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2巻
2-2
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でも、分かるのですよ……、私たちには。どんなに笑みを浮かべようと、どんなに礼儀正しく女性に答えてようと、依然としてヤツが黒いオーラを発していることが。
機嫌悪! いつもなら私たちにしか腹黒な対応はしないのに、今日はその外面のメッキが若干剥がれかけているようだ。
これってやっぱり私たちのせいだろうか。機嫌が悪くなるくらいなら、こんなところまで邪魔しに来なければいいのにと思うのだけど。いつものことながら、腹黒なヤツの考えていることはよく分からない。
そんなことを思いながら涼の動向を横目で窺っていると、ずうーんと重い空気をまとってチビチビお酒を飲んでいた真央ちゃんがいきなり覚醒した。
真央ちゃんは持っていたビールのジョッキをダンッとテーブルの上に乱暴に置くと、向かいの男性陣に鋭い視線を走らせる。そして、私たちの様子を窺っていた男性のうち、唯一ハッと視線を逸らした人物を、すさまじい目つきで睨みつけた。
視線で人が殺せるなら、きっとこの場で彼は絶命していたんじゃないかと思うほど苛烈な視線だった。
――『あんたか!』
真央ちゃんがほとんど口も動かさずにつぶやいた声を、私は確かに聞き取った。隣にいるから、真央ちゃんが奥歯をギリギリと噛み締めている音まで聞こえてくる。
ああ、やっぱりね……。私は梅サワーをちびちびと口に運んでため息をついた。
かねてから疑っていたことが、これで証明されたようなものだ。
今夜のことはお互いの親から漏れるはずがない。だって私も真央ちゃんも、いっさいそんなことは言ってないから。そして真央ちゃんは友達にも今日の合コンのことは極力話さないようにして、参加する女友達にも自分が来ることを漏らさないように口止めしてあったのだ。
なのに涼はここにいる。
誰かが真央ちゃんが参加すること――おまけに従姉の私を連れてくることを、涼に告げたとしか思えない。それしかあり得ない。
いえね、私が大学生の時からちょっと疑っていたのですよ。
今回のように合コンに直接乗り込んでくることはなかったけど、いくら隠しても透兄さんと涼は私が合コンに参加したことを知っていた。まぁ、私の電話を盗聴していれば私がいつどこで合コンに参加するのかを知ることができるかもしれないけど。
でも、あの二人は合コンの場で起こったことも知っているようだった。誰かに聞かないと、それは絶対にあり得ない。となると、それを言った人間――私の動向をスパイして知らせている人がいるってことじゃない?
私は大学生の頃はサークルにも入ってなかったし、多分クラスメイトでよく行動を共にしていた女性友達のうちの誰かが私の動向を教えていたのだと思うけど、真央ちゃんのスパイは副幹事の彼だったみたい。
私を連れて来ることまで知ってたあたり、真央ちゃんの向かいにいる幹事の人が一番怪しかったりするけど、副幹事の人も、いろいろセッティングを手伝っていたみたいだから、前もって彼も私が今日来ることを知ってもおかしくない。それに幹事の人はさっき涼のことをはっきり「副幹事の知り合いが」って言ってたから、間違いないと思う。
……これはあとから真央ちゃんに聞いたのだけど、副幹事の人は、なんと瀬尾エンジニアリングに就職が決まっているのだそうだ。それを聞いて納得した。
真央ちゃんの動向を探って涼か透兄さんに報告していた人は彼だけじゃないのかもしれないけど、間違いなく彼もスパイの一人だろう。
スパイの存在が確定したところで、ちょっと背筋が寒くなった私だ。だって、私の大学時代に怪しい影があったってことはさ、今も会社にそういった人材を配置している可能性があるってことでしょう?
同じ部署か違う部署か分からないけど、私の動向とか伝えている人がいたり……して……
しゃ、洒落にならないよぉぉぉぉ! 大学時代ならともかく、社会人になっても安心できないなんて、そんなの想像したくもないんですけど!
でももし会社関係の合コンに内緒で行って、その時の様子を透兄さんとか涼が知っていたりしたら……
ゾッとした。いや、考えるな私! 考えたらドツボにハマるぞ!!
涼を問いただしたい気持ちを抑えて、私は念仏のように「気のせい、気のせい」と心の中で唱え続けたのだった。
その涼は相変わらず周囲には分からない黒いオーラを撒き散らしながらも、彼目当てだと思われる女の子の質問に律儀に答えていた。
「瀬尾さんは、彼女とかいるんですか?」
一人の女の子が質問する。合コンに参加する人はだいたいシングルのハズだけど、涼がピンチヒッターということは誰もが知っているから、彼女たちはこの質問をしたようだ。話しかけている女の子たちだけじゃなくて、周囲もおしゃべりをパタッと止めたところを見ると、みなさん知りたかったことらしい。
肝心の涼は視線を一身に浴びながらも余裕の笑みで、さらっと答えた。
「さあ、どうでしょうか。想像におまかせします」
何よその意味ありげな回答は。……別に隠すほどのことじゃないんだから、いるのかいないのか、はっきり言えばいいのに……と思うのは私だけではないはずだ。涼に彼女がいるなんて話は聞いたことないから、単に女避けのためにはぐらかしているに違いない。
私としては、とっとと彼女を作って欲しい。恋人ができれば過保護にする対象が彼女に移るだろうし、従姉の私生活を監視する時間も暇もなくなると思うんだ。
「やっぱり彼女いるんだぁ。残念」
質問した子は、どうやら彼女がいると解釈したらしい。
とはいえ、そもそも彼女がいる人間が合コンに参加するものだろうか。私なら彼女がいるなら人数合わせでも合コンなんか行くな! って言う。
そう思ったのは、どうやら私だけではなかったらしい。明らかに涼が気に入らないという顔をしている男の人が何人かいる。
私はなんだか、その人たちに申し訳なくなった。だって、涼がこんな所にいるのは間違いなく私たちのせいだから。
ふと隣を見ると、真央ちゃんはスパイ容疑をかけている副幹事を睨みつけるのをやめて、ビールジョッキを片手にヤサグレモードに入っていた。
ブツブツ小さな声で何か言っているのを、耳を澄まして聞いてみると――
「……覚えてなさいよ。あんたをモデルにして実名でBL本出してやる。あんたは受けよ、受けキャラよ。ヤラれちゃえばいいんだ」
と恐ろしいことをつぶやいている。
副幹事さん。どうやら真央ちゃんの描く漫画の中で、貞操の危機を迎えてしまってるみたいです。私は漫画になった時の彼の相手が気になった。……やっぱりここは腹黒キャラだよねって、私ってば何考えてんでしょうか! そんな場合じゃないのに!
