこか呆れたような口調だった。
「どうしてそう性急なの? もっと時間をあげてよ」
「いいえ、沙耶子ちゃん。早く手を打たないと」
美代子おばあちゃんは首を横に振ってから、深いため息をついた。
「私だって、もっと時間をあげるつもりだったわよ。でもね、またあの子が同じことを繰り返そうとしているのであれば、放ってはおけないわ」
「同じこと?」
「……彰人さんね、恋人ができたみたい」
美代子おばあちゃんが低い声で告げた言葉に、私はドキッとする。
お母さんが、ちらっと私を見たのが分かった。そのことで、私が彰人さんと付き合っているって、お母さんにはとっくにバレていたのだと悟る。
お母さんは美代子おばあちゃんに視線を戻した。
「それはいい傾向なんじゃないの? 彰人君は結婚について真剣に考えているのかもしれないわ」
「いいえ」
美代子おばあちゃんはまた首を横に振る。
「どうも、私に紹介する気はないみたいなの」
再び心臓がドクンと鳴った。続いて、わけの分からない胸の痛みに襲われる。
家族に紹介する気はない……。それって、それって……
「本気で結婚を考えているなら、家族に紹介したって構わないはずでしょう? でも彰人さんは、『今はダメ』としか言わないの。きっと今までと同じよ。縁談を持ってこられたくないから恋人をとっかえひっかえして、時間稼ぎしているに違いないわ」
胃の奥がスーッと冷たくなる。
そうじゃないって言いたいし、思いたいけど……!
どうしよう。頭の中で色々な思いがぐるぐるしていて、ついでに胃の中のものもぐるぐるしてきて、気持ち悪くなってきた。
自分だってまだ結婚なんて考えてないくせに、彰人さんもそうだと知ったとたん、こんなに動揺するなんて。
その時、お母さんが何気なく私の背中に触れた。それは美代子おばあちゃんからは絶対に見えない位置だった。薄手のブラウスを通してぬくもりを感じる。
お母さんは私の背中に手を添えたまま、美代子おばあちゃんに言う。
「紹介しないからって、前と同じとは限らないわ、美代子おばさま。恋人ができたみたいとか、紹介する気がないみたいって言い方をするということは、おばさま自身が彼の口から直接聞いたわけじゃないんでしょう?」
私はハッとして顔を上げる。
美代子おばあちゃんは、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「……確かに彰人さんから直接聞いたわけじゃないわ。何しろ、最近佐伯邸にはめっきり顔を出さなくなって、あれ以来彰人さんに会ったのは一回だけですもの。その時にあの子が言ったのは『付き合っている相手はいる。けれど、もう少し時間が欲しい』ってことだけ。紹介する気がないみたいっていうのは、私の推測に過ぎないわ」
その言葉に、気持ちがすっと軽くなるのを感じた。我ながら単純だとは思う。
お母さんは私の背中をポンポンと叩くと、美代子おばあちゃんににっこり笑ってみせた。
「ほらね。恋人を紹介してくれないからって、前と同じことを繰り返していると決めつけるのはよくないわ。彼には彼の考えがあるのだから、もう少し長い目で見てあげて、おばさま。きっと母がここにいたら、同じことを言っていたと思うの」
「眞子ちゃんはよく、『美代子ちゃん、せっかちはよくないわ』って言っていたものね」
美代子おばあちゃんは懐かしそうに目を細める。けれど、その後ぼそっと呟いた言葉に、私とお母さんは言葉を失った。
「その眞子ちゃんも、あなたたちの花嫁姿を見ずに逝ってしまった。私にもどのくらい時間が残されているのか分からない……。だから余計に焦ってしまっているのだと、自覚はしているの。でも、待ってあげられる余裕……そんなにあるのかしら?」
美代子おばあちゃんを玄関先で見送った後、お母さんは私を振り返った。
「まなみ。ちゃんと彼と話し合いなさい」
お母さんが言ってるのは、おそらく素性を打ち明けなさいっていうことだろう。
「そ、そうしようと思ってはいるんだけど……」
私は煮え切らない態度を取ってしまった。早く話すべきだと自分でも思う。でも美代子おばあちゃんと話をしたことで、自覚してしまった。ずっと騙していたせいで彼に嫌われてしまうかも……ということの他にもう一つ、自分の中にある恐れの気持ちを。
彰人さんが私を紹介する気はないみたいだと美代子おばあちゃんが言った時、私は傷ついた。けれど、同時に仕方ないとも思ったのだ。
だって、私は舞ちゃんたちみたいにお嬢様じゃないから。これまで彰人さんが付き合ってきた美人なキャリアウーマンたちとも違うから。
――つまり、彰人さんに相応しい相手じゃないから。
そんなネガティブな思いがどこからきたのか、私はもう知っている。私の中にある、どうしても拭い去れない劣等感が原因だ。
もちろん、彰人さんの気持ちを疑っているわけじゃない。時間稼ぎするために私と付き合っているわけじゃないことも明らかだ。だって彰人さんは私と付き合っていることを公表すれば縁談を壊せたのに、私のためを思ってそれをしなかったのだから。
でも、私はどこか彼のことを信じ切れてない。
――彰人さんが私と付き合っていることを家族に告げないのは、私が自分に相応しい相手じゃないと思っているからでは?
