上 下
45 / 60

激高する男

しおりを挟む




 やけに社内が静かだ――。
 出張から戻ってきて一週間以上経っているが、藍田はずっとそう感じ続けていた。しかも心安らぐような静けさではなく、まるで嵐の前のような、騒乱を予感させる不気味な静けさだ。

 宮園からそれとなく情報を流してもらっているが、どうやら東和電器の重役たちで構成されている執行会議が頻繁に開かれており、水面下で『何か』が慌ただしく動いているらしい。
 藍田や大橋が関わったトラブルも関係しているのだろうが、誰にも確認のしようがない。とにかく浮き足立っている社内の空気を慮り、本社・支社を問わず、重役たちの社内での行動が慎重になっていると考えるべきだろう。

 エレベーターから降りた藍田は、肩にのしかかるような重圧を疎ましく感じながら、短く息を洩らす。別に新機能事業室があるこのフロアの空気だけがおかしいのではなく、会社全体が微妙な緊張感を漂わせているのだ。
 藍田だけが感じている感覚なのかもしれないが、他人に確認するわけにもいかない。
 これもある種の被害妄想なのかと考えながら、藍田は自分の肩に片手をかける。ここ最近、どうも肩に余計な力が入っている気がする。
 仕事以外でも厄介なものを抱えてしまったからだ。忌々しく心の中で呟いて、オフィスへと戻る。あえて堤のほうは見ないようにした。見ることで、堤を意識していると自覚するのが嫌だった。

 デスクについた藍田は、無意識のうちに向かいのオフィスを見そうになったが、寸前で堪える。次の瞬間には、堤のほうをうかがっていた。ここ最近、この一連の動作が癖になっているようで、我ながら複雑な心境になる。
 資料倉庫で堤と抱き合った光景が生々しい感触とともに蘇り、藍田は妖しい衝動と羞恥、そのうえでの居たたまれなさに、この場から消えたくなる。
 藍田は恒例となっている思考の堂々巡りを終え、さきほどまで行っていた打ち合わせで渡された資料に視線を落とす。本格的に仕事を再開しようとしたとき、内線が鳴った。

「新機能事業室の藍田です」

 電話の向こうから返ったきた相手の声を聞いた瞬間、藍田はピリッと全身が緊張するのがわかった。
 ただ、電話をかけてきた相手も意外だったが、それより、電話の内容が藍田にとっては衝撃的だった。
 驚きに目を見開いたあと、相手の話を聞いていくにつれて顔が強張り、抑えきれない感情が湧き起こってきて、手が小刻みに震えてくる。その震えが、声にまで出ないよう気をつけるのが精一杯だった。

「……そういうことに、なっていたんですね」

 返事以外でようやく藍田が発した言葉が聞こえたのか、聡い堤がこちらを見る。藍田は露骨に顔を背けた。

「悪い話ではない? そう、ですね……。そうかもしれません。ただ、わたし抜きでそんなことになっていたというのは、正直心外です」

 藍田なりの反発から出た言葉は予測していたらしく、相手は落ち着いた口調でこう言った。最終的に、君がどうしたいかに任せる、と。短いが、さまざまな意味を含んだ言葉だった。
 受話器を置いたときには藍田は、相手の意図を漠然とながら理解していた。同時に、自分が捨て駒という立場であることも思い出していた。

「ふっ……」

 緊張を保っていた糸が切れ、低く声を洩らして笑う。一瞬、何もかもどうでもよくなっていた。そうなると、もう笑うしかないのだ。
 口元を手で覆い、藍田は肩を震わせながら、ひどく惨めで情けない気持ちで笑い続ける。その一方で、なるようになってしまえばいいと呪詛のように願っていた。

「――藍田さん、どうかしましたか?」

 様子のおかしい藍田を放っておけなくなったのか、堤に声をかけられる。それがきっかけとなり、ピタリと笑うのをやめた藍田は顔を上げる。

「……どうもしない。ちょっとした報告があった――」

 投げ遣りな口調で答えていた藍田の視界の隅に、ある光景が飛び込んでくる。半ば本能的に、向かいのオフィスを凝視していた。
 自分のデスクについた大橋が、女性社員と笑いながら話しているという、見慣れた光景だった。なのにこの瞬間、藍田は目も眩むような激しい怒りに襲われる。
 大橋が、誰かと笑い合うのはかまわない。ただ、その相手が女性であることが、今の藍田には耐えられなかった。

 ふらりと立ち上がり、大きく肩で息をする。このオフィスで大橋に抱き締められてから、藍田が何より気にし続け、混乱の原因ともなっていたのは、自分たちが同性だということだった。
 男が男を抱き締めるには、何かしらの理由があるはずだ。そう藍田は考え続け、その理由がわからないからこそ、動揺していた。藍田で――男でなければならない理由が、きっと大橋にあるはずだと、信じていたのかもしれない。
 裏を返せば、軽い行為ではなかったと信じたかったのだ。いい歳をして、悪ふざけであんなことができるはずがないと。
 だが、女性と笑い合っている大橋を見て、信じていたものがあっという間に瓦解する。元より、藍田の思い込みでしかなかった脆いものだ。

