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寂しい男

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「――まーた、来てやがるのか」

 あまり上品とは言えない言葉遣いになってしまうが、この場合仕方ない。紳士を自負している大橋にも、どうしても心が狭くなる瞬間はあるのだ。
 たとえば、藍田の部下でもある気に食わない男が、自分のテリトリーで悠然と笑っているのを見た場合とか。
 今日も、堤はオフィス企画部にやってきていた。オフィスの隅の簡易な打ち合わせスペースで、書類を手に旗谷と膝を突き合わせて何か話している。イスにどっかりと腰を下ろした大橋は、唇を歪めながら二人の姿を眺める。
 堤は仕事のアドバイスを求めるために、旗谷の元を訪れている。もっとも本当の目的は、大橋に対して露骨な牽制をするためだろう。もしくは、オフィス企画部の様子を探るため。

「のんびりかまえていると、旗谷さんを取られますよ」

 突然、そんな言葉をかけられ、大橋は傍らに視線を向ける。いつの間にか後藤が立ち、大橋と同じ方向を見ていた。

「……なんかの冗談か、それは」
「いやいや、大マジです」

 そう言って後藤がニヤリと笑いかけてくる。明らかに、旗谷を巡った大橋と堤の対立を期待している顔だ。

「ここ最近、彼、うちによく来るから、ちょっとした噂になっているんですよ。仕事に託けて、旗谷さん目当てで来てるんじゃないかって。補佐一筋の旗谷さんも、さすがに悪い気はしないと思いますよ。なんといっても、イイ男ですから」

 大橋はわずかに目を眇める。そうすると、一見爽やかな堤の二枚目面から、ふてぶてしい素顔が透けて見える気がしたのだ。

「――……安心しろ。堤は、うちのオフィスの女帝に興味はない」

 大橋は向かいのオフィスを見る。最近は下ろされたままのことが多かったブラインドが上がっており、デスクに向かう藍田の姿があった。相変わらず端然とした姿勢で、ブラインドを下ろしている間、何があったのか一切うかがわせない。
 出張から戻ってきて、すでに一週間が経とうとしている。その間、大橋は慌ただしく動いており、一日のうち、自分のデスクに腰を落ち着ける時間もあまり取れない。

 忙しさを理由にしているな、と大橋は苦々しく唇を歪める。
 藍田には、最優先に言っておかなければならないことがあった。なのに大橋は、まだ告げられないでいる。一方で周囲の事態だけは着々と進んでいる状況だ。
 ホテルであんなことがあったため、面と向かって藍田と話すことに気後れしているというのもあるが、何より、勝手なことをするなという藍田の一言を恐れていた。藍田に拒絶されたくないのだ。
 気恥ずかしくなるような自分の本心を噛み締め、大橋は低く唸り声を洩らす。この気持ちがある限り、藍田の前に立って冷静でいられる自信がまったくない。

「補佐っ、ちょっと、補佐……」

 人が深刻に考え込んでいるというのに、後藤から忙しく声をかけられる。顔を正面に向けた大橋はぎょっとして目を剥いた。
 ファイルを小脇に抱えた堤が、後藤の隣に立っていたからだ。その堤から一見爽やかな笑顔を向けられ、負けじと大橋も笑って返す。

「旗谷のほうはもういいのか」
「ええ。お忙しい中、よくしてもらっています」
「そうか」

 無理やりな会話が続くはずもなく、すぐに不自然な沈黙が訪れる。何を言ってくるのかと身構える大橋に対して、堤はあっさりと切り出してきた。

「大橋さん、少しお時間いただいてもいいですか。ご報告したいことがあります」

 口元に笑みをたたえたまま、堤の目が険しくなる。大橋には、堤の『ご報告』の内容が薄々とながら予測がついた。藍田のことだ。大橋がまだ、藍田につきまとっていると思っているらしい。あながち間違ってはいないのだが、だからといって、堤に言われる筋合いはない。
 頷いた大橋が立ち上がったとき、終業時間を告げる音楽が流れる。
 堤に少し待つよう言って、大橋は部下に手短に指示を与え、乱雑をきわめたようになっているデスクの上を簡単に片付けた。こうも汚いと、さすがに何がどこにあるのかわからなくなりそうなのだ。
 手を動かしつつ、やや離れた場所に移動した堤に視線を向ける。すると、まだ側に立っていた後藤に耳打ちされた。

