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閑話 知りたい男

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 自宅であるマンションの部屋の鍵を取り出したところで、藍田は数秒動きを止めてから、背後に立つ逢坂を振り返った。
 邪気を振り撒く端麗な容貌の『親友』は、子供のように足を踏み鳴らす。

「藍田ー、早く部屋に入れろ」
「うるさい」

 低く叱責してから、藍田は猜疑に満ちた視線を遠慮なく逢坂に向けた。ワインバーから自宅へと移動するタクシーの中でも確認したのだが、改めて念を押さずにはいられない。

「――……仕事のことは一切話さないからな」
「わかってるよ。三十半ばの独り者の男同士、わびしく酒を飲んで寝るだけだ」

 逢坂の口から放たれるには不似合いな言葉だが、間違ってはいない。藍田はため息をつくと、玄関を開けた。当然のように、まず先に逢坂が玄関に入り、途中立ち寄ったコンビニの袋を持ち直した藍田があとに続く。
 慣れたもので逢坂は、ダイニングへと向かいながら次々と電気をつけていき、さっさとジャケットを脱ぎ捨てたかと思うと、今度はバスルームへと入っていく。

「おい……」
「先に風呂入ってから、ゆっくりしようぜ」
「お前は家主より先に、寛ぎすぎだ」
「はいはい、すぐに相手してあげますよ」

 バスルームから顔を出した逢坂にニヤリと笑いかけられ、今になって藍田は、この男を部屋に連れてきたことを後悔したが、もう遅い。
 それに――。
 片付けてはあるが、どこか生活感に欠けている部屋に、いまさら一人取り残されるのも嫌だった。一人になるぐらいなら、まだ、逢坂でもいてくれたほうがマシだ。
 マシ、といいつつ本当は、一緒にいて気が抜ける相手など、藍田には逢坂以外いないのだが。

 バスタブに湯を溜める音を聞きながら、ダイニングのイスに腰掛ける。ここまで張り詰めていたものが切れ、倦怠感に襲われた。
 藍田は気だるい仕草で髪を掻き上げると、ジャケットを脱いでネクタイを解く。

「藍田ー、着替え」

 容赦なく逢坂の声が飛んできて、仕方なく立ち上がる。別に逢坂のために用意しているわけではないが、スウェットパンツと長袖のTシャツをクローゼットから取り出すと、脱衣場にいる逢坂に投げつける。ついでなので、買い置きの歯ブラシも洗面所に用意した。

「藍田、入浴剤――」
「近くのドラッグストアがまだやっているから、自分で買ってこい」
「一緒に入るか?」

 藍田は腰に手をやり、逢坂に鋭い視線を向ける。壁にもたれかかった逢坂は悪びれた様子もなく肩をすくめた。

「可愛い冗談だろう」
「自分で可愛いなんて言うな、気色悪い」
「あっ、下着――……」

 廊下に出ようとした藍田は振り返り、顔をしかめた。

「必要だと思うなら、さっきのコンビニでどうして買わなかった」
「ケチ」

 今ならまだ、この男を追い出せるかもしれない。本気でそう思った藍田だが、マイペースを崩さない逢坂がワイシャツのボタンに手をかけたのを見て、仕方なくドアを閉めてやる。男が裸になるところを眺める趣味はない。
 ダイニングに戻った藍田は一分ほどその場に立ち尽くし、何をしようかとぼんやり考えていたが、ようやく我に返ってから、とりあえずお湯を沸かす。小腹が空いたと言って逢坂が、コンビニでカップ麺まで買い込んだのだ。
 ツマミを皿に盛り、グラスも用意する。それからハンガーを持ってきて、自分の分だけでなく、逢坂のジャケットもかけてやった。

 ここで一息ついた藍田は再びイスに腰掛けてテレビをつけると、ちょうどやっているニュース番組を漫然と眺める。
 無意識のうちに、左手の人さし指の先を右手の指で撫でていた。実のところ、もう痛みはまったく気にならない。ただ、昼間のことを思い返すたびに、指先が熱くなる気がするのだ。
 突然、まるで何かを知らせるように、右手の人さし指も奇妙な疼きを発する。
 勘弁してほしいと思いながら、藍田はイスの背もたれに体を預けた。



