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与えたい男2

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 堤が住んでいるというワンルームマンションの前で車を停める。マンションが多く建ち並ぶ住宅街だけあって、この時間、人の通りはあまりなく、静かだった。

「そこの駐車場に車を停めて大丈夫ですよ」

 シートベルトを外した堤に当然のように言われて藍田はハッとする。藍田の反応にあえて気づかないふりをしているのか、堤は軽い口調で続けた。

「この間引っ越した住人が使っていたスペースなんですが、今なら少しの間車を停めていても、大目に見てもらえるんです」
「あっ、ああ……」

 藍田は明確に、堤の部屋に立ち寄ると言ったわけではないが、堤はそのつもりだ。ただ、それをいいことに、藍田も拒まなかった。
 車中で堤と交わした会話の意味を、しっかりと確認したかったのかもしれない。互いの認識がズレていれば、それはそれで藍田は安堵するだろう。合致していれば――。
 ふいに熱い疼きが胸の奥で湧き起こり、藍田は小さく体を震わせる。今日味わった大橋の感触を思い出していた。それどころか、また味わいたいとすら心のどこかで切望してしまう。だからこそ藍田は、そんな自分に歯止めをかけたいのだ。部下である堤を利用してまで。

 駐車場に車を停めると、堤に促されるままマンションに入り、エレベーターに乗り込む。
 エレベーターが動き始めてすぐ、堤が階数表示を見上げてながら言った。

「せっかく藍田さんが寄ってくれるのに、俺の部屋、おもてなしできるものが何もないんですよ。あっ、コーヒーでよければ淹れますよ。けっこうこだわっているんで、不味くはないと思います」
「すぐ帰るから、気をつかわなくていい」
「俺に襲いかかられそうだから?」

 さらりと堤に言われ、数瞬の間を置いてから藍田の体はカッと熱くなる。怒りのせいなのか羞恥のせいなのか、自分でも判断がつかなかった。

「……そういう冗談は嫌いだ」
「藍田さんが、俺を警戒するからですよ。俺はあなたにとって、警戒に値する存在ではない――。そう認識してもらえると嬉しいです」

 エレベーターの扉が開き、先に降りた堤がボタンを押しながら藍田を振り返る。恭しい動作で降りるよう示された。

「俺に対して、本気で大橋さんへの歯止めという役割を求めるなら、降りてください」

 堤を車に乗せた時点で、藍田は大事なことを選択した。大橋のせいで弱くなりたくないのだ。あの男の包容力は麻薬めいている。あまりに温かくて甘くて、心地いい。きっと、大橋のいうバリアーの中に取り込まれてしまうと、藍田は強くも冷たくもいられない。
 そうなった瞬間、藍田は大橋を恨むだろう。逆恨みだ。
 あの男に対して、そんな感情を抱きたくなかった。だから藍田は、常に自分の気持ちを保っていられるバリアーが必要なのだ。
 スッと背筋を伸ばした藍田はエレベーターを降り、堤の部屋へと向かう。

「あえて言わなくても想像できるでしょうけど、俺の部屋、汚いですよ」

 部屋の鍵を取り出しながら、堤がそんなことを言い、やっと藍田はわずかに表情を綻ばせることができる。

「最初から期待してない。それに――」

 大橋さんの部屋もひどかった、と言いかけて、不自然に口を閉じる。さすがにこの状況で大橋の名を告げるのはまずいと思ったのだが、雰囲気で堤には伝わったらしい。微苦笑で返された。

「――どうぞ」

 ドアが開けられて最初に入るよう示される。一瞬、引き返したい気持ちになったが、つい数時間前に味わったばかりの大橋との抱擁の感触が、藍田の背を押す。
 玄関に入ると、あとから入ってきた堤が背後に立った気配がする。ドアが閉まる金属音に続いて、足元で重い音がする。それが、堤が持っていたブリーフケースを落とした音だと気づいときには、藍田の体はきつく抱きすくめられていた。

「堤っ……」

 ふっと意識が舞い上がる。一瞬にして、大橋に抱き締められたときの高揚感が藍田を襲い、震える吐息を洩らす。同時に耳元には、堤が洩らした熱い吐息が触れた。
 少しの間、堤に抱き締められるがままになっていたが、耳元に、吐息ではなく唇が掠めるように触れるようになってから、藍田は問いかけた。

「……お前、わたしが言った言葉の意味を、本当にわかっているのか?」
「わかっている、つもりですよ」

 堤の囁きに背筋がゾクリと痺れた。声は違うが、鼓膜を心地よく震わせる声の低さは、大橋と同じなのだ。

「大橋さんに流されそうになっているあなたは、大橋さんに許した行為を、俺にも許すことで、歯止めにしようとしているんでしょう? そのうちいなくなる部下に特別な行為を許すということは、あなたの尊厳に関わる。だからこそ、大橋さんに対して冷静であり続けようと努力する。大橋さんに許せば、俺にも許さざるをえなくなりますからね」

