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逃げられない男2
しおりを挟む藍田は目を見開いて、隣の堤を見る。
「正直、あのときの藍田さんの様子は尋常じゃなかった。手の震えが止まるのに、しばらくかかりましたよね? よほどショックなことや、怖いことがあったと思うのが普通です。それに、あの場で大橋さんと何かやり取りしていたことも間違いない」
「もう、わたしに何も聞くなっ」
思わず鋭い声を発したが、堤はそんなことでは動じない。こういうとき、堤のふてぶてしさが少しだけ憎らしい。
「俺も、聞く気はなかったんです。だけど、あなたが出張から戻ってきてからの様子を見続けていて、気が変わりました」
身を乗り出してきた堤に顔を覗き込まれ、藍田はなぜか視線を逸らせられなかった。おそらく、この場での主導権を完全に堤に奪われたと感じたからだ。
「らしくなく、ぼんやりしていましたよね。疲れているのかと思ったけど、そうじゃない。今日だって、一人でぼんやりしたくて、ここに来たんですよね?」
「……疲れがなかなか取れないんだ。わたしがまだ病院にかかっているのは知っているだろう」
「俺には疲れているというより、思い悩んでいるように見えるんですが」
堤はどれだけ自分を観察してるいのかと、藍田は空恐ろしさすら覚える。それはつまり、堤の言葉の正しさを認めたことになる。
「――出張先で、大橋さんと同じホテルというだけじゃなく、同じ部屋に泊まったそうですね」
「どうしてそんなことを知っているっ……」
ムキになって問い詰めようとした藍田だが、問題の本質はそんなことではないのだと、すぐに察する。出張先で、同僚と同じ部屋に宿泊したところで、おかしくはないのだ。おかしいのだとすれば、そんなことをわざわざ指摘してくる堤だ。
藍田はぎこちなく立ち上がると、堤から距離を取ろうとする。すると堤も立ち上がったので、ドアのほうに行こうとした藍田は前を塞がれ、資料倉庫の奥へと逃れるしかなかった。そう、堤から逃げようと、咄嗟に思ったのだ。
夜のオフィスで、震える藍田の手を堤が握ってきたときに、すでに感じるものはあった。だが、藍田にとってあのとき優先すべきは大橋の行為で、堤の行為について考えるのは後回しにしていた。堤は自分を脅かす存在にはならないと、無意識に軽んじていたのかもしれない。
今の藍田なら、大橋だけでなく、堤の行為も深刻に捉えるべきだったと断言できる。
藍田が足早に奥へと向かいだすと、対照的に堤は、ゆったりとした足取りで追ってくる。
「俺、オフィス企画部の旗谷主任に、仕事で必要なデータを提供してもらっているんですよ。それを口実にオフィス企画部に出入りして、いろいろ観察したり、見聞きする目的もあるんですが。それで、旗谷主任から聞いたんです。あなたと大橋さんが、ホテルで同じ部屋に泊まったことを」
「……それが、どうした……」
「旗谷主任は、ケンカしなかったのかな、って笑って話してましたけど――、俺は違いますよ」
資料倉庫の奥は、堤が言っていたようにまだ片付けの途中だった。おかげで、出しっぱなしの段ボールや、積み重ねたファイルや本に何度も足を取られそうになり、そのたびに苦労して跨ぐことになる。堤は話を続けながら、すぐ背後にまで迫っていた。
「大橋さんがまた、あなたの手が震えて止まらないようなことをしたんじゃないかと思いました。出張から戻ってきてからのあなたの態度を見たら、そう勘繰っても不思議じゃないでしょう?」
「だからといって、お前に関係がない――」
気持ちが焦るあまり、跨ごうとした段ボールに足が引っかかる。よろめいた藍田の体は、すかさず背後から伸びてきた腕に支えられ、そのままグイッと引き寄せられた。
「堤っ……」
藍田の体は壁に押しつけられ、正面に立った堤の両手に肩を掴まれる。力を入れられたわけではないので、強引に押し退けることもできそうだったが、なぜか藍田の体は動かなかった。
見つめてくる堤の眼差しがあまりに必死で、表情があまりに口惜しげだったからだ。普段の生意気そうな態度からは程遠く、感情のコントロールの利かない子供のようにも見え、藍田は警戒心を削がれていた。
「堤、お前――……」
「教えてください。あのときオフィスで、大橋さんと何があったんですか」
関係ない、と言おうとして唇を動かしかけたが、声にはならなかった。堤にそっと片手を握られてから、指を掴まれたからだ。