 逢坂と向き合って飲んでいると、学生時代を思い出す。藍田自身は素直に認めがたいが、大勢で集まったとしても、最後は結局、逢坂と話し込んでいることが多かったのだ。変人同士、気が合うと思われていたらしく、周囲が気をつかっていたと、あとになって聞かされた。
 藍田が風呂に入っている間にさっさとカップ麺を食べ終えた逢坂は、今はスナック菓子を摘まみながら、片手にグラスを持っている。他人の家で寛いで、機嫌はよさそうだ。

 藍田は濡れた髪を指先で払いのけ、首にかけたタオルを頭から被る。髪を乾かさないといけないとわかっているが、億劫だ。

「――会社、揉めているのか」

 ふいに問いかけられ、藍田はタオルの下からジロリと逢坂を睨みつける。

「仕事のことは一切話さないと言っただろう」
「会社内の人間関係で揉めているのか、と言い直したほうがいいか?」

 澄ました顔で言った逢坂は、ワインの入ったグラスに口をつける。買ってきたビールは二人であっという間に飲んでしまったので、今は、買い置きしてあったワインを空けている最中だ。
 普段の藍田なら、さほどアルコールに強くないこともあり、節制するまでもなく大して飲まないのだが、今夜は別だ。逢坂の速いペースにつられて自分の限度を忘れていた。
 逢坂の前に置かれたワイン瓶を取り上げ、自分のグラスにワインを注ぐ。

「……人間関係で揉めるとして、そこでなんで、会社内限定なんだ」
「見ていなくても、想像できるな。お前が、この色気のないマンションの部屋と、会社を往復する毎日だってことは。そして、ストレスを溜め込むと、馴染みのバーに行く」
「そう言われると、わたしはつまらない人間だな。いや、自覚はあったんだが、改めて他人の口から言われると……」

 逢坂は軽く鼻先で笑った。

「世間に対して、淡白で怜悧であり続けようとするお前は、ぼくからしたら人間味がありすぎて、逆におもしろいと思えるがな。見たままの人間なんて、あまりにおもしろくない。好奇心が刺激されない」
「お前という災厄に興味を持たれないだけ、それは幸せなことだ」
「なんとでも言え」

 言葉は攻撃的だが、声の響きは互いに穏やかだ。こんなやり取りは、学生時代から何度となく交わしてきて、二人にとってはありきたりな会話の一部だ。
 だからこそ、今の藍田の心には優しく染み渡る。もちろんこんなこと、口が裂けても逢坂には言わない。
 自分のことだけが逢坂に知られるのもフェアではない気がして、藍田は思わずこんな質問を口にした。

「逢坂、そういうお前は、会社では変わったことはないのか?」
「重役から、見合いを勧められたことぐらいだな」

 明日の天気でも話すような口調で、逢坂がそんなことを言う。一拍置いてから目を見開いた藍田は、頭から被っていたタオルを取った。

「本当か?」
「おっ、元気が出たじゃないか、藍田」
「ふざけるな。……お前が、見合い?」
「いずれ本社に戻るエリート社員が、いつまでも独身じゃいかん、ということらしい。まあ、ぼくとのパイプを確かにしたいという思惑もあるんだろう。優秀すぎると、何かと目をかけられるから困る」

 冗談めかして言ってはいるが、本当なのだろう。藍田はなんと言うべきかと逡巡してから、うかがうようにこう問いかけた。

「……受ける、のか?」
「ぼくが、他人と一緒に暮らせる男だと思うか?」

 藍田はあっさり首を横に振る。どうやら逢坂の満足のいく返事だったらしく、楽しそうに喉を鳴らして笑った。そして、ドキリとするようなことを言う。

「人間、年齢とともに変わるものだな。変わったよ、お前」
「どういう意味だ……」
「どうしてぼくはここにいる? お前が、人恋しいから、どうしてもぼくと一緒にいたいと泣いて頼んだからだろう。少し前までの藍田春記なら、考えられない事態だ」

