4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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4巻

4-1

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 第1話 夢オチ希望の朝


 一人暮らし第一日目の朝。私、上条かみじょうまなみはメールの着信音に起こされた。
 横になったまま、ぼうっとした頭でベッドのサイドテーブルの上を手探りする。そして携帯電話をつかんで確認すると、届いていたのは従姉いとこ真綾まあやちゃん――瀬尾せお真綾からのメールだった。


『おはよう、まなみちゃん。引っ越しご苦労様。もう荷物の整理は終わった? 一人暮らしは大変だけど、親元を離れて初めて分かることも色々あるから、きっと独立してよかったと思うはずよ』


 『引っ越し』『一人暮らし』――その二つの単語で、私は一気に覚醒かくせいする。
 そうだ私、昨日から一人暮らしを始めたんだ……!
 ガバッと起き上がると、目に入ったのは実家の部屋ではなくて、昨日荷物を搬入したばかりの新しい部屋だった。白い壁に囲まれた新居をぐるりと見回したあと、私は手の中の携帯に視線を落とす。真綾ちゃんのメールにはまだ続きがあった。


『落ち着いたら、またみんなでお茶でも飲みに行きましょう。まなみちゃんの新居は佐伯さえき家の物件だから、私たちは見に行けないけど、どんな部屋に住んでいるのか知りたいから、その時は話を聞かせてね』


 真綾ちゃんの優しさが溢れる文面に、胸が温かくなった。
 私だって本当は真綾ちゃんはじめ、真綾ちゃんの妹の真央まおちゃんや、同じ従姉の三条さんじょうまいちゃんにもこの新しい部屋を見に来て欲しかったんだけど――
 このマンションは大企業を経営する佐伯家所有の物件で、私にここを紹介してくれたのは、その佐伯家の御曹司おんぞうしなのだ。
 実はその佐伯家と、私の母方の親族である三条家との間に縁談が持ち上がっていて、それに私を含めた従姉妹いとこの四人が大きく関わっている。
 なんと五年以上も前に亡くなった私たちの祖母の三条眞子まこと、その友人である佐伯美代子みよこさんが、お互いの孫を結婚させる約束を交わしたのだという。
 けれど、大会社を持つ三条家の令嬢である舞ちゃん、それに瀬尾コーポレーションという大会社の社長令嬢である真綾ちゃんと真央ちゃんを差し置いて、庶民の私が選ばれるわけがない。だから私は四番目の候補で、縁談にはほとんど関係がないと思っていた。
 ……けれど、神様は私に妙な運命を用意してくれたらしい。コネを嫌い、自分の力で就職した会社が佐伯グループの傘下さんかで、配属先の部署にはその佐伯の御曹司がいたのだ。
 それが仁科彰人にしなあきひと課長。名字が違っているのは、会社では佐伯の御曹司おんぞうしであることを隠して働いているから。佐伯の名に頼らず、自分の実力を試すため、あえて母方の姓を名乗っているらしい。武者むしゃ修行といったところだろうか。
 実際、とても優秀な人で、私が入社した時は主任だったのに、あっという間に課長にまで昇りつめてしまった。
 私はそんな彼を尊敬していた……いや、現在進行形で尊敬している。けれど、最初はなるべく関わらないようにしていた。なぜなら私自身、三条家の外孫であることを会社では隠しているから。それに私が四番目の許婚候補であると、課長に知られるわけにもいかない。
 せめて、この縁談が白紙に戻るまでは、絶対に秘密にしなければ。
 そんな私の気持ちを知る真綾ちゃんたちは、遠慮して私の部屋に来ない。自分たちが佐伯家所有のマンションに出入りすることで、私の秘密がバレてしまう可能性があるからと言って。
 最初は考えすぎだと言っていたんだけど、今は彼女たちにとても感謝している。
 私はハァと深いため息をついた。

