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脅す男

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 この時期、こんな状態になるのは非常にマズイとわかっていながら、どうしようもなかった。溜まっていた書類の決裁を終えた大橋は、口元を手で覆いながら深刻なため息をつく。
ついでに、視線を向かいのオフィスへと向けていた。予測はしていたが、藍田のデスクが見える窓のブラインドは下されていた。あのブラインドは、藍田の感情を端的に表すバロメーターだ。何かしら思うことがあって大橋の視線から逃れたいときに下される。
 最初は大橋の視線が鬱陶しいというのもあったのだろうが、最近は――どうだろう。
 もう一度深いため息をつこうとしたとき、咎めるようにスマートフォンが鳴った。表示された名を見て、思わず天井を仰ぎ見ていた。
 二つのプロジェクトを合同にするという構想をぶち上げ、実際に動いてしまった大橋だが、そんな大事を、二日前まで藍田に告げていなかった。そしてもう一人、告げなければならない人物がいるのだが、実はその相手には、まだ報告していない。
 藍田のように葛藤を覚えたからではなく、こちらは単に、反応が読めなかったからだ。こちらの計画をすべて知らせるほど、信用はしていないともいえる。
 覚悟を決めた大橋はスマートフォンを取り上げる。
「――大橋です」
 相手の用件は端的だった。いますぐ自分のオフィスに来てくれ、と。
 電話を切った大橋は勢いをつけて立ち上がると、辺りに聞こえるような声で言った。
「書類に判を押したから、適当に持っていけよ。俺はちょっと席を外す」
 すかさず応じたのは後藤だ。
「藍田副室長と、また掴み合いですか?」
 二日前の騒動が妙な尾ひれがついて広まっているらしい。もっとも、大橋も面倒臭がって、一切説明してこなかったのだが。いい機会なので、ここぞとばかりに訂正しておく。
「バーカ、俺と藍田は仲良しだぞ。二日前だって、楽しく談笑してたんだ」
 部下たちから、一斉に疑いの眼差しを向けられてしまった。事実を隠すための冗談は、滑ったようだ。実際、藍田に張られた片頬を赤くしてオフィスに戻ったので、信じろといっても無理だろう。
「……生活指導の先生から、呼び出しだ」
「生活指導?」
「管理室だ」
 あっ、と後藤が声を洩らす。大橋を呼び出したのが誰か察しがついたらしく、今度は露骨に心配そうな顔をされた。
「何かあったんですか?」
「何も。ただ、ちょっとお話をしに行くだけだ」
「その言い方が、かえって心配なんです」
 平気だと、軽く手を振って大橋はオフィスを出る。
 部下たちの手前、なんでもないふうを装っていたが、内心は気が重い。電話をかけてきた宮園の声の調子はいつもどおりだったが、今日になってかけてきたということは、それなりに意味はある。
 大橋は廊下を歩きながら、スラックスのポケットに片手を突っ込む。藍田は、プロジェクトを合同にするという話に乗るだろうかと考えていた。藍田が結論を出しさえすれば、正直大橋は、他の人間の思惑などどうでもいいのだ。藍田がやりたいように、環境を整えてやるだけだ。
「本当に、過保護だな、俺……」
 内心で苦笑を洩らしつつ、それでも気を引き締めて管理室のオフィスへと向かう。
 宮園の執務室は、相変わらず膨大な資料に占領されつつあった。当の宮園は、すでに応接セットのソファに腰掛け、ファイルを開いている。
「すみません。お忙しいところを来ていただいて」
「かまいません。宮園さんを呼ぶより、呼ばれるほうが気が楽なので」
 ファイルを置いた宮園が、ちらりと笑みを浮かべる。
「まるで、わたしが呼ぶのを待っていたような口ぶりですね」
「いつかは呼ばれると思っていましたから」
 この時点で、二人の腹の探り合いは始まっていた。
