サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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優しい男2

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「大橋さんっ……」
「ここまでくると、条件反射付けされた犬だよな。お前と二人きりになったら、触れずにはいられない。俺はいつから、こんなにおかしくなった? 少なくとも、お前と関わる以前は、男の手を握ろうなんて考えたこともなかった」

 カッとした藍田は、掴まれていないほうの手で、大橋の手を押し退けようとしたが、反対にその手まで取られてしまった。大橋は声を洩らして笑う。

「――……鈍いな、お前……」
「うるさいっ」

 右手は解放されたが、鉄板に触れたほうの左手は握られたままだ。座卓を挟んで何をしているのだろうかと思いつつも、大橋の言葉ではないが、やはり条件反射付けされたように、藍田は抗えなくなっていた。
 だから、嫌なのだ。大橋と二人きりになると、男同士でありながらこうして触れられるという異常な状況と行為を、受け入れてしまう。
 食事どころではなかった。藍田は取られた手をじっと見つめる。大橋の熱い手にしっかりと指を握られているせいか、鉄板に触れた指先が疼いていた。

「少し、赤くなっているか……」
「言っただろう。大したことにはなってないと」

 そう言ったきり会話がもたず、両隣からときおり聞こえてくる会話が沈黙に割り込んでくる。そんなに大きな声は出していなかったつもりだが、自分たちの会話も聞かれているのではないかと思うと、藍田は気が気でない。何より、店員が個室に入ってくるではないかと心配だった。
 昼間から、スーツ姿の男二人が座卓を挟んで手を取り合っているのだ。どう考えても、ただならぬ関係だと思われるだろう。

「……大橋さん、もういいだろう」
「――堤と何かあったのか?」

 大橋からの攻撃は唐突で、的確だった。激しく動揺した藍田は目を見開き、大橋に視線を向ける。本当は手を引こうとしたのだが、痛いほど指を握られているため、それはできなかった。

「あったんだな」
「あんたには、関係ない……」

 言葉とは裏腹に、藍田は視線を伏せてしまう。まともに大橋の強い眼差しを受け止められなかったのだ。

「何があった? いや……、何を、された?」

 藍田と堤の関係が只事ではないと、大橋は薄々とながら感じている口ぶりだった。
 咄嗟に脳裏を過るのは、堤の部屋の玄関での出来事だ。思わず藍田は、弱音にも似た言葉を洩らしていた。

「……あんたの、せいだ……」

 この言葉の意味を、大橋は瞬く間に理解したようだった。いや、理解以上に、思考が暴走したといえるかもしれない。怖い顔つきで、藍田をこう問い詰めてきたのだ。

「――俺がした行為以上のことを、堤にされたのか?」
「な、に、言って……」

 射抜かれそうなほど鋭い視線を向けられ、大橋が本気で知りたがってるのだとわかる。途端に藍田を襲ったのは、逃げ出したくなるような羞恥だった。実際そうしたかったが、骨が折れそうなほどきつく指を握られているため、それができない。

「指が……痛いんだ」

 ようやくの思いで絞り出せた言葉は、こんなものだった。大橋は眼差しを緩めないまま、わずかに手の力を緩める。

「……放してやるから、言えよ」
「何様だ、あんた。なんの権利があって、わたしにそんなこと言うんだ」
「言えっ」

 鋭く低い一言に、藍田はビクリと体を震わせてから、掴まれている手を見つめる。
 大橋と深入りしたくないために、自らに歯止めをかけようと堤を利用することにしたはずだ。なのに現実は、こうして大橋とまた二人きりになり、手を掴まれていた。
 何かが起こるとわかっていながら、大橋の誘いに乗ったのだ。深入りしたくないというのは表面上の理由なのではないかと、藍田は戸惑いながら自分の本心に向き合い始めていた。

「藍田」

 叱責するように大橋に呼ばれ、視線を伏せたまま藍田は口を開いた。そうでないと、いつまでも大橋は手を放してくれないだろう。そう感じるだけの意志の強さが、手から伝わってくる。

「……大したことは、されてない……。ふざけて、指先に唇を当てられただけだ」
「どういう状況で、そんなことになるんだ」
「関係ないだろうっ。……堤がふざけていただけで、大したことじゃない――」

 感情的に怒鳴ったはずが、最後は言い訳がましなる。そんな自分に腹立たしさを覚えると、すかさず大橋から凄みを帯びた眼差しを向けられた。

「本当に?」

 藍田は唇を引き結び、顔を背ける。さすがに、指先を舐められ、挙げ句に濡れた指先を自分の唇に押し当てられたとは、口が裂けても言えない。どう言えばいいのかすら、わからない。ただ、大橋から呆れた眼差しを向けられるのだけは我慢できそうにないと、断言できる。
 掴まれていた手が放される。驚いた藍田が再び大橋を見ると、何事もなかったように大橋は割り箸を手にしているところだった。