「……どうして、こんなことになってしまったのやら」

 仁科課長は上司としても人間としても尊敬できる人で、佐伯の御曹司であるということを考えなければ、そばにいるのはとても心地がよかった。それでつい油断していたというか……警戒モードが全く機能しなくなっていたわけですよ。
 私が過保護な従兄弟いとこたちから一人暮らしの許可をようやくもぎ取って、いざ部屋を借りようとした時に、仁科課長が良い物件を紹介してくれたのだ。賃料はお手頃、会社からもまあまあ近く、求めている条件が全て揃っていた。
 ええ、もちろん飛びつきましたよ。それが何か?
 ……その物件が佐伯家所有のマンションだと知ったのは、賃貸契約を結んだあとのことだった。それでも私はとおる兄さん――過保護な従兄弟のうちの一人である三条透の反対を押し切り、その物件に住むことにした。
 あああああ、あの時の自分を蹴っ飛ばしてやりたい!
 油断するなと忠告されていたのに、私はそれを全く意に介さず、自ら相手の囲いの中に飛び込んでしまったわけだから。
 私はもう一度深いため息をついてから、真綾ちゃんにメールを返信した。
 ベッドサイドの目覚まし時計で時刻を確認してみると、朝の十時過ぎ。今日は日曜日だからよかったものの、もし平日だったら遅刻確定だ。
 ……これも昨夜、なかなか寝付けなかったせい。
 これは夢だと自分に言い聞かせて目を閉じたけど、何かに追いたてられるような圧力プレッシャーを感じて寝られなかったのだ。結局、明け方近くまで起きていた。
 本当なら早起きして、近所の散策かたがた朝ごはんを食べられる店を探す予定だったのに。
 それもこれも、全ては仁科課長のせいだ。あああ、夢だと思いたい、全部!

「本当に、どうしてこうなったんだか!」

 私の脳裏に、昨夜の出来事がよみがえった――


     * * *


「ようこそ、まなみ。俺の腕の中へ――。これから、色々とよろしく、ね?」


 そう言って、妖艶ようえんな黒い笑みを浮かべる課長を見て、私はいまだかつてないほど混乱していた。
 ――これは一体誰?
 その疑問だけが、頭の中をぐるぐる巡っていた。
 廊下に座り込む私の前に、トレードマークの眼鏡を外した課長がしゃがみ込んでいる。いつもの課長とは、全くの別人に見えた。思わず頭の片隅に『実は双子だったの? それとも二重人格?』なんてドラマのような設定が浮かんだくらいだ。

「……あなた誰ですか……?」

 つい、そう口にしていた。
 その時私は、目の前の人が課長じゃないことを期待していたんだと思う。けれど、笑顔と共にとんでもない答えが返ってきた。

「もちろん、君の上司だよ。――そして、君の恋人になる男でもある」
「……こ!?」

 直前に激しくキスされてじんじんとうずく唇から、思わず頓狂とんきょうな声が出た。

「こ、こ、こっ……!」

 ――もちろん「恋人!?」と言うつもりだった。だけど人間、あまりにびっくりすると、まともに声が出なくなるものらしい。「こ」の先の言葉が、どうしても出てこなかった。

「こっ、こっ、こっ」

 ニワトリ化して混乱する私を見る課長の目は、明らかに愉悦ゆえつを含んでいた。どうも私の混乱ぶりを楽しんでいるようだ。
 それを認識したと同時に、すっかり解けてしまっていた警戒モードがいきなり全開になった。
 ――危険。この人、危険だ!
 ガンガンガンと、本能が今さら警告音を発する。
 ――この人から、透兄さんやりょうと同じニオイを感じる。それの意味するところは……
 ちなみに涼というのは真綾ちゃんと真央ちゃんの弟で、透兄さん同様に過保護な私の従弟いとこだ。
 警戒モード発令と同時に思考力を取り戻しつつある頭で、私は先ほどの課長の言動を一生懸命思い出していた。もちろん、キ、キスとか、そういうシーンは除いてだ。