そんな、うす暗い考えが湧いてくる。
彰人さんも、まだ私に素性を明かしていない。自分が本当は仁科彰人じゃなくて佐伯彰人であることと、佐伯家の御曹司であることを、明かしていないのだ。
つまり私たちは、お互い秘密を抱えたまま付き合っている。
私はそんなことを、お母さんにつっかえつっかえ語った。
すると、お母さんは苦笑した。
「普通なら、黙っているのは向こうも同じと開き直ってもいいのに……そうしないところがまなみの長所だとお母さんは思うわ」
「……そんな風に開き直るなんて、できないよ」
私はソファの上でクッションを抱きしめ、そこに顔を埋める。
どちらの非が多いかと問われれば、それは間違いなく私だ。私の方が何倍も罪深い。
なぜなら彰人さんは私の素性を知らない。でも私はとっくに彰人さんの素性を知っている。それなのに、素知らぬ顔で恋人付き合いをしているのだから。
きっとこのことを知ったら、彰人さんは私に幻滅する。だって私自身、こんな自分を擁護できないもの。
「でもね。ずっとこのままでいるわけにはいかないでしょう?」
「……うん」
私はクッションに顔を押しつけた状態で頷いた。
このままでいいわけがない。このままでいられるはずもない。隠していても、いつか必ず素性は知られてしまうだろう。
「人に何かを隠されていたとか、騙されていたとか知るのは辛いことよ。特にそれを本人ではなくて、別の人から知らされるのはね。だからまなみ」
お母さんは私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「手遅れになる前に、腹をくくって彼と話し合いなさい」
「……ん」
「あまり余裕はないかもしれないわ。美代子おばさまはせっかちだから、今度は何をやり出すことか……」
「……うん」
私は何度も頷きつつも、逃げ出したくなるような恐れを感じていた。
マンションに帰るために実家を出て、駅へ向かう。そして電車に揺られながら、私はどうやって切り出そう、どうやって説明しようかと、ぐるぐる考えていた。
でも――
「まなみ」
改札口まで迎えに来てくれた彰人さんの顔を見たとたん、「素性を明かさなければ」という思いがポーンと飛んで行ってしまうのを感じた。
代わりに湧いてきたのは、疼くような胸の痛みと、喜びと、愛おしさ。
足早に改札を抜けて、彰人さんのもとへ急ぐ。
「お帰り、まなみ」
「彰人さん……」
笑顔で迎えられ、自分も笑顔を返しながら、私はまたしても逃げることを選択する。
「ただいま、彰人さん」
――もう少し、このままでいさせて。
――神様お願い、あと少しだけ。
けれど、神様には私のずるくて弱い心が伝わったのかもしれない。
私はすぐに、このツケを払うことなったのだ。
第2話 知る時、知られる時
完全に油断していたのだと思う。私も、彰人さんも、そして透兄さんたちですら。
まさかこんなに早く事態が動くとは、誰一人予想していなかった。だからこそ、彼らの動向を把握することができなかったのだ。
――それが起こったのは、美代子おばあちゃんが訪ねてきた日の五日後の、金曜日のことだった。
一週間後にはお盆休みに入るので、私は企業調査チームの仕事と秘書業務の両方で多忙を極めていた。
お盆休みは一週間。その間、会社は公的には休みになるものの、私が所属する事業本部が抱えているプロジェクトの進捗次第では休み中も働かなくてはならない。
そのプロジェクトに必要な資料の取りまとめや出張の手配、会議室の予約とやるべきことがいっぱいで、ようやく一息つけたのは午後三時を過ぎた頃だった。
