4番目の許婚候補

富樫 聖夜

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3巻

3-1

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   第1話 小さな変化


「まなみちゃん、『あれ』以来、会社での噂はどうなったの?」

 十月のとある日曜日。私――上条かみじょうまなみ――は、三条さんじょう邸の居間で久しぶりに全員集合した従姉妹いとこたちとお茶を飲んでいた。
 一歳年下の従妹いとこ真央まおちゃんの問いかけに、私は答える。

「会社での噂? ああ、あの噂ね」

 私はこれまでに二度、会社で噂のまとになってしまったことがある。
 一度目は、三条家の御曹司で私の従兄いとこでもある三条とおると、上司の仁科にしな彰人あきひと係長が会社の受付ロビーで私を奪い合ったというもの。
 二度目は本当につい最近のことで、先の噂が事件を呼び、透兄さんを前々から狙っていた早坂はやさか商事のお嬢様が私の会社に乗り込んできた時のことだ。そこになぜか従姉いとこ真綾まあやちゃんと仁科係長も駆けつけて、壮絶な五角関係(?)……とにかく修羅場を繰り広げた、ということになっていた。もちろん根も葉もない噂だ。
 一度目の騒動は数ヶ月前のことだし、人の噂も七十五日ということわざ通り、もう下火になっているから、真央ちゃんが知りたがっているのは二度目の件だろう。

「幸い前の噂と違って、あまりに嘘くさくて、わりとすぐに静かになったよ」

 SAEKI情報システムに入社して二年目の私は、新事業推進統括本部で企業調査チームの一員兼、部内の秘書を務めている。兼任というとやり手のようだけど、どっちも補佐的な役割にすぎなくて、まだまだペーペーの身だ。性格も容姿も至って普通で、どこにも目立つ要素はない。
 それでも、透兄さんと係長との三角関係は、まだ少しは疑う余地ありってことで長く噂になっていたけど、二度目は一般庶民な私と超エリートセレブな四人という組み合わせの不自然さから、冗談まじりに噂が広まった感じだった。だから、あっという間に噂もおさまった。

「それはよかったじゃん。まなみちゃんの素性を勘ぐられることもなかったんでしょう?」
「うん。これも幸いに」

 ――素性。なぜ私が、二度も会社で噂の的になってしまったのか。その理由のすべてが、素性に関係している。
 実は私、国内屈指の大企業を経営している三条家と血縁関係なのだ。
 母方の祖父は三条家の当主で、私も孫娘に当たるけれど、ここにいる従姉妹たち――真綾ちゃん、まいちゃん、真央ちゃんみたいにお嬢様というわけじゃない。中小企業に勤める父と三人で暮らす、一般的なサラリーマン家庭の娘だ。
 顔立ちだって美形揃いのイトコたちとは似てないから、一見血がつながっているようには見えないだろう。それはそれで少し複雑だけど、三条家の一員であることを、会社では内緒にしている私にとっては不幸中の幸いだ。
 え? なぜ隠しているのかって?
 だって、別の企業の経営者一族が働いているって、変に勘ぐられても困るでしょう?
 私は平凡だけど平和に暮らしていければ、それでいいと思っている。だから、三条家にゆかりのない会社に就職もしたのだ。
 それともう一つ、重大な理由がある。