『俺のものになりなさい』
『君に拒否権は与えないよ?』
『この礼はきっちりしてもらうからね』
『ようこそ、まなみ。俺の腕の中へ――』

 これらの言葉に加え、こっちの混乱に乗じてキス(しかも、し、舌を入れてきた!)をするという、私の弱いところを確実かつ強引に突いてくるやり方。さらには、このマンションへの引っ越しを誘導した巧みな手口。私はそこで、ようやく気付いた。
 ――ああ、分かった。この人、いわゆる腹黒だ。涼と同じくらい……ううん、もしかしたらそれ以上の。
 巨大な猫を被ってる、お腹真っ黒な人だよ!
 遅きに失した感はあるけど、私には分かる。伊達だてに、あんな腹黒な従兄弟いとこを二人も持っているわけじゃないんだから。

「さ、詐欺だーーーー!」

 私は思わず叫んでいた。

「こんな、いきなり豹変ひょうへんするだなんて……だまされた!」

 良い人の仮面の裏にある本性に、全然気付かなかったよ、コンチクチョー!
 けれど、目の前の人は笑みを浮かべたまま言った。

「騙すだなんて、人聞きの悪いことを言わないでくれ。会社では多少大人しくしているだけだ。それも人間関係を円滑えんかつにするための方便だよ」
「だとしても、変わりすぎです!」

 あの人当たりのいい課長はどこ行っちゃったの? あっちの方が断然よかった! あれが本性なら、もっとよかった!
 腹黒は身近に三人もいらない。本当にいらない。

「できれば一生騙されたままでいたかったです! 何で本性バラしちゃうんですか? しかも私なんかに!」

 私がそう叫んだ直後、課長が笑みを深めた。――ついでに黒さも増してるんですけど?

「キスされたことは、スルーするつもりなのかな?」

 妙に優しげな口調で言われて、私はビクッとした。
 ヤバイ。何か地雷を踏んだらしい。頭の中で警告音が大きくなり、本能がさらなる危険を知らせてくる。
 私は思わず目をらそうとしたけれど、すばやくあごとらえられ、顔を固定された。

「ねえ、まなみ。俺はもう、逃げるのを許す気はないんだ」

 課長は笑みを浮かべたまま、蠱惑的こわくてきささやく。それがどうして、こんなに恐ろしいのだろう。

「君は俺に騙されたと言って怒ることで、肝心なことから目を逸らそうとしているようだが、そうはいかないよ? 今君が考えるべきなのはそんなことじゃない。別のことだ」
「……別の、こと?」
「君が好きだと言っただろう? そのことだ。今までさんざんスルーされてきたが、もう君が目を逸らすことも、論点をずらすこともできないくらい、はっきり言わせてもらおう」

 そう言って、課長は顔をぐっと近づけてきた。吐息がかかるくらいの至近距離まで迫られて、私は息を呑み――ついでに悲鳴も呑み込んだ。
 ……ち、近すぎる!
 私のすぐ目の前で、形の良い薄い唇が弧を描いていた。だけど、それはいつもの優しい笑みではない。捕まえた獲物をどうやって食べてやろうかと思っている肉食獣の笑みだった。

「君が好きだ」

 吐息交じりにささやかれた声にはすごく色気があって、私の腰とお腹にズシンと響いた。キスで力が抜けていた身体から、さらに力が抜けた。

「君を愛している。その目をずっと俺に向けていて欲しいし、ずっと隣にいてもらいたい。君を抱きしめたいし、キスもしたい。顔中、身体中、俺のキスで埋め尽くしたい――」

 その言葉を聞いた時、ぞくりと何かが背筋を走った。悪寒おかんに似ているけど、悪寒じゃない何かが。

「それだけじゃない。この服をぎ取って柔らかな肌をじかに感じたいし、俺に触れられて感じる顔を見たい。君の身体を開いて一つになりたいし、絶頂に達した時の声も聞きたい」