マグカップを手に給湯室へ向かい、普段は入れないお砂糖たっぷりのカフェオレを作る。いつもだったら部署に戻って自分の席で飲むのだけれど、しばらくパソコンの画面を見たくない気分だった私は、給湯室で立ったままカフェオレをすすった。
一口飲んでは、ふぅと深い息を吐く。
どうなることかと思ったけれど、何とか今日の分の仕事を終わらせるめどがついた。急な仕事が入らない限り、残業は最小限に抑えられるだろう。私も、彰人さんも。
私は彰人さんの、この後の予定を思い浮かべる。
確か、これから社内会議が一本入っているはずだ。といっても、彰人さんがやるべきことはない。プロジェクトの責任者である金田主任が、関連部署の責任者たちに色々説明する。彰人さんはそれに付き添い、見届けるだけだ。
秘書業務を任されている私も、会議前に人数分のお茶を用意して、最後に後片付けをするだけ。会議に必要な資料は他の女性社員が作成し、配布も彼女が行うため、私がやるべきことはなかった。
だからお茶を会議室に届けた後、会議が終わるまでの間は、彰人さんから頼まれていた稟議書を作成してしまおう。そう思いつつマグカップを手に給湯室を出て、すぐのことだった。
彰人さんが携帯電話を耳に当てて何事か話しながら、部署のガラス戸を開けて出てきたのだ。彼は私に気づいて、眼鏡の奥の目を瞬かせた。けれど、すぐに目を逸らし、会話の方に集中する。
「突然すぎますよ」
その声も顔も妙に真剣で、何だか深刻そうに見えた。
仕事のことで何かあったのかな?
私は気にしつつも、彰人さんの横を通りすぎて部署へ向かう。心配だったけれど、立ち聞きするわけにはいかなかった。だってわざわざ廊下に出てきたということは、他の人に聞かれたくない話なのだろうから。
けれど、ガラス戸の取っ手に手をかけた時、ふとあることに思い至った。
さっき彰人さんが耳に当てていた携帯電話は会社から支給されているものではなく、プライベート用のものだった。
思わず振り返った私の目に、携帯を耳に当てたまま苦々しい表情を浮かべる彰人さんの姿が映る。
会社でもプライベートでも、めったにしないほど険しい表情だった。驚く私の耳に、表情と同じように苦々しい彰人さんの声が聞こえてくる。
「いい加減にしてください。今は仕事中ですよ。あなた方のおふざけに付き合っている暇はないんです!」
彰人さんは苛立たしげに通話を切ると、びっくりして固まっている私に声をかけた。
「……ああ、驚かせてすまない」
気持ちを落ち着かせるためか、深い息を数回吐いてから、こちらに歩いてくる。
「何かあったんですか……?」
彼はガラス戸を押し開け私を先に通しながら、小さい声で答えた。
「親戚から電話がきたけど、たいした用件じゃなかった」
「そう、ですか……」
でも彰人さんの様子から、たいした用じゃなかったようには思えなかった。私は妙な不安に襲われて彰人さんを見上げる。
目が合うと彼は、ふっと表情を緩めた。
「年寄りだから、いちいち大げさなんだ。こっちは仕事中だというのに、お構いなしだからね。困ったものだ」
年寄りって……それって、美代子おばあちゃんのこと?
三条家と違って、佐伯家の親類は多くない。彰人さんの祖父である孝彰おじいちゃんは、戦争で家族の大半を亡くしてしまったからだ。そして今現在、佐伯家の親類でお年寄りと呼べるのは、美代子おばあちゃんしかいない。
美代子おばあちゃんが、仕事中に連絡を……?