「まなみちゃんってば、よりによって透お兄ちゃんと例の仁科彰人さんと噂になるだなんてね」

 真央ちゃんが、くすくすと可笑しそうに言う。

「笑い事じゃないよ」

 私は口をとがらせた。あの時は本当に、生きた心地がしなかったのだ。
 私が会社で素性を明かしたくない最大の理由。それは今、真央ちゃんが仁科係長を「例の」と言ったことにも関係がある。
 私の上司である仁科係長――仁科彰人さんの本当の名は佐伯さえき彰人で、日本屈指の大企業・佐伯グループの御曹司なのだ。つまり、私がうっかり就職してしまった会社を統括とうかつするグループの一人息子というわけ。
 彼もまた、素性を隠して働いているらしい。系列会社で武者修行をしている、といったところだろうか。
 しかも……三条家と佐伯家の間には結婚話が持ち上がっていて、ゆくゆくは私たち従姉妹いとこのうちの誰かが、係長のところへお嫁に行かなければいけないらしい。
 真央ちゃんの言う「例の」には、そんな理由がある。
 ちなみに許婚候補の筆頭として名前が挙がっているのは、三条家の内孫である従姉いとこの舞ちゃんなんだけど、もし駄目なら別の従姉妹を次の候補に、という算段らしい。私は内孫ではないし、お嬢様でもないから最後の四番手の許婚候補だ。
 だから、本来ならばこんなややこしい事態に巻き込まれず、平穏な生活を送れると思っていたのに……
 縁談のことを知らされたのは、今の会社に就職が決まったあとで、その後も偶然が重なって「例の」仁科係長と同じ課に配属されてしまった。さらに色々あって部内の秘書業務も兼任しているから、係長である彼と接触する機会がますます増えてしまった。入社当初は、適度に距離を保っていたはずなのに。

「でも、その噂は消えたんでしょ?」

 と口を挟んだのは、従姉妹の中で一番年上の真綾ちゃんだ。

「消えたけどねぇ、確実に傷跡を残したというか……」

 私はコーヒーカップを持ったまま、ちょっと遠い目をした。

「二度にわたる騒動のせいで、係長の熱心なファンの方々の目が厳しくなってね……」

 事情を分かってくれている所属部署では大丈夫だけど、最近、他部署の女性社員の視線が痛い。とくに秘書課のお姉さま方に、やたらとにらまれるようになった。面と向かって嫌がらせをされたことはないけど、すれ違いざまに「調子にのってるんじゃないわよ」なんて言われたり。

「ああ、モテそうだもんね、あの人」
「だよね、透お兄ちゃんとはまた違った美形っぷりだったよね!」

 真綾ちゃんと真央ちゃんは、私の言葉に訳知り顔でうなずき合っている。真綾ちゃんは先日会社で、真央ちゃんは前、一緒に参加した合コン会場で係長を見かけたことがあるのだ。

「係長が美形なのもモテるのも否定はしないけど、なんで私が災難に遭うの……」

 とにかくこれ以上、目をつけられないようにしないと!
 ……とは思うものの、最近とくに構われ具合が激しくなっているような気がしないでもない。時々、ご飯とかお茶に誘われるし。頭を撫でられるのもしょっちゅうだ。だからこそ、秘書課のお姉さま方は、面白くないのだろうけど。
 そんなことを考えていると、不意に足元のバッグの中からメール受信を告げる携帯の着信音が鳴り響いた。

「会社の携帯がなんで休日に……?」

 私はバッグから携帯を取り出す。土日に連絡だなんて、何かあったんだろうか。

「会社? 誰から? 誰から?」

 真央ちゃんが何かを期待するような顔つきで聞いてくる。
 私はメールのアドレスを確認しながら答えた。

「係長」

 メールの送り主はちょうど今、話題にしていた仁科係長だった。

「ふぉぉぉぉぉ!」

 真央ちゃんが何やら奇声を上げているけれど、私は構わずメールを開く。
 仁科係長は明日から二日間の予定で出張に行くことになっている。今回その出張の手配をしたのは私で、連絡があるということはそれに関連することに違いない。
 案の定メールは、出張についてのもので、急遽きゅうきょ別案件の資料も持参することになったと書かれていた。明日、出社したら資料のデジタルデータをメールで送ってほしいとのことだ。
 私は素早く返信画面を開いて了承の返事をした。
 すると、数分後にはふたたび係長からメールが。