「少し前までの藍田さんなら、部下にこんなことは許さなかった。冷たい目をして、冷たい声で、触るなと、一言いうだけだったと思います。なのに、プロジェクトを任されて、大橋さんと頻繁に行動をともにするようになってから、あなたは変わった。俺ですら、こういうことができるぐらい、あなたの中で何かが変わった。誰も変化に気づいてないでしょうが、俺にはわかるんです」
堤が体を寄せてきて、顔が間近に迫る。肩にかかっているもう片方の手がゆっくりと動き、背へと移動していた。何をされるかわかっていながら、藍田は制止できない。
「大橋さんと、オフィスで何があったんですか」
耳元で堤に囁かれると同時に、強く手を握り締められる。この瞬間、逃げられないと藍田は悟ってしまった。蘇った大橋との抱擁の感触に背を押されるように、反射的に堤の手を握り返す。自分の行動にうろたえながら、藍田は顔を背けて答えた。
「――……突然、抱き締められた」
藍田の答えを予期していたように、堤は冷静だった。
「それだけですか?」
藍田は唇を引き結ぶ。すると、背にかかった手に引き寄せられ、堤の体とさらに密着する。見た目によらずがっしりとした堤の体の感触に、大橋に抱き締められた感触がまた蘇っていた。足元から崩れ込みそうになる強烈な疼きを感じ、藍田は咄嗟に堤の肩に片手で掴まる。
「それだけ、だ……。堤、もう離れろ……」
「だったら、ホテルの部屋に泊まったときはどうだったんですか?」
これ以上のことを言うつもりはなかった。突然のことだった夜のオフィスでの行為と、ホテルの部屋での行為はあまりに意味が違うと思ったからだ。しかし、堤は聡かった。
「何か、あったんですね」
「……言いたくない。それに、お前には関係ない」
「同じことを大橋さんに言っても、あの人はきっと諦めないでしょうね。俺も、諦めの悪さには自信があるんですよ」
「お前は、さっきから何を――」
握られていた手がふいに外される。次の瞬間には、藍田の体は堤の両腕の中に閉じ込められていた。
「堤っ……」
「――俺はあなたのバリアーになると言いました。どういうわけだか大橋さんも、そのつもりになっている。なのに、俺とあの人との間には、差が開く一方の気がするんです」
「何を、言ってるんだ、お前は」
「不平等だと言っているんです」
堤が何を言おうとしているのか、ますますわからなくなる。
「堤、離せ……」
「だったら、俺にも与えてくれますか?」
謎解きのような言葉に続き、堤の腕からふっと力が抜けた。ただし、体は離さない。藍田は混乱し、戸惑いながら堤の顔を凝視する。
「何を、だ」
「藍田さんが、大橋さんにした行為を。それと、大橋さんがあなたにしたことと同じ行為を、俺もできる権利を」
カッと頭に血が上り、我に返ったときには藍田は堤の頬を平手で殴っていた。しかし堤は一瞬顔をしかめただけで、次の瞬間には薄い笑みを浮かべてこう言った。
「大橋さんに突然抱き締められたとき、やっぱりきちんと反撃はしたんですね」
「……そういう意味で殴ったんじゃないっ――」
藍田がムキになって反応すると、堤が短く噴き出す。肩を震わせて笑いながら、実に失礼なことを堤は言った。
「可愛いですね、藍田さん」
「お前は……、もう一発殴られたいか。今度は、拳で」
ふいに、堤に片手を握り締められ、ドキリとする。
「拳はやめてください。指を痛める。俺、前から藍田さんの指を眺めるのが好きなんです」
堤の言葉はキザで甘い。すっかり毒気を抜かれた状態となった藍田は、目を吊り上げて怒鳴ることも忘れてしまう。
「……お前が部下になったときから思っていたが、お前は、変わっている」
「俺は、藍田さんが上司になったときに、同じことを思いましたよ。冷たいだけで嫌な人かと思ったら、全然そうじゃない。人を遠ざけている節があるのに、一方で人を引き寄せる。でも、あなたは誰も近づけさせない」
わたしは、と洩らして、藍田は視線を伏せる。
「わたしは……、お前が言うような人間じゃない。冷たい人間だというのは、誰よりもわたし自身が自覚している。それが他人から疎んじられるのも」
「俺は疎んじていません」
堤から向けられる眼差しが熱を帯び始め、生意気でクールに見せている堤の内側が透けて見えているようだった。それに、手も熱くなっている。
大橋もそうだった。飄々として、不真面目とまではいかないが、どこか浮ついた印象があって要領のよさそうな男が、唐突に熱くなった。自分で自分の行動がわからないと言いながら藍田を抱き締めてきたとき、大橋の体は熱かったのだ。
胸の奥にひっそりと息づいていた種火がふっと勢いを増し、藍田を内から焦がし始める。熱さに喘ぐと、藍田は耐え切れなくなっていた。