 普段の藍田であれば、大橋が女性社員と楽しそうに話している光景などいつものことだと、気にもかけなかっただろう。しかし今は、タイミングが悪かった。さきほどかかってきた電話のせいだ。
 大橋は、自分を陥れようとしているのかもしれない。
 その言葉が頭に浮かんだときには、藍田は大股で歩き出していた。

「藍田さんっ」

 堤が追いかけてこようとしたが、藍田は振り返ると、冷たい眼差しを向け、それ以上に冷たい声で告げた。

「――ついてくるな」

 気圧されたように堤が動きを止めると、もう一瞥すらせずオフィスを出る。
 社員たちが道を空けるほどの勢いで廊下を歩きながら、藍田は自分の心が急速に凍えていくのがわかった。感情の揺れすら抑え込むように、すべてが凍っていく。そんな状態で藍田が向かったのは、オフィス企画部だった。

 オフィスに足を踏み入れると、まっすぐ大橋のデスクに向かう。いくぶんざわついていたオフィス企画部は、藍田が奥に向かうに従って、まるで波が引くように静かになっていった。
 大橋のデスクの前に立ったときには、完全に静まり返り、息を潜めたような状態となる。
 女性社員と話し込んでいた大橋がようやく異変に気づいたように正面を向き、笑みを消した次の瞬間には、驚きに目を見開いた。

「藍田……」

 むしょうに、大橋の横っ面を引っぱたきたい衝動に駆られたが、凍えるような怒りが歯止めとなった。
 藍田は短く息を吐き出すと、冷然とした声で言い放った。

「――あんたが企んだのか」

 この言葉ですべてを察したらしく、サッと大橋の顔色が変わる。表情を強張らせると、傍らに立ち尽くしている女性社員に声をかけて遠ざけた。
 大橋が珍しく神妙な顔で見上げてくる。こんな表情をすると、大橋は少しだけ誠実さが割り増して見えるが、藍田は騙されないよう自分に言い聞かせる。
 今この瞬間、大橋が敵になるかどうかの境目を見極めなければならないのだ。

「……専務、か?」
「ああ。今さっき電話があって、告げられた」
「本当は、もっと早くに、俺の口から言う……いや、相談するつもりだった」

 苦しげな大橋の口調と表情に、一瞬、藍田の心が揺れる。思わず感情的になっていた。

「やっぱりあんたは、最初から全部企んでたんだなっ。わたしを利用するつもりだったんだろうっ」
「違うっ」

 藍田らしくもなく大きな声を上げたが、そんな声など比較にならない、腹に響くような大橋の怒声がオフィス中に響き渡る。
 違う、と今度は呻くように洩らした大橋が、周囲を見回してからいきなり立ち上がる。大橋の部下たちも驚いただろうが、藍田も咄嗟に反応できないほど驚いていた。大橋に殴りかかられることを覚悟したぐらいだ。
 大橋は乱暴な動作でデスクの引き出しを開けると、何かを掴み出してスラックスのポケットに突っ込む。そしてデスクを回り込んで藍田の傍らに立った。

「来い。ここじゃ込み入った話ができん」

 そう言って大橋に腕を掴まれ、藍田はビクリと体を震わせる。藍田の反応に気づき、大橋はすぐに手を離したが、苛立ったように髪を掻き上げながら、ぼそぼそと言った。

「ここで派手に、怒鳴り合いをするか? それこそ、俺たちの失態を願っている連中を喜ばせるだけだぞ」
「『俺たち』?」
「俺たち、だ。怒るのは、俺の話を聞いてからでも遅くないだろう。人目のないところでだったら、殴られてやってもいいし、土下座だってしてやるぞ」

 大橋は本気だった。藍田は改めて周囲を見回し、社員たちの視線がすべて自分たちに向けられていることを確認すると、やむなく先に歩き出す。
 後ろから大橋がついてきているかどうかすら確認せず、足早にオフィスを出ると、まっすぐエレベーターホールに向かう。たまたまエレベーターの扉が開いていたため、急いで乗り込む。いつの間にか隣には大橋も立っていた。目が合ったが、藍田のほうから顔を背ける。

「何階ですか?」

 操作盤の前に立っている女性社員に尋ねられる。怒鳴り合いになる可能性が高いため、会社の外に出たほうがいいだろうと判断した藍田は、一階を、と言おうとしたが、その前に素早く大橋が動き、地下二階のボタンを押してしまう。制止もできず、藍田は目を丸くする。一方の大橋は、何事もなかったように正面を見据えたままだ。

 何か予感めいたものがあり、エレベーターが一階に着くと、藍田は他の社員たちに紛れるようにして降りようとしたが、大橋に乱暴に腕を掴まれて引き止められた。
 二人きりとなったエレベーターの扉が静かに閉まると、途端に息苦しさを覚える。藍田は軽く身をよじって大橋の腕から逃れ、エレベーターの隅へと移動した。

「……会社の外で話せばいいだろう」
「人目が気になる。お前だって落ち着かないんじゃないのか」

 藍田は口を開きかけたが、肝心の言葉が出てこない。近場で、人目も聞き耳も気にせず話せる場所といえば、やはり資料倉庫しかないのだ。顔を伏せた藍田は唇を噛む。資料倉庫で堤と抱き合ったときのことを思い出し、羞恥心から居たたまれない気持ちになった。
 同時に、大橋に対する後ろめたさも感じていた。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

処理中です...