 宮園に促されるまま向かいのソファに腰を下した大橋は、本題を切り出されるを待つ。宮園も、余計なことは言わず、さっそく本題に入った。
「妙な話を聞きました」
「妙?」
「あなたの本社移転のプロジェクトと、藍田さんの事業部統廃合のプロジェクトが合同になるかもしれない、と」
「藍田がまだ結論を出してないんですよ、その話」
 大橋がこう答えた途端、宮園の眼差しが鋭くなる。管理室室長の本領発揮だと、大橋は苦笑を洩らす。
「ということは、本当なんですね」
「俺から専務に進言して、前向きな返事はいただきました。あとは、藍田次第です」
 足を組んだ宮園がこめかみに指先を当てながら、じっと大橋を見つめてくる。何を考えているのか、心の奥底まで抉り出そうとする容赦ない目だ。
 藍田も眼差しの冷たさでは定評があるが、あの男の場合、他人の心まで暴こうとする無遠慮さはない。藍田の基本にあるのは、自分に踏み込ませない代わりに、他人にも踏み込まない、ある種の慎み深さだ。一方の宮園は――。
「ということは、藍田さんを操る準備ができた、と捉えていいんでしょうか?」
「専務も最初は誤解されていましたが、あくまでプロジェクトのリーダーは二人。俺が藍田の下につくとか、藍田が俺の下につくという話じゃありませんよ。互いに協力体制を取るというだけです」
「でも、他の方はそうは取らないでしょう。お二人が結託して、何かよからぬことを企んでいる、と危惧するかもしれない」
 宮園の追及は、予行練習のようなものだった。遠からぬうち、同じような質問を、公開裁判のような形でぶつけられるはずだ。今、宮園の質問に平然と答えられないようでは、到底藍田のバリアーとはいえない。
 大橋はふてぶてしく笑い返す。
「俺たちは、会社の命令に従って忠実に仕事をしているだけですよ。そのために、よりよい環境を整えているだけです」
「――過保護ですね」
 唐突な宮園の言葉に、さすがの大橋も目を丸くする。宮園は口元に笑みを浮かべていた。
「何も知らない人間なら、あなたが本気で権力を振るう気になったと取るかもしれませんが、わたしからすると……やはり大橋さんは過保護ですよ。藍田さんに対して」
 大橋は頭を掻いてから、苦笑を洩らす。宮園の、大橋と藍田の関係の捉え方は独特だと思う。だからこそ、鋭い意見にヒヤリとする。
「感情的になると、人間は判断を見誤るものです。あなたが何と引き換えに、藍田さんを守ろうとしているのかはわかりませんが、互いの事情に踏み込みすぎると、余計な傷まで負うことになりますよ」
「宮園さんなら、俺の動きをおもしろがって見守ってくれると思っていたんですが、その口ぶりだと、違うんですか?」
「できれば、先に詳細を教えていただきたかったですね」
「すみません。藍田にも教えずに動いていたぐらいですから」
 さすがの宮園も軽く目を見開いてから、口元に笑みを浮かべた。
「……藍田さん、怒っていたでしょう」
「凄まじかったですね。あの男でも、こうも感情的になるのかと感心したぐらいです」
 てのひらで感じた藍田の脈の速さも思い出され、大橋は言い淀みそうになるが、宮園の視線を感じて平静を装う。
「――口では捨て駒なんていってますが、そんな立場がいいわけないんですよ。俺はまあ、簡単に切り捨てられるつもりはないんですが、藍田は微妙です。なんというか、いざとなるとあいつは、唯々諾々としてすべての責任を自分で被ってしまいそうな危うさがある。そういうのは……他人であっても、腹が立つ。被ってしまうほうも、被せてしまうほうも」
「藍田さんがよしとしていても、ですか」
 大橋は咄嗟に、きつい眼差しを宮園に向ける。今回のプロジェクトを任されてから、大橋の腹の底には常にズシリと重い怒りが溜まっているのだ。
 会社の命令とあればなんでも従うが、捨て駒扱いはおもしろくない――という生易しいものではなく、本気で腹が立っている。だからこそプロジェクトは成功させて当然だし、そのために綺麗事はいっていられない。もちろん、藍田が負う傷は最低限に。