「真央ちゃん、気を確かに。実名はまずいよ。名誉毀損で訴えられちゃうよ」
小声で注意するも、真央ちゃんに一蹴された。
「ふん。だったらこっちだって私生活を売られたんだから訴える資格あるよね! 私のプライバシーを侵すなってんだい」
あ、あれ? 真央ちゃん酔ってる? 酔ってます?
何だか目が据わってるけど、涼と副幹事さんへの怒りでアルコールの回りが早くなってしまったのだろうか。心配している私の目の前で、ビールをぐびぐび飲み干す真央ちゃん。
あ、またお酒注文しちゃってるし!
真央ちゃーん、腹黒な涼の目の前でヤケ酒なんてしたら何言われるか分からないぞ?
案の定、ヤサグレてやけ酒をあおっている真央ちゃんと、それを見てオロオロする私に、涼の冷たい視線が注がれる。「何やってるのさ?」という涼の心の声が聞こえてきそうだ。
「瀬尾さんはお酒、駄目なんですか?」
さっき彼女はいるのかと質問していた子が、ふたたび涼に声を掛けた。
どうやら、涼がいたくお気に召したらしい。さっき彼女がいるっぽいニュアンスを汲み取って身を引いたのかと思いきや、あわよくばという心情が透けて見える。質問自体は至極まっとうなものなんだけど、口調が甘ったるい。
モテ男の涼は、そんな風に媚を売られるのも慣れたものらしく、適当にあしらってるようだけど。
「いえ。お酒は飲みますよ」
「でも、今飲んでるのはお酒じゃないですよね」
確かに涼が持っているのはウーロン茶。ウーロンハイでもビールでもなく、ノンアルコールのドリンクだった。
「今日は車で来ているので、アルコールは控えてるんです」
「少しくらいなら平気じゃない?」
「いえ――」
と言って涼は一瞬思わせぶりに言葉を切ると、質問してきた彼女及び興味津々で会話を聞いている人たちに視線を向けてから、ふたたび口を開いた。
「これから人を送る予定なので、安全運転しなくちゃならないんです。そうでなくてもアルコールはまずいでしょう」
その台詞はごくごく当たり前のものだった。だけどそれを聞いた途端、ぞくっと一瞬だけ背中に悪寒が走ったのは気のせいだろうか。ものすごく悪い予感がする。
「もしかして彼女? このあとデートだったりするの?」
「いいえ、違います」
涼はにっこり笑うと、私たちの方にいきなり視線を向けた。
ヤサグレモードに入っていた真央ちゃんの反応は遅れたけど、私はしっかり涼の笑顔に黒いものを発見してしまってビクッと身体を震わせた。そんな私に冷笑を向けて涼は言った。
「姉と従姉を送り届けるんです。――ね、二人とも。そうだよね」
そんなの聞いてません、知りません! ってか、あっさり親類だとバラさないでよ!!
顔を引きつらせる私たちと、私たちをじっと見つめる涼を交互に見て、周りの人たちは気付いたらしい。幹事の人がハッとして言った。
「そういえば瀬尾って名前……偶然同じ名字なんじゃなくて……姉弟だったのか?」
「ええ。そうです。俺の斜め横に座ってるのが姉で、向かいが従姉です。偶然同じ合コンに行くことになったので、帰りは送ることになっているんですよ」
うわーお。よくそんな嘘が、ぺらっぺらと口から出るもんだ。
思わず感心するよ――って、そうじゃなくって!