『ありがとう。休日なのに邪魔してすまないね。このお礼は必ずするから。お土産も期待してくれ』

 お礼を言われるほどではないけれど「お土産」の文字についつい心がおどる。
 そんな私の様子を見ていた真央ちゃんが、ニヤニヤと笑みを浮かべながら言った。

「休日なのにメールが来るなんて、まなみちゃんってば、係長さんと仲いいじゃん!」
「へ? これ、会社の携帯だよ? 仕事の話だよ!?」

 私は慌てて携帯をかざしながら言った。こんな仕事上のやりとりで、係長との仲を疑われるなんて心外だ。

「ほう、ほう」

 けれど真央ちゃんのニヤニヤは止まらない。からかわれているのだと分かっていても、反論せずにはいられなかった。

「係長と私は、お互いにプライベートで使ってる携帯の番号なんて知らないよ。会社支給の携帯だけ。しかも純粋に仕事のやり取りしかしてないんだから!」
「でもお姉ちゃんの話だと、係長さん、早坂の馬鹿お嬢がまなみちゃんの会社に乗り込んだ時、心配してわざわざ様子を見に来たんでしょう。それって、上司として部下を守るっていう職務の範疇はんちゅうじゃないよね?」
「だからそれは、騒動の発端が係長にもあったからであって――」

 言いかけて、これ以上真正面からやり合っても無駄だと判断した私は、追及をかわすべくもう一人の従姉いとこ――舞ちゃんに無理やり話を振った。

「私のことより舞ちゃんは? 舞ちゃんの会社に誰かいい人いないの?」
「え? 私?」

 さっきから一言も発さず私たちのやり取りを傍観ぼうかんしていた舞ちゃんは、突然話の矛先が自分に向けられて目を丸くする。

「そうそう、瀬尾せおエンジニアリングも大きな会社で、舞ちゃんの部署には男性社員だって多いんでしょう? 誰かいいなぁと思う人はいないの?」

 舞ちゃんは今、真綾ちゃんや真央ちゃんのお父さんが経営している会社で働いている。従弟の瀬尾りょうというお目付け役がいるとはいえ、男性と知り合う機会はいっぱいあるはずだ。
 舞ちゃんも私と同じように勤め先の会社では素性を隠しているし、声をかけられていてもおかしくない。

「あ、私もそれは聞きたい!」

 真央ちゃんが話題に食いついた。

「舞ちゃんを巡って、男性社員が殴り合いのケンカをしていても驚かない!」
「そんなことないわよ」

 くすくす笑う舞ちゃんだけど、まっすぐ伸びたストレートの髪も気品のある顔立ちも、まるで高価な人形のように美しく、どこにいたって人目を引く。真央ちゃんの言うように世の男性が放っておくはずないと思うのだけど、浮いた話は一切聞かない。

「わが社には真綾ちゃんというマドンナがいるしね。それに私が所属する経理課は男性社員が少ない上に、ほとんど妻子持ちよ。そんな色っぽい話になんてならないわよ」

 まるで舞ちゃんから男性を遠ざけているような……作為的さくいてきなものを感じるのは気のせいかな?

「そんなこと言って、本当は舞ちゃん、経理課のマドンナって言われているのよ」

 真綾ちゃんが笑いながら口を挟んだ。

「だけど、誰のお誘いも断っちゃってるの。それにどうも経営者の子息である涼が同棲中の彼氏と思われているみたいで、すっかり高嶺たかねの花扱いよ」
「げっ、涼?」

 私と真央ちゃんは同時にうめいた。
 従弟の涼は、部屋は違うけれど真綾ちゃんや舞ちゃんと同じマンションに住んでいるのだ。時々送り迎えもしているそうだから、連れ立って帰宅したら、同棲しているように見えるかもしれない。けれど……

「よりによって、涼!」
「絶対それって確信犯だよね。舞ちゃんに群がる男どもを追い払うために、誤解されると分かってて、一緒に出入りしているんだよ、あいつは。ああ、やだやだ。どうしてあんな陰険な奴が弟なんだろう!」
「そんなことは……。まぁ、でも実際、少ししつこく誘ってきた人がいた時は、涼に助けてもらったから……」