 ひぃと、私は再び悲鳴を呑み込んだ。
 ……な、何だか話が、話が、妙にエロい方向に行っている、ような……

「ああ、もちろん、その前に君のヴァージンを……」
「ぎゃーー! もういいです! 分かりました、分かりましたから!」

 私は叫んで、あごを固定している課長の腕をばしばし叩いた。
 課長の口からヴァージンなんて言葉聞きたくない! それが自分のヴァージンならば、なおさらだ。
 課長は私の顎から手を離しながら、にやりと笑った。

「ほら、これでもうスルーなんてできないだろう? ペット扱いされているだけ、なんて思えないはずだ。これから君は、俺をただの上司ではなく、自分を女として欲している相手、恋人にしたがっている男として見るようになる。男として意識せずにはいられなくなるんだ」

 ――自分を女として欲している相手。恋人にしたがっている男。
 私は何だかクラクラしてきた。できればそのまま気絶してしまいたい気分だ。
 恋人いない歴=年齢の私は、友達の話や、漫画や小説の中の恋愛しか知らない。
 そんな私が手を繋ぐだけで満足とか、一緒にいるだけで幸せとか、目と目が合っただけで胸がいっぱいとか、そういう初々ういういしくてピュアな恋を体験する間もなく、大人の階段を引っ張られて――いや、引っ張られるというよりは肩に担がれ、無理やり昇らされているのだ。ついていけないのは当然ではなかろうか。

「えっと、私、私……」

 いっぱいいっぱいすぎて眩暈めまいすら覚えながら、私は必死に言葉を探した。
 だけど、自分がどうしたいのかさっぱり分からない。だから、当然言葉なんて出てこない。ただただ混乱するのみだった。
 とはいえ、課長に女として見られていたことに、嫌悪感は覚えなかった。だからこそ、余計に自分の気持ちが分からなくなる。

「私、私……」

 私はどうしたらいいんだろうか。どうしたいんだろうか。
 馬鹿みたいに『私』という単語を繰り返す私のほおを、課長がそっと撫でた。その感触に、またもやゾクッとしてしまう。
 ――もう、何なのよこれ。
 泣きたい気持ちでそう思った。
 頬を撫でられるたびに身を震わせる私を見る課長の顔は、妙に楽しそうだった。
 私の脳裏に、『S』という文字が浮かぶ。

「大丈夫。今すぐどうこうするつもりはないから。正直に言えば、君の部屋にある新品のベッドの寝心地を、試してみたいところだけど――」

 それを聞いて、ビクッと肩が震えてしまったのは仕方ないと思う。うん。
 その私の反応に笑みを深くしながら、課長はゆっくり立ち上がった。

「今の話、じっくり考えてくれ。考えれば考えるほど、君の心に俺の存在が刻まれるのだから、大いに悩んでくれていい」

 私は目を見開いて課長を見上げた。その言い方から、何かこう……鬱屈うっくつしたというか、とにかくただならぬものを感じたからだ。
 そんな私を見下ろして、課長はふっと笑った。けれど、その微笑みはさっきまでのものとは違い、なじみのある優しげなものだった。

