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過保護な男1
しおりを挟む地下二階の資料階でエレベーターを降りると、明らかに藍田の様子はさきほどまでとは違っていた。
「藍田?」
藍田は、なかなか歩き出そうとしない。大橋が声をかけると、うろたえたように視線を伏せ、ようやく足を踏み出した。
大橋は最初、新機能事業室の資料倉庫に向かおうとしたが、気が変わる。別に、防音と人目からの遮断という役割さえ果たすのであれば、そこでなくてもいいのだ。藍田に手招きしてから、オフィス企画部の資料倉庫に向かう。
殺風景な長い廊下を歩きながら、大橋は背後からついてくる藍田の気配を全身で感じ取っていた。あえて頭から追い払う努力をしていたはずなのに、なぜか今になって、数日前、堤から聞かされた話を思い出していた。
正直、思い出すだけで歯噛みして、胸を掻き毟りたい激情に駆られる話だ。忘れられるものなら忘れたいし、ウソで片付けてしまいたい。だがきっと、堤が言ったことは事実だ。
大橋が藍田にしたように、堤は、藍田を抱き締めた。そして藍田は、それを許した。大橋に許したように。
オフィス企画部の資料倉庫は、新機能事業室と比べればかなり手狭ではあるが、男二人が話すぐらいのスペースは十分にあった。藍田を先に入らせてから電気をつけ、ドアを閉める。途端に、耳に痛いほど静寂に包み込まれた。
新機能事業室とは違い、とっくに片付けを終えたこの資料倉庫には、すぐに腰掛けられそうな段ボールはない。どれも整理して、積み上げてしまっていた。もっとも、落ち着いて話せそうな気分ではないだろう。
スチール製の頑丈なシェルフに手をかけた藍田は、大橋を見ようとはしない。白い横顔は強張ったままだ。
「――専務から、なんと聞かされた」
大橋が口火を切ると、藍田は皮肉っぽく唇を歪めた。
「事業部統合のプロジェクトと、あんたの本社移転のプロジェクトを合同プロジェクトという形にしないかと言われた。何も知らない人間なら、最初からそうしておけばいいものを、と思っただろう。わたしも、当事者でなければそう思ったはずだ」
「……俺も、二つのプロジェクトの話を知ったときは、手間がかかることをすると思った」
プロジェクトリーダーに任命されたとき、呼び出されたのは同時だったが、大橋と藍田は別々に専務室に入って話をしたため、互いに何を言われたか知らない。だが、プロジェクトの違いはあれ、内容そのものに差異はなかったはずだと、このときまで大橋は考えていた。しかし、会社は大橋が考えている以上にしたたかだった。
藍田が、感情を押し殺した平淡な声で言う。
「わたしは、専務から初めて事業部の統廃合の話をされたとき、こう言われたんだ。同時期に動く本社移転に関するプロジェクトは、わたしの仕事の『後処理』でしかないと。仕事は大変だろうが、それだけわたしの能力を評価しているということだと思ってほしい、とも」
「まあ、事実だな……。俺の仕事は、面倒事の片付けをするようなもんだ」
「別にわたしは、専務のその言葉を素直に受け止めたわけじゃない。捨て駒とはいっても、上手く使って仕事をさせるためには、それぐらいの美辞麗句を言うことぐらいわかっているつもりだ」
藍田の冷静な意見は、藍田自身を傷つけているように見えた。大橋は口元に手をやると、視線を床に落とす。
自分がおかしくなっているのは自覚しているつもりだったが、まだ認識が甘かったらしい。この状況にあって大橋は、たまらなく藍田を抱き締めたかった。冷静であろうと努めている藍田の姿が、かえって劣情を催させるのだ。
いつだったか宮園は、大橋の藍田に対する配慮を『過保護』といったが、そんな生温い感情ではない。これは、狂おしいような『欲望』だ。
「――それでも、大事なプロジェクトを任されたことに間違いはない」
「ああ……」
「わたしは失敗などしていない。それなのにどうして、わたしがあんたを頼らないといけない? 上から、わたしは力不足だと判断されたも同然だ。プロジェクトが合同になるだけじゃなく、あんたの協力を仰いだらどうだと言われるのは、そういうことだろうっ?」
激しい眼差しを向けられ、大橋の心は揺さぶられる。
「……俺は、そういう意味で専務に提案したわけじゃない」
大橋が答えると、すかさず藍田に頬を平手で殴られた。
「やっぱりあんたが、専務に言ったんだなっ」
もう話すことはないとまで言い放って、藍田が資料倉庫から出ようとしたが、ドアノブに手をかけたところで、慌てて大橋は藍田をドアから引き離した。
「離せっ。もう用は済んだっ」
「お前が一方的に言っただけだろうがっ。俺の説明がまだ済んでない」
「聞く必要はない」
頑なな態度に思わずカッとして、大橋は乱暴に藍田の体をシェルフに押し付ける。このとき藍田が咄嗟に何を思ったのか、容易に想像がついた。目を見開いた藍田が、一瞬不安そうな表情で見つめてきたからだ。また、大橋に抱き締められると思ったのだろう。
大橋は、藍田の素の表情に弱い。普段が怜悧すぎるほど鋭く冷たいくせに、素の表情があまりに無防備すぎるのだ。
藍田の肩から放した手を、ぎこちなくシェルフの棚に置く。
「……逃げるなよ。今度逃げようとしたら――この間みたいなことをするぞ」
「恥知らず」
すかさずこんな言葉が出るところが、いかにも藍田らしい。
大橋はちらりと笑みをこぼしてから、やっと落ち着いて事情を説明することができる。