「さっさとメシを食おうぜ」

 大橋の態度の切り替えに、さすがの藍田もあ然としてしまう。見つめる藍田の視線の先で、大橋はガツガツとご飯を掻き込み、完全に食事に集中している。
 唐突に置いていかれたような気分になり、藍田はわけがわからないまま、食事を始める。しっかり食べないと、どうせ大橋はこの個室から出してくれないだろう。
 藍田の食事に関しては、大橋は子供に対するように甲斐甲斐しさを発揮するのだ。

 寸前までのやり取りなど忘れたように、食事の合間に二人はぽつぽつと会社のことを話す。もちろん、互いの仕事の内容ではなく、今の社内の空気や、宮園からもたらされる上層部などの動きについてだ。
 ふとスプーンを置いた藍田は、右手の人さし指の先も見つめていた。いまさらながら、指先を舐めてきた堤の舌の感触が思い出される。

「――藍田」

 大橋に呼ばれ、ハッとして顔を上げる。飄々としたいつもの顔で大橋が首を傾げた。

「どうした。やっぱり指が痛いか?」
「いや……。心配されるほど大したことじゃないと思ってたんだ。あんたは……少し過保護だ」

 藍田としては特に深い意味を込めたつもりはないのだが、なぜか大橋は、苦々しい表情を浮かべて物言いたげな様子を見せたあと、結局、黙って食事を再開する。
 なんなのだろうと思いつつも、ここで追及しないのが藍田だ。再びスプーンを手にして、掬った寄せ豆腐を口に運ぶ。
 ランチとしては少々値段は高めだが、パン一つで済ませることもよくある藍田の昼食の金銭感覚は、あまりあてにならない。ただ、大橋が勧めただけあって、美味しかった。
 自分にしてはよく食べたと思いながら割り箸を置いた藍田は、紙ナプキンで口元を拭う。大橋はとっくに食べ終えていたが、藍田が気をつかわないようにという配慮か、お茶を啜りながらメモを眺めており、藍田が一息ついたところで顔を上げた。
 いきなり、何も言わず腰を浮かせた大橋が、藍田の膳を覗き込んでくる。

「……なんだ」
「しっかり食ったか、確認したんだ」
「いい加減にしないと、殴るぞ。あんたはわたしを、なんだと思っているんだ」
「最近、胃の調子は?」

 人の話を聞く気はないらしく、大橋は質問で返してきた。藍田はため息をつくと、律儀に答える。

「かなりよくなった。暑さが和らぐだけで、わたしは体調がいい。仕事が忙しいのは、けっこう平気だしな。ネチネチとした嫌味は……そういえば最近言われないな」
「みんな、藍田副室長の怖さがわかったんだな」
「わたしにしてみれば、どうしてみんな、あんたの怖さがわからないのか、と思うが」

 一瞬、大橋の眼差しが鋭くなる。多くの人間が大橋という男を、人当たりがよくて快活で、飄々としていながら頼り甲斐のある人間だと思っているのだろう。ただ藍田はときおり、大橋からとてつもなく怖い部分を感じることがある。
 人を威圧するとか畏怖させるとか、そういうわかりやすい怖さではない。目的のためには人当たりのよさを簡単にかなぐり捨てられる、そういう覚悟を持っている怖さというべきか。
 大橋は芝居がかった仕草で肩をすくめ、ニヤッと笑う。

「俺は、紳士のつもりだぜ?」
「紳士だから怖くないとは限らないだろう」

 ここでまた大橋から鋭い視線を向けられるのが嫌で、藍田はやや焦りながら伝票を手にして立ち上がる。

「少しのんびりしすぎた。急いで会社に戻らないと……」

 出口の障子に手をかけようとした藍田だったが、同じく立ち上がった大橋の足音が一度だけ大きく響いたと思ったときには背後に気配を感じ、藍田は肩を掴まれて引き戻されていた。

「なっ……」

 驚いて振り返ると、すぐ側に大橋が立っており、真剣な顔をしている。大橋のこの様子だけで、いい加減藍田も察するようになった。
 大橋が、自分に触れてくる前触れだと。
 身構えたときには、強引に右手を取られていた。目を丸くする藍田の前で、大橋は掴んだ藍田の右手の指先をじっと見つめている。まるで、何かを探るように。
 大橋に指を握られた瞬間、藍田の背筋にゾクッと鋭い感覚が駆け抜ける。思わず首をすくめると、低い声で大橋に断言された。