「……あの様子だと、彼は補佐狙いですか」
「殴るぞ、お前」
「もしくは補佐が、彼の恋のライバルとか――」

 大橋は、後藤の首に腕を回して締め上げる。もちろん本気ではないが、大げさに後藤は声を上げた。

「痛いっ、痛いですって、補佐」
「お前は本当に、余計なことばかり言いやがって……」
「ムキになると、かえって怪しいですよ」

 その言葉に、パッと腕を離す。部下たちが笑っているのはもちろん、スラックスのポケットに片手を突っ込んだ格好で、堤も薄い笑みを浮かべているのを見て、なんとも決まりが悪い。

「ちょっと出てくる。すぐ戻る。……多分な」
「殴り合いなんてしないでくださいよ」

 後藤の余計な一言に送られ、大橋は堤と連れ立ってオフィスを出る。 エレベーターホールに向かいながら、一応大橋は尋ねてみた。

「それで、俺に報告したいことってなんだ」
「俺と大橋さんの共通の話題なんて、限られているでしょう」
「……お前の上司のことか」

 内心で大橋はうろたえていた。ふいに腕に、藍田を抱き締めた感触が蘇ったからだ。それだけではなく、体にまわされた藍田の腕の感触も。
 口元に手をやって大きく息を吐き出すと、動揺が声に出ないよう気をつけながら言葉を発する。

「あいつのことなら、俺も気にかけている。俺なりに考えて、今動いている最中だが、その内容について、お前に教える義理は――」
「どこで話しますか」

 大橋の言葉を完全に無視して、堤が言う。横目で堤を睨みつけた大橋は、休憩スペースを指さそうとしてやめる。これから残業に突入する社員たちが、その前の一休みしようと、ぞろぞろと入っていくところだったからだ。

「……一階でコーヒーでも飲むか」
「あまり人に聞かれたくない話なんです」
「だったら、ミーティングルームでも借りるか」
「資料倉庫でもけっこうですよ」

 大橋は足を止め、堤に鋭い視線を向ける。臆した様子もなく、堤は皮肉っぽく唇の端を動かした。

「あそこ、密談をするにはなかなかいい場所でしょう?」
「いや、あそこは……」

 不都合はないはずなのに、堤とともに向かうのは抵抗があった。藍田と二人で過ごした印象が、あまりに強いからかもしれない。
 結局、わざわざミーティングルームを借りるほどではないということで、二人は中庭へと降りた。ここも一角は喫煙スペースとなっているため、社員の姿はあるのだが、よほど大声で話さない限り、他人の会話が耳に届くことはない。
 ビルの影に入った大橋は、なんとなく赤く染まった空を見上げる。さすがに昼間でも過ごしやすい気候になり、夕方ともなると風はひんやりとしている。その分、日が翳るのも少しずつ早くなってきていた。
 夏の暑い盛りに面倒事を押し付けられてから慌ただしく過ごしていたが、その間にも、確実に季節は移りつつあるのだ。

「――涼しくなって、少しは藍田さんの食欲が戻ればいいんですけどね」

 隣に立った堤に言われ、大橋は無意識に姿勢を正す。
 堤が藍田のことを切り出すとき、それは大橋に対して攻撃を仕掛けているのと同じだ。大橋は無視できなかった。

「あいつは、自分のことに無頓着すぎる。出張先でも、メシを食わせるのに苦労した」
「ああ、同じ部屋に泊まられたらしいですね」

 一瞬動きを止めた大橋だが、なんとか冷静さは保てた。

「旗谷から聞いたのか……。あのときは、台風が直撃して大変だったんだ。あいつはあいつで、ふらふらして危なっかしいから、放っておけなかったしな」

 なぜこんな、弁解めいたことを言わなければいけないのだろうかと、大橋が眉をひそめかけたとき、突然、堤の声の調子が変わった。

「――この間、俺が言ったこと、わかってもらえなかったようですね」

 堤の発言をきっかけに、二人を取り囲む空気が一気に殺伐としたものになる。もともと予測はできていたことなので、大橋はネクタイをわずかに緩めながら心の中で呟いた。
 望むところだ、と。