 苦笑して言った舞ちゃんの歯切れが悪いのは、涼の「男け作戦」のおかげで助かった部分もあるからだろう。だけどやっぱり近づく男を片っ端から排除するやり方は、いかがなものかと思う。

「舞ちゃん!」

 私は向かいに座っている舞ちゃんの手をぎゅっと握って言った。

「あんな過保護で束縛してくる男に、感謝する必要なんかないんだよ。それに、せっかく三条家から離れて暮らしているんだから、もっと普通の会社員っぽい生活を楽しんでいいと思う」

 しゃべりながら感情的になっていた私は、不意に言わなければならない気がして、少しの間を置いて口にしていた。
「男の人と知り合って、いっぱい話をして……恋だってしていいと思う」と。
 許婚の筆頭候補ということになっているけど、舞ちゃんは嫌がっている。無言の抵抗として家出までした。その甲斐かいあってか、とりあえず二年後まで保留って形になったけど、時間が経ったところで舞ちゃんの気持ちは変わらないだろう。その期限も、あと半年に迫っている。
 そもそも、期限がこようがこまいが、舞ちゃんがそれに縛られる必要はないと思う。相手の係長だって、この一年半の間に何人もの女性と付き合っていたのだし。

「まなみちゃん……ありがとう」

 舞ちゃんがふわっと笑った。それはとても綺麗で、だけどどことなくはかなさを感じる笑顔だった。
 ……あとになって思う。この時、舞ちゃんはどんな気持ちで笑顔を作っていたのだろう。
 私は楽観的にも、本人たちが望んでいない以上、何とかなるさと思っていた。と同時に、自分は許婚候補とはいえ四番目で、おはちがまわってくることはないだろうと、どこか他人事と捉えていた。


 ――けれどこの時すでに、私の知らないところで何かが少しずつ変わり始めていた。



   第2話 携帯番号


『係長と私は、お互いにプライベートで使ってる携帯の番号なんて知らないよ。会社支給の携帯だけ。しかも純粋に仕事のやり取りしかしてないんだから!』

 そう真央ちゃんに言ったのは、ついこの間のことだ。けれど、どうやらそれは訂正しなければならないらしい。


 仕事終わりのサラリーマンやOLさんでにぎわう釜飯屋で、私は今、なぜか仁科係長と向かい合っていた。


「というわけで携帯電話出して……?」

 きのこ釜飯を口に入れた状態で、私は差し出された手をポカーンと見つめる。
 今の係長の言葉は、上司命令なのだろうか。いや、いくらなんでもそれはないだろう。
 そんなことを考えながらも、私はご飯を咀嚼そしゃくして呑み込むと、素直にバッグからプライベート用の携帯電話を取り出して、仁科係長の手のひらにのせた。

「ありがとう。ちょっと借りるね」

 仁科係長は微笑むと、スーツの内ポケットから自分の携帯電話を取り出して操作し始めた。次いで、私の携帯を手にして何やらピコピコと操作をしている。
 その光景を横目に、私は茶碗によそった釜飯を口に入れ、もぐもぐもぐと咀嚼する。
 ああ、すごく美味しい! ここの釜飯屋さんは注文を受けてから調理を始め、炊きたてを提供してくれるのだ。
 私は、今度はもう一方の茶碗によそった海鮮釜飯も頬張り、もぐもぐする。
 ああ、こっちもすごく美味しい! やっぱり複数人で来ると、いろんな味が楽しめていいなぁ。


