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酔えない男
しおりを挟む今夜は自棄酒だな、と自嘲気味に唇を歪めてから、大橋はグラスに口をつける。
いくら飲もうが、酔える気がしなかった。実際、いつもならとっくに訪れるはずの酩酊感が、一向にやってこない。アルコールよりも強烈なものが、大橋の心と体を支配しているせいだった。
つけたままのテレビから、にぎやかな声が聞こえてくる。一人でいる静けさを紛らわせるためにつけているのだが、かえってこの部屋の空虚な空気が際立っているようで、むしょうに寂しくなってくる。そう、どうしようもなく、大橋は寂しかった。
三十半ばの男が抱えるような感傷かと、客観的に見た自分を笑おうとしても、出るのは重苦しいため息だけだ。
離婚したとき、自分はこんな感情になっただろうか――。
確かに寂しかったはずだが、あのときは自分の不甲斐なさに対する、情けないという感情が勝っていた気もする。それが今は、同僚から告げられた言葉にこうも落ち込み、感傷的になっていた。
大橋は一度イスから立ち上がるとキッチンに向かい、空になったグラスに新たな氷を放り込む。テーブルに戻ると、ウィスキーを注いだ。
なんとなく手持ち無沙汰から、グラスを揺らして氷を鳴らす。そうしながら大橋が思い返すのは、今日の昼間、昼飯をとって会社に戻る途中、藍田から言われた言葉だった。
『――もう、わたしに関わらないでほしい』
淡々とした口調で切り出してきた藍田の話は、簡潔で明快だった。
『わたしに関わらないでほしい。大橋さんのためじゃない。わたしのためだ』
驚く大橋を、藍田は一瞥すらせず、ひたすら前を見据えていた。その横顔は無感情というわけではなく、さまざまな想いを抱えた挙げ句に、必死に感情を押し殺しているようにも見え、大橋は胸が詰まった。
怜悧で、誰よりも冷ややかだったはずの男が、いつの間にか自分の前でこんな顔をするようになったのだ。感慨深さと同時に、その男から決別とも取れる言葉を言われ、ひどくショックだった。
『あんたに振り回されるのは、もうたくさんなんだ。……疲れた。仕事以外で煩わしいものを、わたしに背負わせないでくれ』
止めを刺されたようだった。思わず足を止めた大橋にかまわず、藍田は歩き続ける。手を伸ばして、藍田の肩に手をかけることすらできなかった。
グラスを置いた大橋は、自分の両手を見つめる。
藍田にあんなことを言われても当然か、という思いはあった。理由も告げず――理由を言えばいいというものでもないだろうが――さんざん藍田を傷つけるようなことをした。同性である藍田を抱き締め、それ以上の行為にも及ぼうとしたのだ。
藍田も行為を受け入れていたというのは勝手な解釈で、藍田はプライドを傷つけられながら、ギリギリのところで耐えていたのかもしれない。
テーブルに突っ伏しそうになったところで、インターホンが鳴った。こんな時間に誰だろうかと、まず大橋は思わない。心当たりが一人だけあるからだ。
一瞬、居留守を使おうかと考えたが、外の通路に面した窓から室内の電気が見えるので、それはできない。結局、酒臭い息を吐き出して大橋は立ち上がり、玄関に向かう。
インターホンで確かめることもなくドアを開けると、思ったとおり、目の前にはスーツ姿の敦子が立っていた。手にはバッグの他に袋があり、ワイン瓶が覗いている。したたか、敦子は酔っているようだ。目が据わっている。
「こんな時間になんか用か」
「差し入れ」
そう言って敦子が、袋ごとワイン瓶を差し出してきた。反射的に受け取ると、当然のように敦子は玄関に入ってくる。
「おい――」
「一緒に飲もうと思って持ってきたのよ」
ふらつく足取りの敦子を引きずり出すわけにもいかず、大橋は仕方なく玄関のドアを閉める。軽く身震いしたのは、開けたドアから入り込んできた外の空気が、ひんやりしていたからだ。