確かに人のことはお構いなしといった感じのところはあるけれど、ちゃんとTPOを弁える人だ。なのに、仕事中と分かっている時間帯に、わざわざ電話をかけてくるなんて……
「心配はいらない。仕事が終わった後にでも、こっちから連絡入れとくよ」
「はい……」
そう言いながらも、私は何か嫌な予感がしていた。
仕事に戻った私は、ひとまず目の前のことに集中した。メールをチェックしたり、プリントアウトした資料をキャビネットに保管したりしているうちに、胸騒ぎを覚えたこともすっかり忘れていた。
彰人さんもいつものように、テキパキと仕事を片付けている。
そんな時に、一本の電話がかかってきた。
外線とは呼び出し音が違うので、内線であることがすぐに分かる。秘書業務をやっている習い性か、とっさに受話器を取っていた。
「はい。新事業推進統括本部の上条です」
『秘書課の日向です。仁科係長はご在席でしょうか?』
受話器からは、きびきびとした女性の声が聞こえた。
「はい。今代わりますので少々お待ちください」
私は保留ボタンを押して受話器を置いてから、課長席で資料をめくっていた彰人さんに声をかける。
「仁科課長、内線一番に秘書課の日向さんからお電話が入っています」
「秘書課の日向さん……?」
顔を上げた彰人さんは、怪訝そうに眉を顰めた。不思議に思うのも無理はない。うちの部署が秘書課と関わることはめったにないからだ。
――秘書課の日向さん。直接話をしたことはないけれど、その名前と役職、それに顔も知っていた。
彼女は秘書課の課長代行で、あまり頼りにならないと噂される男性の課長に代わり、秘書課の女性社員たちを束ねている。歳は、多分三十歳くらいだと思う。
二十代のうちに結婚退職する人が多い秘書課に長く在籍しているため、一部の人たちにはお局だの何だの言われているらしい。けど、本人はそんな言葉が似合わないきりっとした美人で、キャリアウーマン風の容姿をしている。実際、仕事でもかなり有能だと聞く。
今は後進に道を譲っているけれど、社長――当時は副社長だった――の秘書を長く続けていたことからも、それは明らかだった。
役員付きの専属秘書には、秘書課の中でもほんの一握りの人しかなれないらしい。優れた容姿や秘書としての能力だけでなく、どんな事態にも対応できる機転や冷静さも要求されるからだ。
そのため、役員専属になるというのは、秘書課の中では最高のステータスなのだとか。それをあっさり人に譲ってしまったことからも、並の女性じゃないことは確かだ。
その秘書課の日向さんから、直々に連絡が……?
私は忘れかけていた不安が戻ってくるのを感じた。
お互いの近況を報告し合った後、美代子おばあちゃんが不意に思い出したように言った。
「はい?」
「うちと三条家との縁談が白紙に戻ったことは、聞いたでしょう?」
「う、うん」
私は内心ドキリとしながら頷く。
「このことについては、まなみちゃんにも色々迷惑かけたと思うから、ずっと謝らなきゃと思っていたの」
「そ、そんな。私は別に……」
思わず首を横に振った。この問題にずっと振り回されてきたのは事実だけど、矢面に立ってくれていた舞ちゃんほどではない。
「それより美代子おばあちゃんの方が、その、ガッカリしたんじゃないかって……」
実は少し心配していたのだ。以前佐伯邸にお邪魔した時、美代子おばあちゃんが縁談に熱心な理由を聞いた。だから、縁談が白紙に戻ってどんなにガッカリしただろうって。
けれど、意外にも美代子おばあちゃんは明るく笑ってみせた。
「落胆はしたけど、全然平気よ。とりあえず一つの目的は達成できたのだから」
「え?」
縁談は白紙に戻ったのに……?
私が目を丸くしていると、美代子おばあちゃんとの話を黙って聞いていたお母さんが、ため息まじりに口を挟んだ。
「要するにね、おばさまやお父様たちは、あなたたち……いいえ、彰人君と透君が反発することを見込んだ上で、この縁談を進めていたのよ。まったく結婚しようとしない彼らに危機感を与えるために」
「それって……」
その事実を知って驚いたけど、意外というわけじゃなかった。だって前に田中係長が推測していた通りだったから。
……どうやらドンピシャのようですよ、係長!
私は心の中でこそっと呟いてから、美代子おばあちゃんを見つめた。美代子おばあちゃんは何も言わず、にこにこ笑っている。つまり、お母さんの言ったことは……田中係長の推測は、正しかったのだ。
「それに、おばさまはもちろん、誰もガッカリしてなんかいないわよ。だって、まだ諦めていないんですもの」
「え!? 諦めていないって……もしかして、縁談を……?」
「やあね、沙耶子ちゃんったら、バラしちゃうなんて」
美代子おばあちゃんは笑顔のまま言った。どうやらこっちもドンピシャらしい。
……そういえば、すっかり忘れていたけれど、縁談が白紙に戻った直後に、透兄さんが懸念してたっけ。まだ完全には終わっていないって。
私は恐る恐る尋ねる。
「縁談は白紙に戻ったんだよね? でも本当はそうじゃないの?」
「いいえ、ちゃんと白紙に戻ったわ、まなみちゃん」
美代子おばあちゃんはそう断言した後、「でもね」と続けた。
「これは彰人さんにも透君にも言ったけど、あの子たちが自分で伴侶を選ぶための時間と猶予を与えただけ。それにもかかわらず以前と状況が変わらなかったら、私たちはすぐにでも動くつもりよ」
「そ、そんなぁ……」
これじゃあ、縁談が白紙に戻る前とまったく変わっていないということになる。ううん、二年間の猶予がなくなった分、状況はもっと悪くなっているのでは……?