「今日はこれで退散するとしよう。戸締まりに気を付けて。セキュリティがしっかりしているとはいえ、油断してはダメだからね。……それじゃあ、お休み」

 完全に『仁科課長』に戻って忠告したあと、課長は静かに部屋を出て行った。
 私の人生に、彼自身という大きな爆弾を落として――


 その後も、私はしばらく廊下に座り込んでいた。ようやく立ち上がってからもショックが抜けず、ぼうっとしたまま機械的に日常生活をこなした。
 もちろん食事がのどを通るわけはないから、夕食は諦めた。お風呂に入って、着替えて、ぼんやりテレビを見て、いつもの時間にベッドに入って――寝ようとした。
 だけど部屋の電気を消したとたん、なぜかそこで我に返ってしまった。むしろ茫然自失ぼうぜんじしつしたままでいれば、寝不足になることもなかっただろうに。思考停止状態から抜け出すやいなや、課長とのあれやこれやを思い出してしまったのだ。もちろんそれで寝れるわけがない。
 シンと静まり返った真っ暗な空間に、目覚まし時計が時を刻む音だけが響いていた。
 寝るのを半ば諦めてその静寂に身をひたしていると、全て現実ではない気がしてきた。課長から言われたことも、されたことも、夢の中の出来事だったような――
 ――うん、夢だ。
 私は唐突にそう思った。
 もしかしたら初めての一人暮らしを不安に思うあまり、無意識の願望を夢に見たのかもしれない……ううん、きっとそうだ。
 自分にあんな願望があったなんて驚き桃の木だけど、冷静になって考えると、あの課長が私を好きだなんて、そんなことはありえない。大事なことだからもう一度言おう。ありえない。
 私は暗闇の中で深い息を吐き、身体の力を抜いた。
 明日からまた、平凡だけど平和な日々が待っている。それが私の人生だ。親戚は特別な人たちでも、私自身は普通そのもの。間違っても、猫を被った腹黒男に狙われているなんてことが、あってはならないのだ!
 そう、夢。絶対に夢。
 私は自分にそう言い聞かせて目を閉じた。朝起きたら、その夢から覚めていることを願って――


     * * *


 けれど、やっぱり夢なんかじゃなかった。
 ファーストキスを奪われた上に、し、舌まで入れられたんですけど……!
 課長の豹変ひょうへんぶりにすっかり意識を奪われていたけれど、人生初のキスが、いきなりアレって……アレって……うわぁぁぁぁ!
 感触までリアルに思い出してしまい、私はベッドの上でゴロゴロと転がった。
 そしてキス以上に衝撃的だったのが、課長の告白……いや、宣言だった。
 好きだって言われたよね、私!?
 いつから、いつからそんなことになっていたんですか、課長ーー!?
 そりゃあ確かに他の人よりは構われていたし、可愛がられていたとも思う。そのことに、密かに優越感さえ感じていた。だけど、それはあくまでペットや妹を可愛がる感覚だと思っていたのだ。
 だって課長だよ? 容姿も頭脳も身分も何もかも兼ね備えたあの課長が、私なんかを恋愛対象として見るなんて思うわけがない。だって私は課長が今まで付き合ってきたタイプとは、まるで正反対なのだから。
 なのに好き? 私を好き? ……信じられない。
 だけどキスは元より、課長に色々言われたことを思い出すと……