ダイニングに戻ると、敦子はすでにジャケットを脱いでおり、勝手に食器棚からグラスを出しているところだった。呆れている大橋の様子に気づいたのか、悪びれることなく笑いかけてくる。
「寂しい男ねー。一人で飲んでいたなんて」
「……お前が言うな。別れた亭主のところに、酒持って押しかけてくるなんて、俺より寂しいだろ」
大橋は頭を掻くと、イスに座り直す。敦子は、向かいのイスにぞんざいに置いてある新聞とワイシャツを無造作に床の上に落として、腰掛けた。
「いつ来ても、女っ気のない部屋ね」
「楽しいだろう? 自分は人生を謳歌しているのに、元ダンナは仕事だけの色気のない生活を送っているとわかって」
「あら、心配してるのよー」
芝居がかった高い声で敦子に言われ、大橋は顔を背ける。
やはり、この女と別れて正解だったかもしれない。心の中で毒づいた大橋だが、少なくとも、テレビを話し相手にするよりかは健全かもしれない。
「――で、何があったんだ。こんな時間に、ワインの差し入れなんて」
「取引企業のパーティーに呼ばれて、その帰り。若い連中がキャラキャラとはしゃいでいる横で、こっちは営業よ。居心地悪くて仕方なかったのよ。で、ワインが何本も置いてあったから、土産代わりにもらってきたの」
「男と酒を食らいながら、相変わらずキャリアウーマンをしてるんだな」
「わたしを養うのに、お金がかかるのよ」
思わず大橋は笑ってしまい、テーブルの下で敦子に脛を蹴られた。
結婚していたときの感覚を思い出したが、感じたのは微笑ましさではなく、ほろ苦さだ。大橋の場合、結婚当時のことを思い出すと、必然的に離婚のこともセットになって蘇ってしまうのだ。
別れた妻を部屋に入れて、何をやっているのだという気になる。そうまでしても、抱えた寂しさを紛らわせたいのだろうか、とも。
しかも、寂しくて仕方なかったはずなのに、こうして話し相手がやってきても、心に空いた穴は埋まらない。
「……お前、一杯飲んだら、タクシー呼んでやるから、帰れよ。俺は、もう少ししたら寝るつもりなんだ。だいたい、別れたダンナとはいえ、夜中に男の部屋に来るなんて、無防備にもほどがあるだろう」
「そんなことを言うってことは、わたしが夜中にこうしてきたら、女として意識するっていうこと?」
大橋はジロリと敦子を見てから、大げさにため息をついて首を横に振る。
「悪いが、お前のことは全っ然、意識してない。世間一般的な良識からの忠告だ。……冗談でも、生々しい話はするな」
「あら、禁欲的な男になったの?」
好奇心剥き出しの顔で問われ、大橋は言葉に詰まる。たったそれだけの大橋の反応に、敦子は鋭く反応した。
「違うみたいね」
「さあな」
「禁欲とは、対極にいるってこと?」
否定はできなかった。この間からずっと、大橋はおかしいままだ。藍田に対してだけ、激しい衝動に駆られ、その衝動に歯止めがかけられない。挙げ句が、関わらないでほしいという発言だ。
これまでの行動を考えたら、そう言われても仕方ない。むしろ、言われるのが遅かったというべきなのかもしれない。
「――はあ、帰ろうかな」
ふいに敦子がため息交じりに言葉を洩らし、立ち上がる物音が重なる。大橋が顔を上げると、立ち上がった敦子がジャケットを取り上げていた。
「おい……」
「元ダンナをからかいながら飲もうかと思ったんだけど、そういう状態じゃないみたいだし」
敦子の指先に顔を指され、大橋は目を丸くする。
「龍平、行き詰まってるでしょう?」
「なっ……」
「多分、仕事のことで行き詰まっているなら、わたしを部屋に入れなかったと思うのよね。あなた、仕事の苦労に関しては絶対表に出さない分、誰にも立ち入らせなかったから。それが、こうして難しい顔をして、しかも夜中にわたしを部屋に入れてくれたということは――」
顔は笑っていながら、鋭さを含んだ視線を敦子から向けられ、今になって大橋は、やはり敦子を部屋に入れるべきではなかったと後悔していた。結婚生活は長くなかったとはいえ、敦子は大橋を把握しすぎている。