「ちょっと……」
真央ちゃんが反論しようとした途端、涼の笑顔に黒いオーラが増した――。その笑顔が、そして笑っているのにちっとも笑ってない目が「何か文句ある?」と言っている。
こっちは嘘をついて合コンに出席している手前、強く出ることができない。
「い、いえ。何でもない……」
真央ちゃんがしおしおと萎れて白旗を掲げるのを、なんともいえない気分で見守った私だった。
結局、私たちがあまりにも暗いものだから、周りの人は遠慮してあまり話しかけてこなかった。無情にもそのまま私の門限が近付き、真央ちゃんともども涼に促されて合コンを抜けることになった。参加者の頭の中は、「あの子たちは何だったんだろう?」と疑問符でいっぱいに違いない。姉弟で合コンに参加するわ、テンション低いわ、途中で帰るわ……。けれど申し訳ないが、彼らを気遣う余裕はなかった。
出荷される家畜のような心境で居酒屋を出る私たちに、相変わらずの黒い笑みを貼り付けた涼は言う。
「車を回すから店の前で待っていて。……逃げようだなんて思わないでね、二人とも?」
青ざめながら首を上下にガクガク動かす私たちに、涼はなおも言う。
「よろしい。逃げても、自分の首を絞めるだけだからね。大人しく待っているように」
そうして私たちに釘をさしてスタスタと駐車場の方へ行く涼のうしろ姿を見送り、私と真央ちゃんは「はぁぁ」と同時に深いため息をついた。
「うう。まなみちゃんゴメンね。まさか涼がくるなんて!」
「真央ちゃんのせいじゃないよ」
それにしても、大学時代私が合コンに参加して叱責を受けるのはいつも事後だったし、表立って参加を阻止されることもなかったのに、どうして今日は……
こんな風に直接妨害を受けたのは実は今回が初めてだった。
――まあ、裏ではどうだかわからないけど。
でも待てよ、そういえば前に似たようなケースがあったかも。あれは確か、真綾ちゃんと舞ちゃんが二人揃って半分騙され、上流階級の方々が集まる食事会という名の合コンに参加した時のこと。透兄さんと涼が二人して乗り込んできて、妨害したなんてことがあったような。
……ということは、従姉妹が二人以上参加すると妨害工作に出るとみていいのではないだろうか。そんなこと分かっても、ちっとも慰めにはならないけど。
「うー。あいつー」
こんなことになった原因――涼の子飼いのスパイである副幹事さんに対する恨みを、真央ちゃんはふたたび募らせる。
「あいつが参加する合コンには、金輪際行かないんだから!」
「まぁまぁ。監視されているのは気分よくないけど、きっと真央ちゃんが酔っ払って変な男にお持ち帰りされそうになったら、副幹事さんが助けてくれることになってたんだよ。あれだ、アレ。防衛システムだと思えば……って、思えないか……」
慰めようとして言ったものの、わが身に置き換えてみたらとてもじゃないけど平常心ではいられなくなった。監視されているなんて、冗談じゃない。
合コン時に発動する防御システム以前に、日常生活を常に監視され、あの二人に報告されているなんて考えるのも嫌だ。いやいや、うちの会社にスパイなんていないんだからっ。
「思えないよぉ! 防衛システムなんていらない」
しくしくと両手を目に当てて、泣く真似をする真央ちゃん。
「だよね。いらないよね! ……ったく、どこまで過保護なんだか。ここまでくると異常だよね。この間だって透兄さんってば……」
いつものごとく透兄さんと涼の愚痴を言っていた私は、すぐ近くまで迫っていたトラブルの元に、全然、まったく、気付くことができなかった。
「上条さん?」
「ふぁ?」
私の名前を呼ぶ声を聞き、その直後に青ざめた。
こ、この聞き覚えのある声は……!
「上条さんじゃないか?」
ふたたび名前を呼ばれて、脳内データベースで声の主を超高速で検索する。そして一人の人物に思い当たった私は息が止まりそうなくらいドキッとし、恐る恐る振り返った。
そこにいたのは――ここでは絶対会いたくなかった人。
「やっぱり上条さんだ」
軽く驚きつつ笑顔を見せる仁科係長――佐伯彰人さん――が美人を連れて、数メートル先に立っていた。
……あれ? 一難去ってもいないのに、また一難?
「に、仁科係長」
とっさに思ったのは、なにやら色々マズイ! ということだった。
私の隣には三番目の許婚候補の真央ちゃんがいて、もうすぐここに涼も戻ってくる。ハイソな世界に身を置く三人は、その手の上流階級の集まりで一度くらい顔を合わせたことがあるかもしれない。
それもそれでマズイけど、私が何よりマズイと感じたのは「合コンなんて行きませんよ」と昨日豪語しておきながら、その舌の根も乾かないうちに合コンに参加している私自身の身の置き場だった。
これは何だか色々マズイしヤバイぞ!
「居酒屋の前で何を……、ああ、会社関係の人と飲み会か何か? あれ? でも今日はそんな予定なかったような」
ダラダラと嫌な汗をかいている私をよそに、係長は気軽にそんなことを聞きながら傍に寄ってくる。その距離、約一メートル。お互いの表情が見えてしまうくらいの近さだ。
できるなら、もっと離れたところから挨拶する程度で別れたかった……そう思う私は部下として薄情だろうか。
――っていうか、女連れの時に部下とはいえ他の女に声掛けるなと言いたい!
私はちらっと係長の斜めうしろに控えている美人さんに目を走らせた。この人はきっと水沢さんが前に言っていた、H商社で営業課長をしている岡島さんだろう。
小さな商社とはいえ、営業課長まで昇りつめたやり手のキャリアウーマンで、あの恋愛が長続きしないと噂の係長と、もう半年以上も付き合っているというツワモノだ。
年齢はええっと、二十九歳だったかな?
きりっとした美人で、いかにもデキる女っぽいデザインながら、女性としての魅力も引き立てる桜色の素敵なスーツを着ている。
――だけど。
あれ? と私は内心首をかしげた。
夜目だからだろうか。岡島さんの表情が、暗いというか青ざめているように見える。一応、笑みらしきものを浮かべているけど口元は強張っていて、無理に笑っているような印象なのだ。
「上条さん?」
岡島さんの表情に気を取られていた私は、ハッとして係長に視線を戻した。
あ、何か聞かれていたんだっけ。……ええと、何だったかしら?
「飲み会をしてたのか、ってさ」
横から真央ちゃんがこそっと耳打ちしてくれた。あ、そうだった。
「えっと、えーっと、会社関係ではない人たちとの飲み会に参加してまして」
あとから考えてみれば「二人で飲んでました」とか言えばよかったのだ。だけどこの時は慌てていて、そんな風に誤魔化そうとしていた。それがかえって、係長の不審を招くとは夢にも思わずに。
「会社関係ではない飲み会って、何?」
すかさず笑顔で聞いてくる係長。そこまで深追いされるとは思ってなかった私はたじろいだ。
「えっと……」
何で偶然出会った部下の飲み会について、こんなに詮索するのだろう。そう思いながら何て言おうかグルグル考えてると、私と係長の昨日のやり取りなんてまったく知らない真央ちゃんが横からあっさり言った。
「私たち合コンに参加していたんです」
「ま、真央ちゃん!」
ぎょっとしたのは私だ。「合コン」という言葉を告げるわけにいかないから、四苦八苦していたというのに!