「俺が、よしとしません。あいつに倒れられると、俺が困る。なんのために、専務を脅すようなマネをしてまで、今回の件を認めてもいいという言質を取ったのかわからない」
「それは、初耳ですね」
 宮園がおもしろがるような口調で言って表情を綻ばせる。
「参考までに、どんなことをおっしゃったか聞きたいですね」
「――俺が本当の、社内改革の旗手になる、ということを匂わせただけです」
「それは怖い。会社が何よりも恐れていることですよ」
「だがあなたは、そういう事態を観察したがっている」
 大橋は身を乗り出し、まっすぐ宮園の目を見据える。性分ではないので、腹を探り合う会話にも疲れてきた。そこで、単刀直入に言ってみた。
「さっきあなたは、藍田を操る準備ができた、とおっしゃった。あなた自身に、俺たちをそうする思惑があるからこそ、出る言葉だと思いますが――」
 宮園は何も言わず肩をすくめる。食えない男だと思うが、大橋は宮園のこの特性が少々羨ましい。この図太さやしたたかさを、半分でいいから藍田に与えてやってほしいと思う。藍田は強くはあるが、単に我慢強いだけなのだ。
「俺としても、宮園さんを利用する気満々なんで、それはかまいません。藍田は、こういうやり取りは嫌うでしょうが」
「汚い仕事は一手にあなたが引き受けるというわけですか」
「俺はそんなに献身的じゃありませんよ。同じ年代のやり手に、それなりに恩を売っておこうというだけです」
 芝居がかった爽やかな笑顔を浮かべながら言ってみたが、宮園が信じていないのは、顔を見ればわかる。大橋すぐに笑みを消した。
「藍田を見ていると、あいつは正々堂々とエリート街道を歩むべき人間なんだと思うんですよ。俺は、そういうのは向かないし、柄でもない。むしろ、笑いながら汚いことをやるのに向いていると、卑下でもなんでもなく、そう思うんです。藍田と行動をともにしていると、そのことが実感できておもしろいですよ」
「大橋さんも立派にエリートだと思いますが。陽気で、部下に慕われて、人間味がある。何より有能で、リーダーとして理想的だ」
「俺は大勢の人間の上に立つのは向いてないんです。部下に迷惑をかけない程度に好き勝手するほうが性分に合っているんで。だいたい、気になるものがあると、他の人間になんてかまわず、一直線に突っ走る傾向があるような上司、危なっかしいでしょう。その点、藍田は冷静だ。多少線が細いですけどね」
「――二人が一緒にいてちょうどいい、と言いたげですね」
 自覚がなかっただけに大橋は、うっ、と言葉に詰まる。宮園は、大橋のそんな様子をおもしろがるように眺めていた。
「対照的ですね、あなたと藍田さんは」
「……そう、ですか?」
「ええ。藍田さんには、こちらから一方的に情報を流しているんですが、一度だって大橋さんのことを自分から口にしたことはありませんよ。まあ、考えていたとしても、簡単に心の内をさらすような人じゃないと思いますが。一方の大橋さんは率直だ。明け透けといってもいい」
「俺は、腹に何か溜め込むということができないんです」
 だから、宮園の相手は藍田に任せたかったのだ。この宮園相手に心の内をさらさないのは、さすが藍田だというべきだろう。大橋はといえば、自らベラベラと話しているというのに。
 宮園は短く声を洩らして笑うと、とんでもないことを言った。
「大橋さんは、仕事を超えて、藍田さんに想いを捧げているように見えます」
 ぶほっ、と思わず変な咳が出てしまう。さすがに、うまい返しが思いつかず、苦し紛れに苦い表情を向けた。宮園は薄い笑みを浮かべる。どうやら深く追及するつもりはなかったらしく、こう言われた。
「わたしはお二人に協力する気はありますが、できればお二人にも、もう少し協力的になっていただきたいですね。可能なら、プロジェクト絡みの大事な情報は、他からではなく、直接あなた方からお聞きしたい。藍田さんにもそう言ったんですが、なかなか……」