ああ、透兄さんはこのことを見越していたから、自分と真綾ちゃんの関係を公にしなかったんだ。もし縁談話が復活してしまったら、今度は自分たちが私や真央ちゃんを守る盾になるつもりで……
「舞ちゃんの次は真綾ちゃんが、その……許婚候補になるの?」
そう尋ねる私の顔は多分、曇っていたに違いない。美代子おばあちゃんは少し目を見張った後、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、まなみちゃん。舞ちゃんのことで反省したから、あなたたちに無理強いはしないつもりよ」
それを聞いて、私はホッとする。けれど次の美代子おばあちゃんの言葉で、安堵の気持ちはすぐに吹っ飛んだ。
「もちろん、眞子ちゃんの孫であるあなたたちにお嫁に来て欲しいという思いはまだあるわ。でも、嫌なことを無理に押しつけたくはないの。大丈夫。社交界には他にも彰人さんに釣り合いそうなお嬢さんがいるから」
「……え?」
私の心臓が、やけに大きく音を立てた。
その言葉は美代子おばあちゃんにしてみたら、私を安心させるためのものだったのだろう。でも彰人さんの恋人である私にとっては、ものすごくショッキングな言葉だった。
……そうだ。今まで考えたこともなかったけれど、何も彰人さんの結婚相手は私たちじゃなきゃだめってわけではない。
私たちは美代子おばあちゃんの親友である眞子お祖母ちゃんの孫で、三条家なら佐伯家と家柄も釣り合ってちょうどよかったから、許嫁候補に選ばれた。ただそれだけの話で、社交界には彰人さんに相応しい女の人が、まだまだいる……
胸の奥がざわめいた。そんなの嫌だと思う気持ちと、仕方ないって思う気持ちが、入り混じっている。
『一応忠告しておく。とっとと正直に話すんだな。無用なトラブルを招く前に』
透兄さんの言葉が脳裏をよぎった。
もしかして透兄さんが言ってた「無用なトラブル」っていうのは、このことを指していたのかな……。確かに私と彰人さんが付き合っていることを公表していたら、こんなことにはならなかったはずだもの。
ここで、お母さんがまた口を挟んだ。
「美代子おばさま……。縁談が白紙に戻ってから、まだ三ヶ月しか経っていないのよ」
どこか呆れたような口調だった。
「どうしてそう性急なの? もっと時間をあげてよ」
「いいえ、沙耶子ちゃん。早く手を打たないと」
美代子おばあちゃんは首を横に振ってから、深いため息をついた。
「私だって、もっと時間をあげるつもりだったわよ。でもね、またあの子が同じことを繰り返そうとしているのであれば、放ってはおけないわ」
「同じこと?」
「……彰人さんね、恋人ができたみたい」
美代子おばあちゃんが低い声で告げた言葉に、私はドキッとする。
お母さんが、ちらっと私を見たのが分かった。そのことで、私が彰人さんと付き合っているって、お母さんにはとっくにバレていたのだと悟る。
お母さんは美代子おばあちゃんに視線を戻した。
「それはいい傾向なんじゃないの? 彰人君は結婚について真剣に考えているのかもしれないわ」
「いいえ」
美代子おばあちゃんはまた首を横に振る。
「どうも、私に紹介する気はないみたいなの」
再び心臓がドクンと鳴った。続いて、わけの分からない胸の痛みに襲われる。
家族に紹介する気はない……。それって、それって……
「本気で結婚を考えているなら、家族に紹介したって構わないはずでしょう? でも彰人さんは、『今はダメ』としか言わないの。きっと今までと同じよ。縁談を持ってこられたくないから恋人をとっかえひっかえして、時間稼ぎしているに違いないわ」
胃の奥がスーッと冷たくなる。
そうじゃないって言いたいし、思いたいけど……!