「――ずっと考えてはいたんだ。お前が任されたプロジェクトは、与えられた権限が大きい分、お前一人にかかる負担が大きすぎるってな。だからといって、部外者の俺にできることはせいぜい、お前が目の前でネチネチと誰かに嫌味を言われていたら、助けるぐらいだ。それと、メシを食えとお節介を焼くぐらい……」
心なしか、藍田の頬の辺りが赤くなったような気がしたが、顔を覗き込んで確認するわけにもいかない。
「お前のためにできることは、それぐらいだと思っていた」
「わたしの、ため……?」
改めて聞き返されると、今度は大橋のほうが顔が赤くなりそうだ。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、ほぼ勢いのまま捲くし立てた。
「お前にだけ、負担と傷を負わしたくないんだ、俺は。だから――動いた。お前と偶然、東京への出張が一緒になったときがあっただろう? あのとき、俺が処理したトラブルは、本来はお前が担当するべきものだった」
藍田が口を開きかけたが、大橋は畳み掛けるように続ける。
「専務に相談したら、お前はお前でトラブルを抱えている言われた。そして、俺が責任を持って最後まで処理するよう指示を受けた。それでよかったと思っている。俺に入った情報から引き当てたトラブルだ。誰かに押し付けるのも気が引けるしな」
「でも、今のいままで、わたしに一言も報告しなかった」
きつい眼差しを向けてきながら、藍田が身じろごうとする。逃げられると咄嗟に思い、半ば本能的に藍田の肩を掴んでシェルフに押し付けていた。自分で自分の行動をまずいと感じた大橋だが、もう引くことはできない。
「言おうとしたっ。お前がこうやって怒ることは予測はしていたし、覚悟もしていた。だけど――」
「だけど、なんだ?」
「お前を傷つけることになるというのは、耐えられなかった。お前に傷を負わしたくないと思いながら、結果として、俺自身の行動がお前を傷つけるのが……」
知らず知らずのうちに、藍田の肩を掴んでいる手に力が入る。大橋は、自分でも何を言っているのかよくわからなくなりかけていたが、それでも愚直なほど、自分の気持ちを伝えようとしていた。
大橋自身、わかりかねている気持ちを。
「言おうとしたが、一度タイミングを失ったら、あとはズルズルと日が経っていた。俺じゃなく、別の人間の口からお前に伝わるのを待っていたのかもしれん」
「……別の人間なら、わたしを傷つけてもよかったのか?」
思いがけない藍田からの切り返しに、今度は大橋が目を見開く番だった。
「いやっ、それは……。そんなつもりはない。が、確かに、お前の言う通りだ。俺は、俺が悪役になるのが、本当は嫌だったのかもしれん」
「そして結果として、わたしに怒鳴り込まれたのか」
立つ瀬がないとは、まさに今の大橋の状況を言うのかもしれない。
じっと大橋を見つめ続けていた藍田の視線が、ふっと外れる。オフィスにやってきたときに比べれば、鋭さがいくぶん薄れていた。
「――……大橋龍平という男は、もっと狡猾で要領がいいのかと思っていた」
ぽつりと洩らされた言葉に、大橋は一拍置いて苦笑する。
「俺は、そのつもりだぞ」
大橋の冗談はあっさり無視され、藍田が苦々しい口調で言った。
「だから、あんたはプロジェクトの件で絶対、わたしを踏み台に利用すると思って警戒していた。多分、今も信用はしていない」
「だったら、俺を側に近づけなければいい。プロジェクトを合同にするかどうか、最終的な決定権はお前にある。俺はあくまで、提案しただけだ。お前のより堅固なバリアーになるためにな。それに、断ったからといって、すぐにお前の処遇がどうにかなるわけじゃない。上としては、厄介な二人に組まれるよりは、切り離しておいたほうが楽だと考えているだろうしな」
「それなのにあえて、プロジェクトを合同にしてもいいと上が容認し始めた理由は?」
「それこそ、狡猾で要領のいい俺の、本領発揮だ」
藍田は、軽く眉をひそめただけで、それ以上は追及してこなかった。それでいいと、大橋は思う。<つまらないこと>を藍田は知らなくていいのだ。
例えば、プロジェクトを合同という形にすることを認めてくれない場合、大橋が『移転推進実行プロジェクト』のリーダーを降り、『事業部統合に関する管理実行プロジェクト』の一メンバーに加わるだけだ、と専務に向かって言い放ったことなど。
若手の間で社内改革の指揮を執っている――という噂が立っている大橋が、藍田の下に入ることは、上層部としては非常に困るのだ。何かあったとき、責任を取るのはリーダーの藍田だけで、当の『改革の旗手』である大橋は無傷だ。
厄介な存在が、藍田の下で、一時的とはいえ絶大な権力を振るうことができるかもしれない。そんな危機感を相手に持たせるのは簡単だ。何かあったとき、責任を大橋と藍田の両名に取らせなければ困るのだ。どちらかが無傷で残れば、必ず深い禍根が残ると恐れているからこそ。
思わせぶりなことを言っておけば、企みがある人間ほど、いいリアクションを返してくれる。大橋は、そこを突いたのだ。おかげで、プロジェクトを合同にしてもいいという言葉を、専務から引き出せた。
もちろん大橋としては、藍田だけを犠牲にする気は毛頭ない。あくまで、はったりだ。
こんなやり取りがあったなどと知ったら、目の前の男はどう感じるだろうかと考える。大橋のことを、怖い男だと思うだろうか。
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