 堤の口からはっきり語られると、自分はなんと打算的で、ひどいことをしようとしているのかと思う。『単なる部下』に、それを求めているのだ。
 わかっていながら、その役割を引き受けた堤にも、なんらかの打算があるのだろう。そうでも思わないと、藍田は罪悪感に苦しめられそうだ。

「悪くない取引だと思いますよ。つまり俺が求めれば、あなたに大橋さんと同じことができるんですから」

 首筋に堤の顔が寄せられ、柔らかく熱い感触が押し当てられる。藍田はビクリと体を震わせ、思わず堤の腕に手をかけていた。すかさずその手を堤に握られる。

「オフィスを飛び出していった藍田さんが戻ってきてから、何度も首筋に触れていたのに気づいていました。それに側に寄ったとき、煙草嫌いのあなたから煙草の匂いがした」

 話す合間に堤の唇がそっと首筋に触れ、吐息がかかるだけでも藍田の体の奥から狂おしい感覚が込み上げてくる。

「――……大橋さんは、ここに触れたんですね」

 そう言って堤が、微かに濡れた音を立てて首筋に数回口づけてくる。跡がつくのではないかと気にしながらも、その行為が心地よかった。目を閉じれば、大橋の腕の中にいるような錯覚に陥るのは簡単だ。
 こうなると藍田には、大橋との抱擁の感触にもう一度浸りたいのか、大橋と深入りすることに歯止めをかけたいのか、自分でもよくわからなくなっていた。
 わかっているのは、藍田の事情に大橋を巻き込みたくないということだ。あの男を、自分のバリアーとして傷だらけにしたくない。

「俺が受け止めますよ。誰にも見せられないあなたの脆い部分を、俺が受け止めて、守ります。それがバリアーの役目です。俺相手なら、あなたも気を張らなくていいでしょう。あなたより年下で、会社での立場が下で、キャリアもない。だからこそ、あなたは自分を繕わなくて済む。俺はあなたを脅かす力を持ってませんから」

 だから、と続けた堤の声は、怖いほど真剣だった。

「――教えてください。大橋さんに、何をされました?」

 首筋に軽く歯が立てられ、藍田は快感めいた鈍い疼きを感じる。その感覚に藍田は逆らえなかった。

「今……、お前がしているようなことを……」

 答えた途端、体の向きを変えさせられ、藍田はドアに押し付けられる。電気をつけていないため、互いの姿もよく見えない中、それでも食い入るように見つめてくる堤の眼差しだけは捉えられた。
 思わず顔を背けると、再び体を寄せてきた堤の指先に耳を触れられ、続いて唇が押し当てられた。
 こめかみに唇が寄せられたので反射的に視線を伏せると、頬にてのひらがかかる。顔の輪郭を覚えるように何度も撫でられ、ゆっくりと視線を上げた藍田はドキリとした。いつからそうしていたのか堤の顔が間近にあり、じっと藍田を見つめていた。

「堤……」

 感じるものがあり、小さく声を洩らす。誘われたように堤がさらに顔を近づけてきて、唇同士が重なる寸前、藍田は反射的に堤の唇に右手の人さし指を押し当てた。
 何をされそうになったのか、今になって理解した藍田の鼓動は急に速くなる。

「……お前、今、何を……」

 動揺している藍田とは対照的に、堤は眼前で笑う。唇に押し当てた指を軽く握られたかと思うと、堤がその指を舌先で舐めてきた。生温かく濡れた感触が指に触れるたびに、背筋に電流にも似た感覚が駆け抜け、藍田は半ば呆然として、堤の行為に見入ってしまう。
 堤の唾液で濡れた指先が、今度は藍田自身の唇に押し当てられた。

「直接触れたいです……。でも、ここには、大橋さんも触れてないんですね」

 ハッと我に返った藍田は、後ろ手でドアノブを掴むと、勢いよく開ける。驚いた堤が体を離した隙に玄関を飛び出していた。
 堤が何か言っていたようだが、聞く余裕はない。とにかく藍田は激しく動揺していたのだ。堤の行為に、自分の欲望を見透かされた気がした。
 大橋が怖かった。大橋に引きずられる自分が怖い。それに、そんな自分の衝動を、鏡のように映し出してしまう堤の存在も。

 エレベーターに駆け込んで扉を閉めたとき、藍田は喉元に手をやっていた。何かが絡みついているかのように息苦しくて仕方なかった。それはおそらく、藍田の内から湧き起こる『想い』のせいだ。
 堤と大橋も含めた関係の中で、藍田の感情は乱反射を起こしている。正直、混乱していた。藍田自身さえ掴みかねている自分の気持ちが、大橋と堤によって掻き乱され、どう処理すればいいのかわからないのだ。
 どうしてこんなことになったのか、と自問すれば、それは大橋と深く関わってしまったからだと、容易に答えは出る。だったら、関わりを断ち切れるかといえば、それはひどく難しかった。

 自分自身に対するもどかしさに、藍田はエレベーターの壁を殴りつけた。

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