そんな敦子も、さすがに大橋が同性の同僚とのつき合いで悩んでいるなどと思いもしないだろうが、仕事以外のことで思い煩っていると察してしまうのは、さすがだ。
「三人目の奥さん候補と何かあったの?」
「バカ。そんなんじゃねーよ」
「龍平の場合、仕事か恋愛しかないじゃない。深刻に悩むことって」
敦子が何げなく口にした『恋愛』という単語が、刃となって心に深々と突き刺さった。
大橋は目を見開き、数瞬、呼吸を止める。衝撃が静かに胸に広がっていき、わずかに遅れて激しくうろたえていた。いままで、考えたこともなかったのだ。藍田と向き合うことで、唐突に自分に起こる変化がなんであるか。変化の原因がなんであるか。いや、考えようとしなかった。 ありえないと、心の奥底で大橋自身が否定していたのかもしれない。
動揺を押し殺すため口元に手をやると、そんな大橋を敦子は冷静な目で見下ろしている。これ以上追及されるとまずいという意識が働き、大橋は冗談めかして言った。
「……俺はどれだけ、単純な男だと思われてるんだよ」
他はともかく、藍田に関してだけは、大橋の気持ちは複雑なのだ。
いまだかつて誰に対しても、ここまで複雑な感情を抱いたことはない。それは、藍田が同性だからなのか、今は身近にいる同僚だからなのか、いままで出会った誰よりも、感情表現が不器用な人間だからなのか、理由はわからない。あるいは、すべてが当てはまっているのかもしれない。
ここまでまた、藍田から投げつけられた拒絶の言葉が蘇り、胸が苦しくなる。
藍田を失うことかもしれない、と瞬間的に思った自分に驚いた。失うも何も、手に入れたわけでもないのに。また、そういう対象でもない――はずだ。
「二度目の結婚を失敗してから、初めてのロマンスなんだから、祝福してあげるわよ。だから、正直に言いなさい」
敦子の声がわずかに強張って聞こえたが、気のせいかもしれない。大橋は、藍田のことに心が囚われるあまり、この状況で迂闊なことを口にしていた。
「別れたとはいっても、やっぱり元ダンナの恋愛事情が気になるか?」
ぎこちなく浮かべた笑みを、大橋はすぐに消すことになる。見上げた先で敦子が怖い顔をしていたからだ。
「敦子……?」
我に返ったように敦子はバッグを取り上げ、乱暴に息を吐き出した。
「あー、嫌だ。辛気臭い顔した酔っ払いをからかっても、楽しくない。家で一人でビールでも呷っているほうが、まだマシね」
勝手に押しかけてきたのはお前だろうと思いつつも、さきほどの自分の発言が受け流されたことに、大橋は内心でほっとする。普段の敦子なら、嫌というほど追及されても仕方のない状況だ。
これまでにない、微妙に不自然な空気を感じつつも、大橋は立ち上がる。
「ちょっと待てよ。今、タクシーを呼ぶから――」
「あー、いいから。通りに出たら、まだ走ってるし」
大橋が止める間もなく、軽く手を振って敦子はダイニングを出ていく。あとを追いかけようと思えばできたのだが、向けられた敦子の背がそれを拒んでいるように感じられ、大橋は足を動かすことができなかった。
玄関のドアが閉まる音を聞いて、身を投げ出すようにしてイスに座り直す。
「……いつにも増して、嵐みたいだな……」
大橋はぼそりと呟くと、髪に指を差し込む。敦子が去ったあとの、室内の静けさは格別だった。
ただ、敦子の態度は気にかかるものの、気まぐれなのはいつものことだ。そう納得してしまうと、大橋の頭と心を占めるのは、やはり藍田のことだった。
「参ったな……」
呻くように言葉を洩らした大橋は、両手で頭を抱えるようにしてテーブルに肘をつく。
今この瞬間、自分がただ寂しいのではなく、胸を掻き毟りたくなるような切なさの渦中に放り込まれているのだと、ようやく大橋は理解したのだ。
忌々しいことに一人では、とても手に負えない感情だった。
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