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嫉妬する男
しおりを挟む自棄酒は体によくない。もちろん、精神的にも。
この歳になって、そんな当然のことを、大橋は頭の痛みとともに思い知らされる。問題なのは、頭の痛みと体の気だるさ以上に、心の荒み具合のほうが重症だということだ。
朝、目が覚めたとき、何もかもどうでもよくなってしまい、体に力が入らなくて大変だったのだ。ベッドの上でさんざん転がってから、なんとか自分に気合いを入れ、苦労して体を起こしたぐらいだ。
仕事でさんざん嫌なことはあったし、会社に行きたくないと思うこともたびたびあったが、ここまでひどい状態は久々だった。
大橋は会社の地下駐車場に車を停めると、エンジンを切る。いつもなら颯爽と車を降りるところだが、大きく息を吐き出すと、ハンドルを抱えるようにして前のめりとなる。
目の前を通り過ぎる車を眺めながら考えることは、これからどうしようかということだった。
プロジェクトについては、合同にするという計画はなくなったといっていいだろう。藍田からまだ返事をもらっていないが、大橋に対して決然と拒絶の言葉を放った男が、平気で合同プロジェクトの計画に乗るとは思えない。
もともと藍田は、すべてを一人で背負い込む気だったのだ。そこに横槍を入れる形となったのが、善人面した大橋というわけだ。自らを卑下するようなことを考え、また落ち込んでしまう。自棄酒を飲んでベッドに入ってからずっとこの状態を繰り返しており、いまだに抜け出せない。
このまま車中に閉じこもってしまいたいが、そうもいかない。覚悟を決めた大橋はアタッシェケースを取り上げると、ようやく車から降りた。
地下から一階に上がるエレベーターに向かおうとして、異変に気づく。エレベーターの前まで行った社員たちが、何かあったのか引き返しているのだ。
理由は、大橋もエレベーターの前まで行ってわかった。
「……ついてないな……」
軽くため息をついて髪を撫でる。エレベーターの扉には、使用中止の札が立っていた。
仕方なく非常階段を使おうかと思ったが、気が変わる。普段の大橋なら、三階分の階段ぐらい余裕で駆け上がれる。ただ、今日は無理だ。余計な運動で使える体力はない。
もう一基あるエレベーターを使おうと、駐車スペースを区切る壁の反対側に回り込んだところで、大橋は自分の選択を悔やんだ。
藍田がエレベーターを待っているところに出くわしたからだ。間が悪いことに、狙ったようにしっかりと目が合ってしまい、いまさら知らない顔もできない。
課長以上の肩書きを持つ人間は、ほぼこの地下駐車場に車を置いている。それでもいままで藍田と顔を合わせなかったのは、与えられているスペースが壁に区切られる形で西と東に分かれており、利用するエレベーターも違っていたからだ。
藍田がスッと視線を逸らし、白い横顔を見せる。かつての、大橋がツンドラと呼んでいた頃の冷ややかさが、そこにはあった。
藍田のその姿に胸が痛んでから、大橋は自らの傲慢さを知る。自分の存在が、少なからず藍田に影響を与えると思い込んでいたのだ。
引き寄せられるように足が動き、藍田の隣でエレベーターを待っていたが、到着したエレベーターに乗り込むまで、二人は会話を交わすどころか、もう一度視線を合わせることすらしなかった。正確には、大橋が藍田を見られなかったのだ。
数人しか乗っていないエレベーター内は静かで、階数表示を見上げるだけでは間がもたなくなった大橋は、視線を落とす。このとき、あることに気づいた。
藍田の左手の人さし指に絆創膏が巻かれていた。大橋が昨日、唇を押し当て、舌先を這わせた指だとわかり、心臓の鼓動がドクンと大きく鳴る。
ちょうどこのとき、エレベーターが一階のロビーに到着し、扉が開いた。反射的に大橋はエレベーターを降り、並んでいる社員たちの間をすり抜ける。
振り返ると、エレベーターの扉が閉まる寸前、一瞬だけ藍田と目が合った。このとき背筋に流れた痺れに、大橋は動けなかった。
こんな調子で仕事ができるのだろうかと思いながら、他のエレベーターに乗り込んで自分のオフィスへと向かう。
大橋の精神状態がどれだけ不調であろうが、仕事は待ってくれない。たった一人の男の反応に振り回されている場合ではない――と割り切れられれば、どれだけ楽か。
肩を落としてオフィスに入った大橋を、勘のいい部下の何人かが目を丸くして眺めている。控えめにかけられる挨拶にぶっきらぼうに応じながら、ようやく自分のデスクにつく。
「補佐、移転プロジェクトの書類送付案内の雛型を作ったんですが、チェックしていただけますか。そろそろ、こちらから発行する書類も多くなってきたので、きちんとしたものを印刷所にまとめて発注しようかと思って」
移転推進プロジェクトのメンバーである社員に声をかけられ、大橋はやっと姿勢を正して用紙を受け取る。
そうだ、仕事をしなくてはならない。気合いを入れるとまではいかないが、自分に言い聞かせながら用紙に目を通す。
「ついでだから、他の印刷物も一緒に発注しておけよ。会計処理が面倒らしいから、書類の管理はしっかりしてくれと釘刺されてるんだ。だから、プロジェクト仕様のものを作ろうかと思ってな。他の書類と紛れ込みにくいやつ」
「だったら一度、他のメンバーと意見をまとめて、改めて補佐から決裁をもらう形にします」
「その書類は俺に手渡ししろよ。すぐ目を通すから。俺は、書類の決裁が遅いことで評判が悪いんだ」
知ってます、と笑いを含んだ声で言われてしまった。大橋も小さく笑みをこぼしたが、用紙に書かれたある文字に目を止めて、眉をひそめる。別に雛型に問題があるのではなく、個人的に気にかかることがあったのだ。
「移転推進実行プロジェクト、か……」
もし、藍田が任されているプロジェクトと合同になったとき、名称はやはり連名になるのだろうなと、ちらりと考えたことがあるのだ。今となっては、どうでもいいことだ。
用紙の隅にポンッと判を押してから返すと、大橋は無意識に向かいのオフィスへと視線を向けていた。
藍田もデスクについており、朝の一仕事とばかりにパソコンと向き合っている。メールのチェックでもしているのだろう。
こうして藍田の冷ややかな横顔を眺めていると、プロジェクトを任される前に戻ったような錯覚に陥る。
このまま、藍田に対して特別な感情を持っていなかった頃に戻ってしまえたら、どれほど楽か。
ちらりとそんなことを考えた大橋の視界が次の瞬間、急激な感情の高ぶりによって真っ赤に染まる。
藍田のデスクの前にいつの間にか堤が立ち、何か話しかけていた。何げない、上司と部下の光景だが、大橋の目には違ったものに見える。
デスクの下で硬く拳を握り締める。胸を突き破らんばかりに溢れ出した感情は、嫉妬だ。こんな感情がある限り、藍田と何事もなかった頃に戻れるはずがなかった。藍田がそれを望んだとしても、大橋にはできない。
立ち上がった大橋は窓際に歩み寄ると、勢いよくブラインドを下した。
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