『君の身体を開いて一つになりたいし、絶頂に達した時の声も聞きたい』

 脳裏にその言葉がはっきりよみがえった瞬間、顔がカアッと熱くなった。

「ぎゃーーー!」

 私は叫び声を上げ、再びベッドの上で身悶みもだえる。
 私を好きだというのはイマイチ信じられないけど、自分が狙われているのだけはバッチリ分かりましたとも!
 こうして私が佐伯家所有のマンションにいるのも、彼の作為によるものだって今なら理解できる――今さらだけど!
 おバカな私は課長が仕掛けたわなの中に、自ら飛び込んでしまったのだ。
 透兄さんが「だから言わんこっちゃない」と言って呆れかえる顔が目に浮かぶ。
 なぜだか分からないけど、透兄さんには分かっていたのだと思う。課長の思惑が。……まさか同じマンションに越して来ることまでは、予想してなかっただろうけど。
 透兄さんも、もっとはっきり言ってくれていたらよかったのに。それか、もっと反対するとか……
 そこまで考えて、私は首を振った。
 ううん、透兄さんに責任転嫁せきにんてんかするのは間違っている。だって透兄さんは佐伯家所有のマンションに住むのはやめろと言っていたし、課長に気を付けろと忠告もしてくれていた。
 それを無視して、ここに住むと決めたのは私自身。つまり私は、自分で自分の首を思いっきりめたのだ。
 今頃、課長は「してやったり」とか思っているんだろうな。
 自分の迂闊うかつさに腹が立った。誰のせいにもできない鬱屈うっくつした思いは行き場を失くし、自分に跳ね返ってくる。
 ……それにしても、いつから課長にそんな目で見られていたのかな。ちっとも気付かなかったんですけど?
 ペット扱いされだした頃から? だけど、あの時課長はH社の美人営業課長である岡島おかじまさんと付き合っていたはず。
 岡島さんの颯爽さっそうとした姿を思い出すと、何だか胸がキュウとうずいた。だけどそれには気付かないフリをする。
 岡島さんと破局したあと、課長は誰とも付き合っていない。それまで恋人がいない時期なんてほとんどなかったのに珍しいと、部署内で何度か話題になった。
 もしかして、あの頃から……?
 いや、それは自惚うぬぼれすぎだろう。だってあんなにモテる課長が、私のために美人さんたちのアプローチを断っていたとは考えにくい。
 だって私は何も持ってない。課長の隣にいるのに相応ふさわしいものを、何も――
 思考がネガティブになってきて、私は慌てて首を振った。これ以上は考えても苦しくなるだけだと、頭の中で声がしたのだ。私はその声に逆らわない。なぜなら、それは自分を守るための本能の声だから。
 私は気分を一新しようとベッドから出て、カーテンを開けた。日の光が部屋と私を照らし出し、まぶしくて一瞬目を閉じる。
 窓を開けると、三月のまだ冷たい空気が入ってきて、私はぶるっと身を震わせる。でもそのおかげで眠気が覚め、頭もシャキッとした。
 今日は記念すべき、一人暮らし第一日目。だけど、感慨にふけっている暇はない。貴重な休日なのだから。
 私は窓を閉め、時計を見ながら今日の予定を立てる。
 まずは外に出て食事をして、それから買い物をするのだ。今、この部屋には食べるものがない。冷蔵庫はあるけど、中身は空っぽだ。というわけで、食料を買ってこねば。
 そうして私は、慌ただしく身支度を始めた。そのごく日常的な行為と、窓から差し込む明るい日の光が、昨夜のことをますます現実から遠のかせる。本当に夢だったような気さえしていた。
 ファンデーションと口紅という必要最低限の化粧をすると、クローゼットに向かい、中からコートとバッグを取り出した。
 ――その時だ。いきなり『ピンポーン』という音が、部屋に響いたのは。
 コートとバッグを手にしたまま、思わず飛び上がる。ドキドキしながらインターフォンの室内機に目を向けると、それは小さな赤い光を発して来客を告げていた。
 私はごくんとのどを鳴らす。
 ……と、隣の部屋の人とかだよね!? 決して、夢の中で最上階に住んでいると言っていたあの人じゃなくて!
 そう思いながらも、まるで爆弾のスイッチを押すかのような気分でインターフォンのモニターをオンにする。そこには、コート姿で眼鏡をかけた仁科課長が映っていた。
 キターーーー! と思って青ざめると同時に、ほんの少し安堵する。モニターに映っている課長はいつもと変わらない姿だったからだ。ほんのり柔和にゅうわな笑みを浮かべるその顔を見て、「ああ、やっぱりあれは夢だったのかも」なんて思った。
 だから『ピンポーン』ともう一度チャイムが鳴り響いた時、私はつい通話ボタンを押して応じてしまった。

「は、はい?」

 ……まぁ、声は思いっきり裏返っちゃいましたけど。

「おはよう、上条さん」

 モニター越しに、課長はおなじみの穏やかな口調で言った。ここが会社だと錯覚してしまいそうになるほど、本当にいつも通りの彼だった。

「お、おはようございます」
「昨夜はよく眠れたかい?」

 私と課長が主演のとんでもない夢を見たので、全然眠れませんでした! ……などと言うわけにはいかず、適当にお茶をにごす。

「え、ええと……そ、それなりに……」
「……そう、よかったね。ところで、もう朝食は食べたかな?」
「い、いえ、まだです。部屋にまだ食べる物がなくて……」
「だと思った」

 課長はモニターの向こうで――いや、ドアの外でにっこりと笑う。

「俺もまだなんだ。一緒に食べにいかないかい? 近くに美味おいしい店があるんだ」


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