「俺が藍田に絡むのが、そんなに気に食わないか? だけど仕方ないだろう。仕事上、嫌でも俺とあいつは関わりを持たないといけないんだ。俺個人のことだけじゃなく、あいつに何かあったら、プロジェクトに支障が出る。誰か代わりに、というわけにもいかない。良くも悪くも、あいつは公平に物事も人間も見るからな。事業部の統廃合を進めるには、そういう奴でないとダメなんだ」

 藍田のことを言えない。気持ちが高ぶった大橋は、普段以上に饒舌になっていた。そのことに気づいたとき、同時に、堤から向けられる眼差しにも気づいた。
 取り澄ましてはいるが、抑えきれないような激しさが滲み出ている、凄みのある眼差しだ。

「……だからといって、藍田一人に重荷を背負わせる気はないから、俺なりに何かできないかと思って動いているんだ。どうやら俺たちは、一括りで見られているみたいだしな」

 最後に言い訳めいたことを口にしてから、今度は大橋が堤に鋭い視線を向ける。

「まだ、俺の野心に藍田を巻き込んでいると思っているのか? あいにく俺は、周りから思われているほど上昇志向は強くない。欲があるとすれば、今の立場を守りたいことぐらいだ。藍田にしても同じだろう」

 大橋の言葉の何に反応したのか、堤が急に、おかしそうに声を洩らして笑い始める。
 嫌な笑い方だと思った。それだけではなく、堤の妙に余裕ありげな態度も神経に障る。藍田の心配をするのは自分一人でいいと主張されているようなのだ。

「――藍田さんに、殴られたそうですね、大橋さん」

 一瞬肩を揺らしてから、大橋は堤を見据える。動揺したというより、純粋に驚いたのだ。
 大橋が藍田に殴られたのは、今のところ一度きりだ。そのときの情景が目まぐるしく頭の中を駆け巡るが、表面上は平静を装っていた。感情を表に出せないほど、激しく動揺していたのかもしれない。
 なぜそのことを知っているのかという当然の疑問に、笑みすら浮かべて堤が答えた。

「俺も殴られたんですよ、藍田さんに」
「……意外にあいつ、手が出るタイプなんだな」
「殴られた理由は――大橋さんと同じです」

 堤が言った言葉の意味がわかるのは、殴った藍田と、殴られた大橋だけだ。冷えた堤の表情は、ウソを言っているものではなかった。もちろん、ハッタリでもない。
 愕然として立ち尽くす大橋に、堤はさらに追い討ちをかけてくる。

「先日、夜のオフィスであなたが藍田さんに何をしたか、知っています。それだけじゃなく、東京へ出張に行った際、何があったかも。同じ部屋に泊まったとき――」
「藍田が、お前に言ったのか?」
「正確には聞き出したんですよ。……本意じゃなかったんですが、強引な手段を使ってしまいました」
「お前っ……」

 怒りに我を忘れた大橋は、思わず堤の襟元を掴み上げる。一方の堤は動じるどころか、激しい感情を剥き出しにした大橋を観察するように見つめていた。まるで、大橋の中にある藍田の存在感を推し量るように。

「お前、藍田に何をしたっ」

 低く問いかけると、堤は憎々しげに唇を歪めてから、視線を周囲に向ける。その仕草で、中庭にいる社員たちがこちらをうかがっていることを知り、大橋は乱暴に手を放した。

「――今、何を心配しました?」

 ジャケットの襟元を直しながら、皮肉っぽい口調で堤に問われる。唇を引き結んだ大橋にかまわず、堤は言葉を続けた。

「俺が藍田さんに暴力を振るった? 恫喝した? 違いますよね。あなたは、俺があの人にそんなことをするとは思ってない。一方で、何をしでかしそうか、心当たりはある」
「心当たり……」
「おそらく、当たっていますよ。あなたの心配は。――俺は、あなたが藍田さんにしたことと同じ行為を、求めたんですよ」