「……合コン?」
聞き返す係長の声が若干低くなった。しかもメガネの奥の目が、疑わしげにすーっと眇められたような……
「へぇ、合コンねぇ……。会社の連中の企画する合コンは、門限があるからって断ってたのに?」
ひぃと私は青ざめた。声低い! なんか恐い!
私はアワアワと手を横に振りつつ、慌てて言い訳した。
「も、門限があるからもう店を出たんです。それに、きょ、今日のは従妹の付き添いで参加しただけです! 急遽頼まれまして! ただの人数合わせなんです!」
焦りのあまりポロッと本当のことを口に出した直後、私は激しく後悔した。ああ、従妹って言っちゃった! 案の定、係長の視線が私の横にいる真央ちゃんに向く。
外気はひんやりしていて寒いくらいなのに、私は嫌な汗が背中を一筋流れるのを感じた。顔を合わせて欲しくなかった。できればこの場を、穏便にすませたかった……!
でもそんな私の動揺をよそに、隣の真央ちゃんは屈託なく係長に話しかける。
「本当です。今日は私がまなみちゃんに無理言っていきなり参加してもらったんです。もちろん門限があるの分かってます。だから途中で抜けて、これから帰るところなんです。あ、大丈夫ですよ。私の弟も合コンに参加してまして、ヤツ、いえ、彼が車でまなみちゃんを送ることになってますから。責任持ってちゃんと家に送り届けますって」
私はヒヤヒヤしながらも「そうそう」と真央ちゃんの言葉に相槌を打った。
「これから帰るところなんです。従姉妹のよしみで参加しただけですから」
人数合わせで仕方なしに参加しただけ。そう強調して言ったからか、
「そうか……。まぁ、それなら安心、かな」
と返答する係長の声はいつものトーンに戻っていて、私は胸を撫で下ろした。
係長の様子が元に戻ったのもさることながら、この二人が顔見知りじゃないって確信が持てたことに深く安堵したからだ。
よくよく考えてみれば、真央ちゃんは社交界の集まりには全然参加しないから、この二人が顔見知りの可能性はとても低かった。今年の正月にお祖父ちゃんの家で婚約話をした時も、真央ちゃんはおろか舞ちゃんも会ったことがないようなことを言ってたし。
確認してないけど、たぶん婚約者として三条が佐伯に紹介しているのは舞ちゃんだけなんだと思う。三条家が他の三人のことを佐伯さんに言ってたら、私のこともとっくにバレてるはずだろうから。
ホッと安堵の息を吐く私をよそに、私の上司と従妹の会話は続く。
「君は上条さんの従妹?」
「はい。瀬尾真央っていいます。ええと、まなみちゃんの会社の方ですよね?」
「ええ。上条さんとは同じ部署で、係長の仁科といいます」
「お若いのに係長さんですか! すごいですね」
オイオイ。二人とも、私と係長の彼女を無視してなに世間話をしてるの?
それよりも問題なのは――真央ちゃんが、目の前の人が誰だか気付いてないってことだ。
そりゃあ、係長は名字しか名乗ってないし、釣書の写真とは髪型が違うし、メガネをかけてるから別人に見えるけど……
――真央ちゃーん? その人、佐伯彰人さんですよー? 舞ちゃんの(暫定的な)婚約者で、私たちが許婚候補でもある例のお人ですよー?
心の中で呼びかけてみるけど、テレパシーが使えるわけではないので、一向に気付いてもらえない。きっと美形を目の前に舞い上がり、深く考えてないのだろう。
ああ、真央ちゃんの頭の中でBL的な妄想が膨らみ、萌えているようだ……
とはいえ、真央ちゃんが無意識にポロッと何か言うのではないかと気が気じゃない私は、早くここから係長を立ち去らせたい思いでいっぱいだった。それにもうすぐ、涼も戻ってきちゃうし。
涼といえば正月に「佐伯彰人さんが誰か孕ませて、責任とって三条とは関係ない女と結婚してくれるのが一番いい」とか言ったヤツですよ?
その涼が仁科係長(しかも女連れ)と顔を合わせるだなんて、恐ろしくて想像すらしたくない!
ごまかそうとしても、察しがいい涼は係長の正体に即気付くだろう。そしたら――
アイツは言う。絶対何か言う!
透兄さんはこの間うちの会社に来た時、かろうじて正体がバレるようなことは口にしなかったけど涼は違う。腹黒いから、私が隠したいことをワザと口に出すだろう。
こうなったら、絶対二人を会わせちゃ駄目だ!