どうしよう。頭の中で色々な思いがぐるぐるしていて、ついでに胃の中のものもぐるぐるしてきて、気持ち悪くなってきた。
自分だってまだ結婚なんて考えてないくせに、彰人さんもそうだと知ったとたん、こんなに動揺するなんて。
その時、お母さんが何気なく私の背中に触れた。それは美代子おばあちゃんからは絶対に見えない位置だった。薄手のブラウスを通してぬくもりを感じる。
お母さんは私の背中に手を添えたまま、美代子おばあちゃんに言う。
「紹介しないからって、前と同じとは限らないわ、美代子おばさま。恋人ができたみたいとか、紹介する気がないみたいって言い方をするということは、おばさま自身が彼の口から直接聞いたわけじゃないんでしょう?」
私はハッとして顔を上げる。
美代子おばあちゃんは、ばつが悪そうに肩をすくめた。
「……確かに彰人さんから直接聞いたわけじゃないわ。何しろ、最近佐伯邸にはめっきり顔を出さなくなって、あれ以来彰人さんに会ったのは一回だけですもの。その時にあの子が言ったのは『付き合っている相手はいる。けれど、もう少し時間が欲しい』ってことだけ。紹介する気がないみたいっていうのは、私の推測に過ぎないわ」
その言葉に、気持ちがすっと軽くなるのを感じた。我ながら単純だとは思う。
お母さんは私の背中をポンポンと叩くと、美代子おばあちゃんににっこり笑ってみせた。
「ほらね。恋人を紹介してくれないからって、前と同じことを繰り返していると決めつけるのはよくないわ。彼には彼の考えがあるのだから、もう少し長い目で見てあげて、おばさま。きっと母がここにいたら、同じことを言っていたと思うの」
「眞子ちゃんはよく、『美代子ちゃん、せっかちはよくないわ』って言っていたものね」
美代子おばあちゃんは懐かしそうに目を細める。けれど、その後ぼそっと呟いた言葉に、私とお母さんは言葉を失った。
「その眞子ちゃんも、あなたたちの花嫁姿を見ずに逝ってしまった。私にもどのくらい時間が残されているのか分からない……。だから余計に焦ってしまっているのだと、自覚はしているの。でも、待ってあげられる余裕……そんなにあるのかしら?」
美代子おばあちゃんを玄関先で見送った後、お母さんは私を振り返った。
「まなみ。ちゃんと彼と話し合いなさい」
お母さんが言ってるのは、おそらく素性を打ち明けなさいっていうことだろう。
「そ、そうしようと思ってはいるんだけど……」
私は煮え切らない態度を取ってしまった。早く話すべきだと自分でも思う。でも美代子おばあちゃんと話をしたことで、自覚してしまった。ずっと騙していたせいで彼に嫌われてしまうかも……ということの他にもう一つ、自分の中にある恐れの気持ちを。
彰人さんが私を紹介する気はないみたいだと美代子おばあちゃんが言った時、私は傷ついた。けれど、同時に仕方ないとも思ったのだ。
だって、私は舞ちゃんたちみたいにお嬢様じゃないから。これまで彰人さんが付き合ってきた美人なキャリアウーマンたちとも違うから。
――つまり、彰人さんに相応しい相手じゃないから。
そんなネガティブな思いがどこからきたのか、私はもう知っている。私の中にある、どうしても拭い去れない劣等感が原因だ。
もちろん、彰人さんの気持ちを疑っているわけじゃない。時間稼ぎするために私と付き合っているわけじゃないことも明らかだ。だって彰人さんは私と付き合っていることを公表すれば縁談を壊せたのに、私のためを思ってそれをしなかったのだから。
でも、私はどこか彼のことを信じ切れてない。
――彰人さんが私と付き合っていることを家族に告げないのは、私が自分に相応しい相手じゃないと思っているからでは?