 大橋は顔を強張らせる。冷静でいろと自分に言い聞かせ続けていたが、このときばかりは吐き気を催すほどの感情に襲われていた。これがなんという感情であるか、大橋は知っている。

「……結局、何が言いたいんだ」

 てのひらに爪を食い込ませながら、最大限の理性をもって声を抑える。ここが会社でなければ、そしてもう少し大橋が若ければ、間違いなく堤を殴っていただろう。そう思うぐらい、とてつもなく腹が立っていた。
 堤だけでなく、自分自身に対しても。驕りでもなんでもなく、堤が藍田に対して強気に出た理由は、大橋にあるのは明白だ。
 その理由を堤が口にした。

「あなたが目立つおかげで無用に敵を作ることも問題ですが、それ以上に気になるのは、あなたが関わってくるようになってから、藍田さんの気持ちが揺れていることなんです。……藍田さん自身は、脆くなっている、と言っていました」

 脆くなっている、という響きに大橋はドキリとする。あの、ツンドラのように凍える空気をまとっていた男の口から、そんな言葉が出たことを想像すると、心配になるというより、ひどく艶かしい気持ちになったのだ。
 自分の度し難さにうろたえ、誤魔化すように口元に手をやった大橋とは対照的に、堤は冷静だった。

「――自分の存在が藍田さんに変化を与えていると知って、満足ですか?」
「俺がどう答えれば、お前は満足なんだ」

 堤の顔に、激情が走る。大橋だけでなく、堤もまた、必死に感情的になるのを堪えていたのだと知った。だからといって、親しみを感じるはずもない。

「……大橋さんみたいな人がどうして二度も離婚したのか、今は少し理由がわかる気がしますよ」
「そうか、ぜひ教えてくれ。三度目の失敗をしないうちにな」
「あなたは、エゴイストだ。相手を思いやっているようで、結局は、自分の欲求を満たしたいだけなんだ。あなたの感情を注がれる相手のことなんて、考えていない。あなたに振り回される藍田さんのことを、少しは考えたことがありますか? あなたの行動が本当に藍田さんのためになっていると、言い切れますか?」

 大橋は反論できなかった。自分勝手だということには、嫌というほど自覚はある。
 三十代半ばにして二度の離婚を経験しているというのは、確かに負い目ではあるのだが、今はそれは問題ではない。藍田のためになっているのかと率直に問われたことに、後頭部を殴られたようなショックを感じたのだ。
 堤は返事を求めず、大股で歩いて中庭を出ていく。あの男なりに、感情的になるギリギリのところだったのかもしれない。

 大橋は深刻なため息を洩らすと、いつの間にか空いていたベンチへと移動し、体を投げ出すようにして座り込む。一気に脱力感に襲われていた。頭がガンガンと痛んでいるのは、頭に血が上ったり、血の気が失せたりを繰り返したせいだろう。
 閉じた両瞼を指で揉みながら、大橋はさまざまなことを確信していた。例えば、自分と堤がとことん気質が合わないことや、それどころか、堤に激しく嫌われていること。いや、危険視されているというほうが正確かもしれない。大橋自身が、堤をそう感じているように。
 上司に忠義を尽くす部下、という可愛げのあるものでないのも、確かだ。堤のあの様子は、あれは――。

「恋人を奪われそうな顔してたな」

 修羅場になったとき、感情的になるタイプと、徹底して感情を排してしまうタイプがいると大橋は思っている。堤は間違いなく、後者だ。
 だったら俺は、と考えたところで、軽く鼻を鳴らす。大橋はジャケットのポケットを探り、なぜか安定剤代わりに持ち歩いている煙草を取り出す。まだ、買ってから一本も吸っていなかったのだが、今のこの精神状態では限界だった。

 唇に挟んだ煙草に火をつけると、懐かしい感覚が体を満たしていく。
 切なくて寂しいという、忘れかけていた感覚が。

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