 藍田はテーブルの下で、逢坂の向こう脛を蹴りつけてやる。あまりに捏造と誇張が過ぎて、聞き流せなかったのだ。

「今からでも遅くないから、帰れ」
「一人になると寂しいぞ」
「お前はっ――」

 ムキになって反論しようとした藍田だが、体中から空気が抜けたような状態となり、イスに座り直す。
 ため息交じりで洩らしていた。

「わたしが何を言っても堪えない無神経な人間なんて、世の中にはお前ぐらいしかいないと思っていたんだ」
「他にいたか? お前の情け容赦ない言葉に平然としている人間が」

 思わず藍田が浮かべた表情が、返事になっていたらしい。逢坂は意味深な笑みを洩らし、グラスを掲げた。

「……なんのマネだ」
「乾杯。藍田にも、ぼく以外に心を許せる人間ができたことに対して」
「そもそも、お前に心を許した記憶がないんだが……」

 単なる同僚だと、言い訳がましく付け加えてから、藍田は左手の人さし指に視線を落とす。必要ないと思いながら、風呂に入ったあと、新しい絆創膏を巻き直したのだ。

「――……わたしは、図々しくて能天気な人間は苦手だ……。寡黙な人間よりも、何を考えているかわからない」
「〈わからない〉という気持ちは、〈知りたい〉という気持ちの裏返しだと思うね、ぼくは」

 グラス越しに、何もかも見透かしたような色素の薄い逢坂の瞳が見つめてくる。
 急に、学生時代の青臭い思い出話をしていたときよりも気恥ずかしい気持ちに襲われ、藍田は急いで立ち上がる。

「藍田?」
「今夜は飲みすぎた。歯を磨いたら、もう寝る」

 そう言い置いた藍田は、普段使っていない部屋へと向かう。大した荷物すら置いていない部屋で、一応客間ということにしているが、藍田の部屋に泊まっていくような客はまずいない。
 それでも布団を用意してあるのは、ごくたまに、逢坂が酔っ払って押しかけてくることがあるからだ。
 押入れを空けて布団を取り出そうとすると、ドアのところに立った逢坂に笑いながら言われた。

「藍田、寂しいなら、一緒に寝てやろうか?」
「……帰れ」
「人恋しくて、ぼくを部屋に連れてきたくせに、強がるなよ」

 藍田は枕を掴み、迷うことなく逢坂に向けて投げつける。悠然と枕を受け止めた逢坂が、すかさず枕を投げ返してきた。

「なんか知らんが、いい兆候だぞ、藍田」
「何がだ」
「世捨て人を気取れるほど、お前はまだ会社に対しても、他人に対しても、達観していないってことだ。もっとガツガツしろよ。ぼくなんて、ずっと飢えているぞ」

 受け止めた枕を見つめてから、藍田は再び逢坂に投げつける。

「わたしは、別に世捨て人を気取ったりしていない。達観もしていない」
「達観したいとは思っているだろう」

 言葉に詰まると同時に、返ってきた枕を足元に落としてしまう。逢坂は楽しそうに声を上げて笑っている。

「わかりにくそうに見えて、お前はわかりやすい。コツを掴んだら、お前の感情の揺れなんて、手に取るようにわかる」
 嫌な男だと口中で呟いた藍田だが、本心はもちろん違う。
 藍田は、側までやってきた逢坂に枕を手渡す。逢坂は軽く枕を叩いてから、あごをしゃくった。

「せっかく親友がお泊まりにきてやったんだ。もう寝るなんてつまらないこと言わずに、つき合えよ」
「……仕方ないな」
「よし、コーヒーを入れろ。酔いを覚まして、ぼくの明晰な記憶力を披露してやる。お前の恥ずかしい大学時代のエピソードを一つ一つ挙げて――」

 本気で、帰れと言ってやりたいところだが、今夜だけは、親友の性格の悪さに少し感謝していた。
 逢坂とこんなふうに会話を交わしている間は、左手の人さし指に残る感覚を意識しなくて済む。
 左手の人さし指に、疼きを残した男のことを考えなくて済む――。

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