私は意を決して係長と真央ちゃんの会話に割り込んだ。
「係長、今日はデートですか?」
ちらりと岡島さんを見ながら言う。彼女は相変わらず強張った顔に、無理に笑みを貼り付けているように見える。
「金曜日の夜ですもんね。デート日和ですね」
「だから私たちのことは放っておいて、デートに戻ってくださいね」と、心の中で付け足す。
ところが、私の期待を裏切り彼は「そうだね」とにっこり笑うだけだった。その笑顔は……笑っているのに本当の心情をうかがわせない種類の表情だ。詮索はするなと言っているかのよう。
返答も、えらく他人事のように聞こえた。
それに――さっきから係長、全然岡島さんの方を見ようとしない。
さすがに恋愛経験ゼロの私でもピンときましたよ。この二人の仲が今、危機的な状況にあるってことが。
岡島さんの様子からして、もしかして別れ話をしてたのかもしれない……
私はちょっぴり遠い目をした。どういう星の巡り合わせで、破局しそうな上司のカップルに遭遇しなければならないのだろうか。よりによって、涼がもうすぐやってくるというこの状況で。
「ちょうど俺たちも帰るところでね。彼女をタクシー乗り場まで送っていく途中だったんだよ」
相変わらず斜め横にいる岡島さんを見もしないで係長は言う。その言葉を聞いた彼女が唇を噛み締めるのが目に入って、私は何かいたたまれなかった。
「そ、そうですか」
まだ夜の九時前ですけど、帰るところですか……。社会人同士の恋人の、金曜夜のデートにしては切り上げるのが早すぎる。
機嫌悪! いつもなら私たちにしか腹黒な対応はしないのに、今日はその外面のメッキが若干剥がれかけているようだ。
これってやっぱり私たちのせいだろうか。機嫌が悪くなるくらいなら、こんなところまで邪魔しに来なければいいのにと思うのだけど。いつものことながら、腹黒なヤツの考えていることはよく分からない。
そんなことを思いながら涼の動向を横目で窺っていると、ずうーんと重い空気をまとってチビチビお酒を飲んでいた真央ちゃんがいきなり覚醒した。
真央ちゃんは持っていたビールのジョッキをダンッとテーブルの上に乱暴に置くと、向かいの男性陣に鋭い視線を走らせる。そして、私たちの様子を窺っていた男性のうち、唯一ハッと視線を逸らした人物を、すさまじい目つきで睨みつけた。
視線で人が殺せるなら、きっとこの場で彼は絶命していたんじゃないかと思うほど苛烈な視線だった。
――『あんたか!』
真央ちゃんがほとんど口も動かさずにつぶやいた声を、私は確かに聞き取った。隣にいるから、真央ちゃんが奥歯をギリギリと噛み締めている音まで聞こえてくる。
ああ、やっぱりね……。私は梅サワーをちびちびと口に運んでため息をついた。
かねてから疑っていたことが、これで証明されたようなものだ。
今夜のことはお互いの親から漏れるはずがない。だって私も真央ちゃんも、いっさいそんなことは言ってないから。そして真央ちゃんは友達にも今日の合コンのことは極力話さないようにして、参加する女友達にも自分が来ることを漏らさないように口止めしてあったのだ。
なのに涼はここにいる。
誰かが真央ちゃんが参加すること――おまけに従姉の私を連れてくることを、涼に告げたとしか思えない。それしかあり得ない。
いえね、私が大学生の時からちょっと疑っていたのですよ。
今回のように合コンに直接乗り込んでくることはなかったけど、いくら隠しても透兄さんと涼は私が合コンに参加したことを知っていた。まぁ、私の電話を盗聴していれば私がいつどこで合コンに参加するのかを知ることができるかもしれないけど。
でも、あの二人は合コンの場で起こったことも知っているようだった。誰かに聞かないと、それは絶対にあり得ない。となると、それを言った人間――私の動向をスパイして知らせている人がいるってことじゃない?
私は大学生の頃はサークルにも入ってなかったし、多分クラスメイトでよく行動を共にしていた女性友達のうちの誰かが私の動向を教えていたのだと思うけど、真央ちゃんのスパイは副幹事の彼だったみたい。
私を連れて来ることまで知ってたあたり、真央ちゃんの向かいにいる幹事の人が一番怪しかったりするけど、副幹事の人も、いろいろセッティングを手伝っていたみたいだから、前もって彼も私が今日来ることを知ってもおかしくない。それに幹事の人はさっき涼のことをはっきり「副幹事の知り合いが」って言ってたから、間違いないと思う。
……これはあとから真央ちゃんに聞いたのだけど、副幹事の人は、なんと瀬尾エンジニアリングに就職が決まっているのだそうだ。それを聞いて納得した。
真央ちゃんの動向を探って涼か透兄さんに報告していた人は彼だけじゃないのかもしれないけど、間違いなく彼もスパイの一人だろう。
スパイの存在が確定したところで、ちょっと背筋が寒くなった私だ。だって、私の大学時代に怪しい影があったってことはさ、今も会社にそういった人材を配置している可能性があるってことでしょう?
同じ部署か違う部署か分からないけど、私の動向とか伝えている人がいたり……して……
しゃ、洒落にならないよぉぉぉぉ! 大学時代ならともかく、社会人になっても安心できないなんて、そんなの想像したくもないんですけど!
でももし会社関係の合コンに内緒で行って、その時の様子を透兄さんとか涼が知っていたりしたら……
ゾッとした。いや、考えるな私! 考えたらドツボにハマるぞ!!
涼を問いただしたい気持ちを抑えて、私は念仏のように「気のせい、気のせい」と心の中で唱え続けたのだった。
その涼は相変わらず周囲には分からない黒いオーラを撒き散らしながらも、彼目当てだと思われる女の子の質問に律儀に答えていた。
「瀬尾さんは、彼女とかいるんですか?」
一人の女の子が質問する。合コンに参加する人はだいたいシングルのハズだけど、涼がピンチヒッターということは誰もが知っているから、彼女たちはこの質問をしたようだ。話しかけている女の子たちだけじゃなくて、周囲もおしゃべりをパタッと止めたところを見ると、みなさん知りたかったことらしい。
肝心の涼は視線を一身に浴びながらも余裕の笑みで、さらっと答えた。
「さあ、どうでしょうか。想像におまかせします」
何よその意味ありげな回答は。……別に隠すほどのことじゃないんだから、いるのかいないのか、はっきり言えばいいのに……と思うのは私だけではないはずだ。涼に彼女がいるなんて話は聞いたことないから、単に女避けのためにはぐらかしているに違いない。
私としては、とっとと彼女を作って欲しい。恋人ができれば過保護にする対象が彼女に移るだろうし、従姉の私生活を監視する時間も暇もなくなると思うんだ。
「やっぱり彼女いるんだぁ。残念」
質問した子は、どうやら彼女がいると解釈したらしい。
とはいえ、そもそも彼女がいる人間が合コンに参加するものだろうか。私なら彼女がいるなら人数合わせでも合コンなんか行くな! って言う。
そう思ったのは、どうやら私だけではなかったらしい。明らかに涼が気に入らないという顔をしている男の人が何人かいる。
私はなんだか、その人たちに申し訳なくなった。だって、涼がこんな所にいるのは間違いなく私たちのせいだから。
ふと隣を見ると、真央ちゃんはスパイ容疑をかけている副幹事を睨みつけるのをやめて、ビールジョッキを片手にヤサグレモードに入っていた。
ブツブツ小さな声で何か言っているのを、耳を澄まして聞いてみると――
「……覚えてなさいよ。あんたをモデルにして実名でBL本出してやる。あんたは受けよ、受けキャラよ。ヤラれちゃえばいいんだ」
と恐ろしいことをつぶやいている。
副幹事さん。どうやら真央ちゃんの描く漫画の中で、貞操の危機を迎えてしまってるみたいです。私は漫画になった時の彼の相手が気になった。……やっぱりここは腹黒キャラだよねって、私ってば何考えてんでしょうか! そんな場合じゃないのに!