「言ったでしょう。あいつはシャイなんですよ」
「でしたら、パートナーのあなたがフォローしないと」
 うまく結論を誘導された気がする。
 わかりました、という返事を引き出された大橋は、話はこれで終わりだという空気を察して立ち上がる。管理室をあとにしながら考えたのは、宮園に、完全に自分の『弱み』を把握されたということだった。
 藍田の話題を出されると、どうしても大橋は動かざるをえない。藍田が汚れ仕事をやるぐらいなら、自分の手を汚したほうが遥かにマシだし、蛇蝎のごとく嫌われるのも厭わない。
 そういう大橋の心理を、宮園はこの先利用してくるだろう。
「……まあ、別にかまわないんだけどな。――利害が一致している限りは」
 こちらの計画や仕事を邪魔しないと確認できたのであれば、宮園にいくらでも情報をくれてやっていいのだ。その間は、苦手意識を抱きながらも友好関係が築ける。だが、宮園が敵対するようであれば、そのときはまた違う手段を考える。相手が嫌がるような手段を。
 そこまで考えた大橋は、軽く髪を撫でて呟く。
「どうして俺はこう、敵を増やす展開に燃えるんだ」
 エレベーターを待っていると、ちょうど昼休みを告げる音楽が流れる。このまま昼食を食べに行こうかと考えていたところで、エレベーターの扉が開く。
 そして、中に乗っていた人物とバチンと音がしそうな勢いで目が合った。
「うっ……」
 藍田だった。
 大橋同様、藍田も驚いたように目を見開いている。少しの間、二人は動けなかったが、エレベーターの扉が閉まりそうになり、反射的に大橋は動いてボタンを押す。我に返ったように藍田はぎこちなくエレベーターを降りた。
「お……、お前も、管理室に用か?」
 大橋が話しかけると、藍田は軽く眉をひそめてから、あっ、と小さく声を洩らした。何げない仕草なのに、大橋はまともに藍田の唇を見られない。
 この部分に自分が触れようとしたのだと思うと、浅ましい欲望を見透かされそうで落ち着かなくなるのだ。
「――宮園さん、か?」
「呼び出されて、ちょっと話してたんだ」
「わたしは違う。……法務部に用があるんだ」
 藍田の手にある大判の封筒を目にして、大橋は咄嗟にこう提案していた。
「すぐ終わるんなら、昼メシ食いに行くか?」
「嫌だ」
 予想通りの返事を、大橋は露骨に無視する。
「さて、何を食いに行こうかな……」
「……わたしの意見を聞く気がないなら、最初から尋ねるな。とにかくわたしは行かない」
 藍田が行こうとしたので、咄嗟に肩に手をかけて引き止める。たったこれだけのことなのに、藍田は驚いたように目を見開き、次の瞬間には明らかにうろたえた。かつての藍田なら絶対見せなかった感情の揺れが、そのまま表情に出ている。
 脆くなっている。藍田が堤に言ったという言葉の意味が、この態度に如実に出ているようだった。
 自分はさらに、この男を脆くしようとしているのだろうかと自問しながら、それでも大橋は強引に出ていた。
「話がある。お前が、会社が終わってから俺と会う気があるなら、それでもかまわんが。昼休みは一時間ほどだが、仕事が終わってからなら、何時間でもつき合わせることができるぞ」
 藍田は大橋を睨みつけてから、諦めたように息をついた。
「……十分ほどで終わる」
「だったら俺は一階のロビーで待っている。その間に、ゆっくり話ができる店を考えておくよ」
 好きにしろと言いたげな一瞥をくれてから、藍田は行ってしまう。その背を見送ってから、大橋は前髪に指を差し込む。
 いつになく強引な態度に出たのはきっと、八つ当たりだ。本来、堤へと向けるべき苛立ちを、藍田にぶつけたにすぎない。
 だからといって、大橋の苛立ちに藍田がまったくの無関係かというと、そうでもない。
 大橋と堤は、藍田を巡って互いを威嚇し合っているのだ。
 結局、藍田が原因だといえるかもしれない。

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