 と、どうして今、私と仁科係長が同じ釜の飯を食べたり、携帯を渡したりしているのか。それは、私が社用の携帯を会社に忘れたのが原因だった。
 事の発端は、数時間前にさかのぼる――
 帰りの電車の中で携帯を忘れたことに気付いた私は、いったん電車を降り、どこに携帯を置きっ放しにしたのかグルグル考えた。
 結果、会社の充電器置き場で充電したまま忘れたのではないかと思い至り、プライベート用の携帯電話からかけてみた。もしかしたら、残業で残っている人が気付いて、出てくれるかもしれない。
 コール音を聞きながら、じりじりと待つ。けれど十回ほどコールが鳴っても誰も出ない。明日は土曜だし、さすがに二日所在が分からないままにしておくのは心配だ。
 あきらめて会社に戻り、確認しようと思った時、誰かが電話をとってくれた。

『はい。SAEKI情報システム新事業推進統括本部の仁科です』

 聞き覚えのある声に、私はホッと安堵あんどの息をつく。

「係長! よかったぁ!」

 電話の向こうでクスクス笑う気配がする。

『携帯電話の忘れ物だね、上条さん』
「そうなんです! すみません! どこにありましたか?」
『充電器に差してあったよ』
「やっぱり……すみません。今から急いで取りに戻ります!」
『ずいぶん前に会社を出たと思うけど、帰宅途中だったんじゃないの? 会社に戻るまでに、どれくらいかかりそう?』
「ええと……電車で途中まで来ちゃいました」

 私は周りを見回し、壁に張られた電車の案内板を見ながら時間を伝える。

「電車に三十分くらい乗って、それから会社まで歩いて十五分くらいだから……あと一時間のうちには着けると思います」
『三十分か……』

 係長がつぶやき、数瞬の後に言った。

『あと少しで仕事が終わるから、会社の最寄駅の改札口で待ってなさい。携帯を届けてあげるから』
「え、えええ? だ、大丈夫ですよ。会社に行くくらいの手間は何でもありません」

 まさか、まさか、上司に携帯を届けさせるなんて、そんなことはできませんよ!
 けれど電話の向こうの人は何でもないことのようにサラッと言った。

『駅から会社まで片道十五分ということは往復で三十分かかるってことじゃないか。遠慮はいらない。俺も同じ駅から電車に乗るし、残業が終わってちょうど帰る頃だから、手間でも何でもない』
「え、ででででもっ」

 悪いから、と続けようとした私の言葉は声にならなかった。それより先に、こう言われてしまったから。

『上条さん。好意は素直に受けておきなさい』

 優しい声と口調なのに、どうしてだか逆らえない。

『俺に悪いなんて考える必要はない。別に迷惑でもなんでもないから、ね?』

 私は逡巡しゅんじゅんしながらも、結局こう答えるしかなかった。

「は、はい……。お言葉に甘えて、よろしくお願いします」

 どうしてだか、この人には逆らえない。

『それじゃ、駅ですれ違うと困るから、連絡用に上条さんの携帯番号を教えてもらえるかな?』
「あ、はい」

 番号を伝えると、係長はメモをとっているようだった。

『了解。俺の番号も教えておくから、何か書くものは手元にある?」
「あ、はい」

 私は言われるままにバッグからスケジュール帳とペンを取り出し、係長の番号を書き留めた。

「はい、メモしました」
『それじゃ、今から三十分後に駅の改札口で待ってるから』
「どうもお手数おかけしてすみません!」
『本当に手間でもなんでもないから、恐縮する必要はないよ、上条さん』

 最後にクスクス笑って、仁科係長は電話を切った。
 優しいけど、それに甘えて上司を使い走りにするってどうなんだろうか。許されるんだろうか。
 突然の出来事に、いささか呆然ぼうぜんとしていた私だったけど、ちょうど会社へ戻る方面の電車が来たので頭を切り替えた。
 とにかく、係長を待たせるわけにはいかない。私は電車に飛び乗った。