「真央ちゃん、気を確かに。実名はまずいよ。名誉毀損で訴えられちゃうよ」
小声で注意するも、真央ちゃんに一蹴された。
「ふん。だったらこっちだって私生活を売られたんだから訴える資格あるよね! 私のプライバシーを侵すなってんだい」
あ、あれ? 真央ちゃん酔ってる? 酔ってます?
何だか目が据わってるけど、涼と副幹事さんへの怒りでアルコールの回りが早くなってしまったのだろうか。心配している私の目の前で、ビールをぐびぐび飲み干す真央ちゃん。
あ、またお酒注文しちゃってるし!
真央ちゃーん、腹黒な涼の目の前でヤケ酒なんてしたら何言われるか分からないぞ?
案の定、ヤサグレてやけ酒をあおっている真央ちゃんと、それを見てオロオロする私に、涼の冷たい視線が注がれる。「何やってるのさ?」という涼の心の声が聞こえてきそうだ。
「瀬尾さんはお酒、駄目なんですか?」
さっき彼女はいるのかと質問していた子が、ふたたび涼に声を掛けた。
どうやら、涼がいたくお気に召したらしい。さっき彼女がいるっぽいニュアンスを汲み取って身を引いたのかと思いきや、あわよくばという心情が透けて見える。質問自体は至極まっとうなものなんだけど、口調が甘ったるい。
モテ男の涼は、そんな風に媚を売られるのも慣れたものらしく、適当にあしらってるようだけど。
「いえ。お酒は飲みますよ」
「でも、今飲んでるのはお酒じゃないですよね」
確かに涼が持っているのはウーロン茶。ウーロンハイでもビールでもなく、ノンアルコールのドリンクだった。
「今日は車で来ているので、アルコールは控えてるんです」
「少しくらいなら平気じゃない?」
「いえ――」
と言って涼は一瞬思わせぶりに言葉を切ると、質問してきた彼女及び興味津々で会話を聞いている人たちに視線を向けてから、ふたたび口を開いた。
「これから人を送る予定なので、安全運転しなくちゃならないんです。そうでなくてもアルコールはまずいでしょう」
その台詞はごくごく当たり前のものだった。だけどそれを聞いた途端、ぞくっと一瞬だけ背中に悪寒が走ったのは気のせいだろうか。ものすごく悪い予感がする。
「もしかして彼女? このあとデートだったりするの?」
「いいえ、違います」
涼はにっこり笑うと、私たちの方にいきなり視線を向けた。
ヤサグレモードに入っていた真央ちゃんの反応は遅れたけど、私はしっかり涼の笑顔に黒いものを発見してしまってビクッと身体を震わせた。そんな私に冷笑を向けて涼は言った。
「姉と従姉を送り届けるんです。――ね、二人とも。そうだよね」
そんなの聞いてません、知りません! ってか、あっさり親類だとバラさないでよ!!
顔を引きつらせる私たちと、私たちをじっと見つめる涼を交互に見て、周りの人たちは気付いたらしい。幹事の人がハッとして言った。
「そういえば瀬尾って名前……偶然同じ名字なんじゃなくて……姉弟だったのか?」
「ええ。そうです。俺の斜め横に座ってるのが姉で、向かいが従姉です。偶然同じ合コンに行くことになったので、帰りは送ることになっているんですよ」
うわーお。よくそんな嘘が、ぺらっぺらと口から出るもんだ。
思わず感心するよ――って、そうじゃなくって!