そんな、うす暗い考えが湧いてくる。
彰人さんも、まだ私に素性を明かしていない。自分が本当は仁科彰人じゃなくて佐伯彰人であることと、佐伯家の御曹司であることを、明かしていないのだ。
つまり私たちは、お互い秘密を抱えたまま付き合っている。
私はそんなことを、お母さんにつっかえつっかえ語った。
すると、お母さんは苦笑した。
「普通なら、黙っているのは向こうも同じと開き直ってもいいのに……そうしないところがまなみの長所だとお母さんは思うわ」
「……そんな風に開き直るなんて、できないよ」
私はソファの上でクッションを抱きしめ、そこに顔を埋める。
どちらの非が多いかと問われれば、それは間違いなく私だ。私の方が何倍も罪深い。
なぜなら彰人さんは私の素性を知らない。でも私はとっくに彰人さんの素性を知っている。それなのに、素知らぬ顔で恋人付き合いをしているのだから。
きっとこのことを知ったら、彰人さんは私に幻滅する。だって私自身、こんな自分を擁護できないもの。
「でもね。ずっとこのままでいるわけにはいかないでしょう?」
「……うん」
私はクッションに顔を押しつけた状態で頷いた。
このままでいいわけがない。このままでいられるはずもない。隠していても、いつか必ず素性は知られてしまうだろう。
「人に何かを隠されていたとか、騙されていたとか知るのは辛いことよ。特にそれを本人ではなくて、別の人から知らされるのはね。だからまなみ」
お母さんは私の頭をポンポンと優しく叩いた。
「手遅れになる前に、腹をくくって彼と話し合いなさい」
「……ん」
「あまり余裕はないかもしれないわ。美代子おばさまはせっかちだから、今度は何をやり出すことか……」
「……うん」
私は何度も頷きつつも、逃げ出したくなるような恐れを感じていた。
マンションに帰るために実家を出て、駅へ向かう。そして電車に揺られながら、私はどうやって切り出そう、どうやって説明しようかと、ぐるぐる考えていた。
でも――
「まなみ」
改札口まで迎えに来てくれた彰人さんの顔を見たとたん、「素性を明かさなければ」という思いがポーンと飛んで行ってしまうのを感じた。
代わりに湧いてきたのは、疼くような胸の痛みと、喜びと、愛おしさ。
足早に改札を抜けて、彰人さんのもとへ急ぐ。
「お帰り、まなみ」
「彰人さん……」
笑顔で迎えられ、自分も笑顔を返しながら、私はまたしても逃げることを選択する。
「ただいま、彰人さん」
――もう少し、このままでいさせて。
――神様お願い、あと少しだけ。
けれど、神様には私のずるくて弱い心が伝わったのかもしれない。
私はすぐに、このツケを払うことなったのだ。
第2話 知る時、知られる時
完全に油断していたのだと思う。私も、彰人さんも、そして透兄さんたちですら。
まさかこんなに早く事態が動くとは、誰一人予想していなかった。だからこそ、彼らの動向を把握することができなかったのだ。
――それが起こったのは、美代子おばあちゃんが訪ねてきた日の五日後の、金曜日のことだった。
一週間後にはお盆休みに入るので、私は企業調査チームの仕事と秘書業務の両方で多忙を極めていた。
お盆休みは一週間。その間、会社は公的には休みになるものの、私が所属する事業本部が抱えているプロジェクトの進捗次第では休み中も働かなくてはならない。
そのプロジェクトに必要な資料の取りまとめや出張の手配、会議室の予約とやるべきことがいっぱいで、ようやく一息つけたのは午後三時を過ぎた頃だった。
マグカップを手に給湯室へ向かい、普段は入れないお砂糖たっぷりのカフェオレを作る。いつもだったら部署に戻って自分の席で飲むのだけれど、しばらくパソコンの画面を見たくない気分だった私は、給湯室で立ったままカフェオレをすすった。
一口飲んでは、ふぅと深い息を吐く。
どうなることかと思ったけれど、何とか今日の分の仕事を終わらせるめどがついた。急な仕事が入らない限り、残業は最小限に抑えられるだろう。私も、彰人さんも。
私は彰人さんの、この後の予定を思い浮かべる。
確か、これから社内会議が一本入っているはずだ。といっても、彰人さんがやるべきことはない。プロジェクトの責任者である金田主任が、関連部署の責任者たちに色々説明する。彰人さんはそれに付き添い、見届けるだけだ。
秘書業務を任されている私も、会議前に人数分のお茶を用意して、最後に後片付けをするだけ。会議に必要な資料は他の女性社員が作成し、配布も彼女が行うため、私がやるべきことはなかった。
だからお茶を会議室に届けた後、会議が終わるまでの間は、彰人さんから頼まれていた稟議書を作成してしまおう。そう思いつつマグカップを手に給湯室を出て、すぐのことだった。
彰人さんが携帯電話を耳に当てて何事か話しながら、部署のガラス戸を開けて出てきたのだ。彼は私に気づいて、眼鏡の奥の目を瞬かせた。けれど、すぐに目を逸らし、会話の方に集中する。
「突然すぎますよ」
その声も顔も妙に真剣で、何だか深刻そうに見えた。
仕事のことで何かあったのかな?