 この時間、オフィス街へと向かう電車は人もまばらだった。
 私は空いている席に腰掛け、ついさっき仁科係長の携帯番号をメモした手帳をじっと眺める。
 さっき係長が教えてくれた番号は、〇九〇から始まっていた。社用の携帯はすべて〇八〇で始まるから、つまりこの番号は――秘書課や受付のお姉さま方が喉から手が出るほど欲しがっている、係長のプライベートの携帯番号ということで……
 その事実に改めて気付き、ごくりと唾を呑む。
 わ、私が知ってしまっていいんだろうか? 係長ったら、社用携帯の番号でよかったのに……。私みたいな部下に、こんな個人情報をホイホイ教えては駄目じゃないのか。
 たしか社内で係長のプライベート番号を知っているのは、私の直属の上司である田中たなか雅史まさし主任くらいしかいないと聞いたことがある。
 ……でも、プライベートの番号を教えてくれたってことは、私を信用してくれていると考えてもいいのかな。秘書業務の補佐という役割柄、比較的係長と関わることも多いし、この間は不本意ながら早坂のお嬢様と共に戦った戦友でもある。
 そう考えると、この番号が何だか信頼のあかしみたいに思えてくる。
 許婚問題を考えると戸惑う部分も多いけど、なんだか係長に認めてもらえたようで……悪い気はしない。それどころか、なんとなく嬉しい。
 まぁ、教えてもらったところで係長の私用な電話をかける機会なんてないだろうけど……
 私は妙にうきうきした気分で手帳を握り締め、電車に揺られていた。


 三十分後、会社の最寄駅に着いた私はホームを走り、階段を駆け上がった。できるなら係長より先に改札で待っていたかった。
 でも、改札口付近に辿たどり着いた私の目に飛び込んできたのは、自動改札機の前でたたずむ係長の姿だった。
 自然と目が彼に引き寄せられ、すぐに気付いた。背が高くイケメンで、もともと目立つ要素満載の人だけど、それよりなにより彼の周りだけ空気が違うのだ。
 うまく言えないけど、一目で何か特別なものを感じさせる、そんな空気だ。
 そう感じているのは私だけじゃないらしく、改札を通りすぎる人は、女性はおろか男性でさえも彼を見ている。
 その光景は部下として誇らしかったけれど、同時になぜか少し寂しくもあった。
 どこにいても人目を引く、特別な人。近くて、でも本当はとても遠いところにいる私の上司……
 不意に私がいる方を見た係長と目が合う。彼は目元と口元をほころばせ、私に微笑みかけてくれた。
 それと同時に、さっきまで係長がかもし出していた近寄りがたいオーラが、一気に霧散むさんしたように感じた。
 そのことに妙な安堵あんど感を覚えつつ、私は足早に自動改札を抜けて係長の所に突進した。

「すみません、係長! お待たせしちゃって!」

 ぺこぺこと頭を下げる。そんな私に係長は優しく笑って言った。

「いや、俺も今、着いたばかりだから気にしないで」

 ……ああ、なんて優しいんだろう。さっきまで、少なくとも数分は私が遠くから係長に見入ってしまっていた時間があるし、今着いたばかりのはずはない。でもそんなことは、おくびにも出さないのだ。
 ちょっとじーんとしている私に、係長はスーツの内ポケットから会社用の携帯を取り出して渡してきた。

「はい。これ、君の携帯」
「すみません! ありがとうございます!」

 私はふたたび頭を下げて携帯電話を受け取った。
 仕事が終わったらすぐ帰宅したいだろうに待っていてくれた係長を長く引き留めるのは悪いと思い、私はお礼を言ってその場を立ち去ろうとした。
 その時、いきなり私の手を取った係長が一言。

「じゃあ、ご飯でも食べに行こうか」

 そうなることがあらかじめ決まっていたかのような、まるでそのために待ち合わせしていたかのような口調だった。

「――は?」

 ポカンと彼を見上げる私の目に映ったのは、にっこりとした明るい笑顔だった。
 途端に、私の心の警戒スイッチがなぜか微弱だけど入る。けれど久しぶりだったことと、あまりの不意打ちに脳がフリーズ状態になっていて、警戒しながらもなんの対処をすることもできず――


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