「ちょっと……」
真央ちゃんが反論しようとした途端、涼の笑顔に黒いオーラが増した――。その笑顔が、そして笑っているのにちっとも笑ってない目が「何か文句ある?」と言っている。
こっちは嘘をついて合コンに出席している手前、強く出ることができない。
「い、いえ。何でもない……」
真央ちゃんがしおしおと萎れて白旗を掲げるのを、なんともいえない気分で見守った私だった。
結局、私たちがあまりにも暗いものだから、周りの人は遠慮してあまり話しかけてこなかった。無情にもそのまま私の門限が近付き、真央ちゃんともども涼に促されて合コンを抜けることになった。参加者の頭の中は、「あの子たちは何だったんだろう?」と疑問符でいっぱいに違いない。姉弟で合コンに参加するわ、テンション低いわ、途中で帰るわ……。けれど申し訳ないが、彼らを気遣う余裕はなかった。
出荷される家畜のような心境で居酒屋を出る私たちに、相変わらずの黒い笑みを貼り付けた涼は言う。
「車を回すから店の前で待っていて。……逃げようだなんて思わないでね、二人とも?」
青ざめながら首を上下にガクガク動かす私たちに、涼はなおも言う。
「よろしい。逃げても、自分の首を絞めるだけだからね。大人しく待っているように」
そうして私たちに釘をさしてスタスタと駐車場の方へ行く涼のうしろ姿を見送り、私と真央ちゃんは「はぁぁ」と同時に深いため息をついた。
「うう。まなみちゃんゴメンね。まさか涼がくるなんて!」
「真央ちゃんのせいじゃないよ」
それにしても、大学時代私が合コンに参加して叱責を受けるのはいつも事後だったし、表立って参加を阻止されることもなかったのに、どうして今日は……
こんな風に直接妨害を受けたのは実は今回が初めてだった。
――まあ、裏ではどうだかわからないけど。
でも待てよ、そういえば前に似たようなケースがあったかも。あれは確か、真綾ちゃんと舞ちゃんが二人揃って半分騙され、上流階級の方々が集まる食事会という名の合コンに参加した時のこと。透兄さんと涼が二人して乗り込んできて、妨害したなんてことがあったような。
……ということは、従姉妹が二人以上参加すると妨害工作に出るとみていいのではないだろうか。そんなこと分かっても、ちっとも慰めにはならないけど。
「うー。あいつー」
こんなことになった原因――涼の子飼いのスパイである副幹事さんに対する恨みを、真央ちゃんはふたたび募らせる。
「あいつが参加する合コンには、金輪際行かないんだから!」
「まぁまぁ。監視されているのは気分よくないけど、きっと真央ちゃんが酔っ払って変な男にお持ち帰りされそうになったら、副幹事さんが助けてくれることになってたんだよ。あれだ、アレ。防衛システムだと思えば……って、思えないか……」
慰めようとして言ったものの、わが身に置き換えてみたらとてもじゃないけど平常心ではいられなくなった。監視されているなんて、冗談じゃない。
合コン時に発動する防御システム以前に、日常生活を常に監視され、あの二人に報告されているなんて考えるのも嫌だ。いやいや、うちの会社にスパイなんていないんだからっ。
「思えないよぉ! 防衛システムなんていらない」
しくしくと両手を目に当てて、泣く真似をする真央ちゃん。
「だよね。いらないよね! ……ったく、どこまで過保護なんだか。ここまでくると異常だよね。この間だって透兄さんってば……」
いつものごとく透兄さんと涼の愚痴を言っていた私は、すぐ近くまで迫っていたトラブルの元に、全然、まったく、気付くことができなかった。
「上条さん?」
「ふぁ?」
私の名前を呼ぶ声を聞き、その直後に青ざめた。
こ、この聞き覚えのある声は……!
「上条さんじゃないか?」
ふたたび名前を呼ばれて、脳内データベースで声の主を超高速で検索する。そして一人の人物に思い当たった私は息が止まりそうなくらいドキッとし、恐る恐る振り返った。
そこにいたのは――ここでは絶対会いたくなかった人。
「やっぱり上条さんだ」
軽く驚きつつ笑顔を見せる仁科係長――佐伯彰人さん――が美人を連れて、数メートル先に立っていた。
……あれ? 一難去ってもいないのに、また一難?
「に、仁科係長」
とっさに思ったのは、なにやら色々マズイ! ということだった。
私の隣には三番目の許婚候補の真央ちゃんがいて、もうすぐここに涼も戻ってくる。ハイソな世界に身を置く三人は、その手の上流階級の集まりで一度くらい顔を合わせたことがあるかもしれない。
それもそれでマズイけど、私が何よりマズイと感じたのは「合コンなんて行きませんよ」と昨日豪語しておきながら、その舌の根も乾かないうちに合コンに参加している私自身の身の置き場だった。
これは何だか色々マズイしヤバイぞ!
「居酒屋の前で何を……、ああ、会社関係の人と飲み会か何か? あれ? でも今日はそんな予定なかったような」
ダラダラと嫌な汗をかいている私をよそに、係長は気軽にそんなことを聞きながら傍に寄ってくる。その距離、約一メートル。お互いの表情が見えてしまうくらいの近さだ。
できるなら、もっと離れたところから挨拶する程度で別れたかった……そう思う私は部下として薄情だろうか。
――っていうか、女連れの時に部下とはいえ他の女に声掛けるなと言いたい!
私はちらっと係長の斜めうしろに控えている美人さんに目を走らせた。この人はきっと水沢さんが前に言っていた、H商社で営業課長をしている岡島さんだろう。
小さな商社とはいえ、営業課長まで昇りつめたやり手のキャリアウーマンで、あの恋愛が長続きしないと噂の係長と、もう半年以上も付き合っているというツワモノだ。
年齢はええっと、二十九歳だったかな?
きりっとした美人で、いかにもデキる女っぽいデザインながら、女性としての魅力も引き立てる桜色の素敵なスーツを着ている。
――だけど。
あれ? と私は内心首をかしげた。
夜目だからだろうか。岡島さんの表情が、暗いというか青ざめているように見える。一応、笑みらしきものを浮かべているけど口元は強張っていて、無理に笑っているような印象なのだ。
「上条さん?」
岡島さんの表情に気を取られていた私は、ハッとして係長に視線を戻した。
あ、何か聞かれていたんだっけ。……ええと、何だったかしら?
「飲み会をしてたのか、ってさ」
横から真央ちゃんがこそっと耳打ちしてくれた。あ、そうだった。
「えっと、えーっと、会社関係ではない人たちとの飲み会に参加してまして」
あとから考えてみれば「二人で飲んでました」とか言えばよかったのだ。だけどこの時は慌てていて、そんな風に誤魔化そうとしていた。それがかえって、係長の不審を招くとは夢にも思わずに。
「会社関係ではない飲み会って、何?」
すかさず笑顔で聞いてくる係長。そこまで深追いされるとは思ってなかった私はたじろいだ。
「えっと……」
何で偶然出会った部下の飲み会について、こんなに詮索するのだろう。そう思いながら何て言おうかグルグル考えてると、私と係長の昨日のやり取りなんてまったく知らない真央ちゃんが横からあっさり言った。
「私たち合コンに参加していたんです」
「ま、真央ちゃん!」
ぎょっとしたのは私だ。「合コン」という言葉を告げるわけにいかないから、四苦八苦していたというのに!
「……合コン?」
聞き返す係長の声が若干低くなった。しかもメガネの奥の目が、疑わしげにすーっと眇められたような……
「へぇ、合コンねぇ……。会社の連中の企画する合コンは、門限があるからって断ってたのに?」
ひぃと私は青ざめた。声低い! なんか恐い!