「――堤にキスされた指は、こっちだな」

 瞬間的に藍田の体は熱くなる。隣の個室を意識して、囁くような声で必死に抗議していた。

「変なことを言うなっ。ただ、触れられただけだっ」
「唇で」
「それはっ……」
「お前と堤との間に、何があった? 何をされた? 俺がした行為以上のことを、堤にされたのか?」

 大橋の眼差しの激しさに、圧倒される以上に焼かれてしまいそうだった。呼吸することさえ忘れ、藍田は目の前の男を凝視する。まるで知らない男に見えた。だが、触れてくる体温の高さは確かに大橋のものだ。

「大橋さん、あんた一体……」
「答えろ」

 命令されるような関係ではないと、それだけの言葉が出てこなかった。代わりに藍田の口を突いて出たのは、自分でも意外な言葉だった。

「――……もしかして、わたしを、堤に触れさせたくないのか?」

 完全に虚を突かれたような顔をしてから、大橋は大きく息を吐き出す。その反応の意味を、呆れたためだと理解した藍田は激しくうろたえる。自分がとんでもなく自惚れの強い発言をしたことに気づいたからだ。
 逃げ出したくなるような羞恥に襲われ、実行しようとしたが、できなかった。大橋に今度は左手の指を握られたからだ。

「大橋、さん……」
「そうだと言ったら?」

 理由は聞くなと、すっかり耳慣れた言葉を囁いた大橋に、掴まれた指を引き寄せられる。何をするのかと目を見開く藍田の前で、まだ微かな痛みを発している人さし指に大橋が顔を寄せる。
 さすがに察するものがあり、藍田は鋭い声を発した。

「よせっ……」

 指先に大橋の唇が押し当てられる。柔らかく温かな感触を認識した途端、藍田は息を詰めた。強烈な疼きが全身を駆け抜けたからだ。
 濡れた感触が人さし指に触れ、咄嗟に顔を背ける。大橋が指先に舌を這わせる様子など、まともに見られるはずがない。

「大橋さん、やめろ……」

 藍田は小さな声で必死に訴えるが、大橋を押し退けられなかった。指先から生まれる感触に、抵抗しようという気力はすべて奪われてしまう。

「火傷、というほどのことにはなってないみたいだな」

 指先に唇や舌を這わせる合間に大橋が言う。

「……わかったんなら、離せ。なんで、こんなこと――」
「堤はどんな理由で、お前の指にキスした?」
「そんなことことはされてないっ」

 カッとした藍田は、ムキになって反論したが、すぐに隣の個室と障子の外を気にして、声を潜める。

「変なことを言うなっ」
「変じゃない。俺は気になる。すごく、な」

 大橋が向けてくる真剣な眼差しに、心が屈服させられそうになる。そんな自分に妙な陶酔感を覚えながらも、反発心が勝った。
 キッと大橋を睨みつけると、あっさりと手を離してくれた。
 いつの間にか足元に落ちた伝票を拾い上げ、急いで個室を出る。先に藍田が支払いを済ませて店を出ると、少し遅れて大橋も出てきた。

 何も言わず二人は視線を交わし合うと、歩き出す。正確には、藍田が歩き始めると、大橋もついてきたのだ。そして、自然に並んで歩いている。
 藍田は、ぎこちない動きで左手をスラックスのポケットに突っ込んだ。そうしないと、指先同士を擦り合わせる仕草を大橋に知られてしまう。
 指先の痛みなど、もうどうでもいい。よりはっきりと残っているのは、指先に這わされた大橋の唇と舌先の感触だ。気持ちが悪いなどとは思わない。ただ、思い返すだけで背筋にゾクゾクするようなくすぐったい感覚が駆け抜ける。

 最近まで、他人と触れ合う行為とは無縁な生活を送っていた藍田にとって、大橋だけでなく、堤からも過剰な接触をされたせいで、感情が飽和状態に近かった。一方で体は、同性から与えられる感触を、まるで砂が水を吸い込むように貪欲に受け入れていくのだ。
 気づかれないよう、隣を歩く大橋にそっと視線を向けた。店の個室で見せていた激しさなど忘れたように、いつもの飄々としていながら掴みどころのない男の顔がそこにある。目が合うと、どうした、と言いたげに大橋の表情がふっと和らぐ。
 大橋は優しい。だが、大橋が持つ優しさと激しさが、やはり藍田は怖いのだ。

「大橋さん」
「なんだ」
「――もう、わたしに関わらないでほしい」

 藍田は静かな口調でそう切り出した。

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