私は気にしつつも、彰人さんの横を通りすぎて部署へ向かう。心配だったけれど、立ち聞きするわけにはいかなかった。だってわざわざ廊下に出てきたということは、他の人に聞かれたくない話なのだろうから。
けれど、ガラス戸の取っ手に手をかけた時、ふとあることに思い至った。
さっき彰人さんが耳に当てていた携帯電話は会社から支給されているものではなく、プライベート用のものだった。
思わず振り返った私の目に、携帯を耳に当てたまま苦々しい表情を浮かべる彰人さんの姿が映る。
会社でもプライベートでも、めったにしないほど険しい表情だった。驚く私の耳に、表情と同じように苦々しい彰人さんの声が聞こえてくる。
「いい加減にしてください。今は仕事中ですよ。あなた方のおふざけに付き合っている暇はないんです!」
彰人さんは苛立たしげに通話を切ると、びっくりして固まっている私に声をかけた。
「……ああ、驚かせてすまない」
気持ちを落ち着かせるためか、深い息を数回吐いてから、こちらに歩いてくる。
「何かあったんですか……?」
彼はガラス戸を押し開け私を先に通しながら、小さい声で答えた。
「親戚から電話がきたけど、たいした用件じゃなかった」
「そう、ですか……」
でも彰人さんの様子から、たいした用じゃなかったようには思えなかった。私は妙な不安に襲われて彰人さんを見上げる。
目が合うと彼は、ふっと表情を緩めた。
「年寄りだから、いちいち大げさなんだ。こっちは仕事中だというのに、お構いなしだからね。困ったものだ」
年寄りって……それって、美代子おばあちゃんのこと?
三条家と違って、佐伯家の親類は多くない。彰人さんの祖父である孝彰おじいちゃんは、戦争で家族の大半を亡くしてしまったからだ。そして今現在、佐伯家の親類でお年寄りと呼べるのは、美代子おばあちゃんしかいない。
美代子おばあちゃんが、仕事中に連絡を……?
確かに人のことはお構いなしといった感じのところはあるけれど、ちゃんとTPOを弁える人だ。なのに、仕事中と分かっている時間帯に、わざわざ電話をかけてくるなんて……
「心配はいらない。仕事が終わった後にでも、こっちから連絡入れとくよ」
「はい……」
そう言いながらも、私は何か嫌な予感がしていた。
仕事に戻った私は、ひとまず目の前のことに集中した。メールをチェックしたり、プリントアウトした資料をキャビネットに保管したりしているうちに、胸騒ぎを覚えたこともすっかり忘れていた。
彰人さんもいつものように、テキパキと仕事を片付けている。
そんな時に、一本の電話がかかってきた。
外線とは呼び出し音が違うので、内線であることがすぐに分かる。秘書業務をやっている習い性か、とっさに受話器を取っていた。
「はい。新事業推進統括本部の上条です」
『秘書課の日向です。仁科係長はご在席でしょうか?』
受話器からは、きびきびとした女性の声が聞こえた。
「はい。今代わりますので少々お待ちください」
私は保留ボタンを押して受話器を置いてから、課長席で資料をめくっていた彰人さんに声をかける。
「仁科課長、内線一番に秘書課の日向さんからお電話が入っています」
「秘書課の日向さん……?」
顔を上げた彰人さんは、怪訝そうに眉を顰めた。不思議に思うのも無理はない。うちの部署が秘書課と関わることはめったにないからだ。
――秘書課の日向さん。直接話をしたことはないけれど、その名前と役職、それに顔も知っていた。
彼女は秘書課の課長代行で、あまり頼りにならないと噂される男性の課長に代わり、秘書課の女性社員たちを束ねている。歳は、多分三十歳くらいだと思う。
二十代のうちに結婚退職する人が多い秘書課に長く在籍しているため、一部の人たちにはお局だの何だの言われているらしい。けど、本人はそんな言葉が似合わないきりっとした美人で、キャリアウーマン風の容姿をしている。実際、仕事でもかなり有能だと聞く。
今は後進に道を譲っているけれど、社長――当時は副社長だった――の秘書を長く続けていたことからも、それは明らかだった。
役員付きの専属秘書には、秘書課の中でもほんの一握りの人しかなれないらしい。優れた容姿や秘書としての能力だけでなく、どんな事態にも対応できる機転や冷静さも要求されるからだ。
そのため、役員専属になるというのは、秘書課の中では最高のステータスなのだとか。それをあっさり人に譲ってしまったことからも、並の女性じゃないことは確かだ。
その秘書課の日向さんから、直々に連絡が……?
私は忘れかけていた不安が戻ってくるのを感じた。
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