私はアワアワと手を横に振りつつ、慌てて言い訳した。
「も、門限があるからもう店を出たんです。それに、きょ、今日のは従妹の付き添いで参加しただけです! 急遽頼まれまして! ただの人数合わせなんです!」
焦りのあまりポロッと本当のことを口に出した直後、私は激しく後悔した。ああ、従妹って言っちゃった! 案の定、係長の視線が私の横にいる真央ちゃんに向く。
外気はひんやりしていて寒いくらいなのに、私は嫌な汗が背中を一筋流れるのを感じた。顔を合わせて欲しくなかった。できればこの場を、穏便にすませたかった……!
でもそんな私の動揺をよそに、隣の真央ちゃんは屈託なく係長に話しかける。
「本当です。今日は私がまなみちゃんに無理言っていきなり参加してもらったんです。もちろん門限があるの分かってます。だから途中で抜けて、これから帰るところなんです。あ、大丈夫ですよ。私の弟も合コンに参加してまして、ヤツ、いえ、彼が車でまなみちゃんを送ることになってますから。責任持ってちゃんと家に送り届けますって」
私はヒヤヒヤしながらも「そうそう」と真央ちゃんの言葉に相槌を打った。
「これから帰るところなんです。従姉妹のよしみで参加しただけですから」
人数合わせで仕方なしに参加しただけ。そう強調して言ったからか、
「そうか……。まぁ、それなら安心、かな」
と返答する係長の声はいつものトーンに戻っていて、私は胸を撫で下ろした。
係長の様子が元に戻ったのもさることながら、この二人が顔見知りじゃないって確信が持てたことに深く安堵したからだ。
よくよく考えてみれば、真央ちゃんは社交界の集まりには全然参加しないから、この二人が顔見知りの可能性はとても低かった。今年の正月にお祖父ちゃんの家で婚約話をした時も、真央ちゃんはおろか舞ちゃんも会ったことがないようなことを言ってたし。
確認してないけど、たぶん婚約者として三条が佐伯に紹介しているのは舞ちゃんだけなんだと思う。三条家が他の三人のことを佐伯さんに言ってたら、私のこともとっくにバレてるはずだろうから。
ホッと安堵の息を吐く私をよそに、私の上司と従妹の会話は続く。
「君は上条さんの従妹?」
「はい。瀬尾真央っていいます。ええと、まなみちゃんの会社の方ですよね?」
「ええ。上条さんとは同じ部署で、係長の仁科といいます」
「お若いのに係長さんですか! すごいですね」
オイオイ。二人とも、私と係長の彼女を無視してなに世間話をしてるの?
それよりも問題なのは――真央ちゃんが、目の前の人が誰だか気付いてないってことだ。
そりゃあ、係長は名字しか名乗ってないし、釣書の写真とは髪型が違うし、メガネをかけてるから別人に見えるけど……
――真央ちゃーん? その人、佐伯彰人さんですよー? 舞ちゃんの(暫定的な)婚約者で、私たちが許婚候補でもある例のお人ですよー?
心の中で呼びかけてみるけど、テレパシーが使えるわけではないので、一向に気付いてもらえない。きっと美形を目の前に舞い上がり、深く考えてないのだろう。
ああ、真央ちゃんの頭の中でBL的な妄想が膨らみ、萌えているようだ……
とはいえ、真央ちゃんが無意識にポロッと何か言うのではないかと気が気じゃない私は、早くここから係長を立ち去らせたい思いでいっぱいだった。それにもうすぐ、涼も戻ってきちゃうし。
涼といえば正月に「佐伯彰人さんが誰か孕ませて、責任とって三条とは関係ない女と結婚してくれるのが一番いい」とか言ったヤツですよ?
その涼が仁科係長(しかも女連れ)と顔を合わせるだなんて、恐ろしくて想像すらしたくない!
ごまかそうとしても、察しがいい涼は係長の正体に即気付くだろう。そしたら――
アイツは言う。絶対何か言う!
透兄さんはこの間うちの会社に来た時、かろうじて正体がバレるようなことは口にしなかったけど涼は違う。腹黒いから、私が隠したいことをワザと口に出すだろう。
こうなったら、絶対二人を会わせちゃ駄目だ!
私は意を決して係長と真央ちゃんの会話に割り込んだ。
「係長、今日はデートですか?」
ちらりと岡島さんを見ながら言う。彼女は相変わらず強張った顔に、無理に笑みを貼り付けているように見える。
「金曜日の夜ですもんね。デート日和ですね」
「だから私たちのことは放っておいて、デートに戻ってくださいね」と、心の中で付け足す。
ところが、私の期待を裏切り彼は「そうだね」とにっこり笑うだけだった。その笑顔は……笑っているのに本当の心情をうかがわせない種類の表情だ。詮索はするなと言っているかのよう。
返答も、えらく他人事のように聞こえた。
それに――さっきから係長、全然岡島さんの方を見ようとしない。
さすがに恋愛経験ゼロの私でもピンときましたよ。この二人の仲が今、危機的な状況にあるってことが。
岡島さんの様子からして、もしかして別れ話をしてたのかもしれない……
私はちょっぴり遠い目をした。どういう星の巡り合わせで、破局しそうな上司のカップルに遭遇しなければならないのだろうか。よりによって、涼がもうすぐやってくるというこの状況で。
「ちょうど俺たちも帰るところでね。彼女をタクシー乗り場まで送っていく途中だったんだよ」
相変わらず斜め横にいる岡島さんを見もしないで係長は言う。その言葉を聞いた彼女が唇を噛み締めるのが目に入って、私は何かいたたまれなかった。
「そ、そうですか」
まだ夜の九時前ですけど、帰るところですか……。社会人同士の恋人の、金曜夜のデートにしては切り上げるのが早すぎる。
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