「――男同士で抱き合うことに、なんの意味があるんだ。何を求めて、そうなるんだ」
ホテルの部屋での大橋との行為を思い返しながら、独り言のように呟く。
「抱き締められた、じゃなく、抱き合う、なんですね」
耳元に顔を寄せた堤に指摘され、うろたえた藍田は軽く身をよじる。
「お前はいい加減、離れろっ……」
「どうぞ。離れてください」
もう一発殴りたくなるような澄ました笑みを浮かべ、堤が顔を覗き込んでくる。
堤は強気というより、したたかだった。藍田がいつもの厳しさや冷然さを発揮できないとわかっているのだ。それはつまり、堤が藍田の弱みを確実に捉えたことを意味している。
認めたくないが、認めざるをえない。大橋の存在は、藍田の弱みだ。
「――……お前の目的はなんだ。会社を辞める前におもしろいことに首を突っ込むついでに、気に食わない上司に痛い目を見せたいとでも思っているのか? ……お前が、そんなにわかりやすくて、底の浅い男だとも思えないが」
「過大評価されてますね、俺は」
「ふざけるなっ」
きつい眼差しを向けると、藍田のその眼差しを堪能するように堤はわずかに目を細めた。
大橋もよわからない男だが、この男もよくわからない――。
「そんなに、露骨に怪しまなくても大丈夫ですよ。俺は会社中が敵に回ったとしても、藍田さんの味方であり、バリアーであり続けますから。あっ、お前なんて頼りにならない、なんて言わないでくださいね。さすがに傷つきますから」
調子よく話し続けていた堤が、突然、表情を一変させる。真剣な顔つきで、どこかすがりつくような雰囲気すら漂わせながら、再び藍田の体に両腕を回してきた。
「だから……」
きつく抱きすくめてくる腕の中で、藍田は体を強張らせたまま動けなかった。堤は本気だ。本気で、上司であり、同性である藍田の体を抱き締めているのだ。思わず藍田は弱音めいた言葉を洩らしていた。
「やめ、ろ……。わたしは今、脆くなっているんだ……」
なんとか後退ろうとしたが、すぐ背後は壁で、堤の腕の中から逃れることは不可能だった。最後の抵抗のように肩に手をかけると、息もかかるほどの距離から堤に顔を覗き込まれ、悟ったような口調でこう言われた。
「大橋さんのせいですね。あなたの気持ちが揺れる相手は、きっと大橋さんしかいない」
「……単なる部下でしかないお前に、何がわかる」
「俺、藍田さんの観察は得意なんですよ」
本当に得意げな堤の顔をまじまじと見つめた藍田は、ふっと息を吐き出す。
強引に心に入り込んでこようとする堤の存在を、拒絶すればいいのか受け止めればいいのか、もう藍田には判断がつかなかった。いつの間にか隣にいて、無遠慮に心の中にまで入り込み、とうとう腕の中に藍田を閉じ込めてしまった大橋とは、ある意味、似た主張の仕方かもしれない。見た目はまったく違うというのに。
「――五分後にはここを出るからな」
「一緒に昼飯を食う時間はありますね」
そして当然のように、堤は藍田の髪に顔を寄せてきた。藍田は胸苦しさを覚えながら、ぎこちなく体から力を抜く。
どうしてこんなことをするのか、堤に尋ねてはいけないと、藍田は自分に言い聞かせる。尋ねて返ってきた答えはきっと、藍田と大橋との間にあった出来事がなんであるのか、その答えすら導き出してしまいそうだ。
ダメだと思いながら、ベッドでのしかかってきた大橋の体の重みを思い出していた。藍田は、今の自分ではもう、堤の腕の中から抜け出すことは不可能だと痛感する。堤の行為に、大橋の行為が重なってしまう限り。
すかさず堤に指摘された。
「また、気持ちが揺れてますね」
堤は鋭すぎる。大橋も動物的直感の持ち主だが、おそらく今は、その大橋より直感が冴えているはずだ。
藍田は、覚悟を決めて堤の背に両腕を回していた。あの夜、大橋にしたように。
「あと四分だからな」
堤はもう何も言わず、藍田の髪に顔を埋めてくる。
きつく抱き締められて、息を詰めながら考えていた。大橋との間にあった行為を、堤がそのままなぞるのだとしたら、たった五分では足りないではないかと。
一晩中、男同士でベッドの上で体を寄せ合っていたと知ったら、堤はどんな顔をするだろうか。苦笑するか、軽蔑するか、それとも、当然の顔をしてやはり、同じ行為を実行する権利を求めるのだろうか。
否、と藍田は心の中で否定する。堤は鏡だ。大橋との間にあった出来事がいかに恥ずべきことか、それを映し出すのが堤の存在だ。藍田に自制心がある限り、堤というバリアーを通すことで大橋との関係は少しは冷静でいられる。多分。
あれこれ考えているうちに数分という時間はあっという間に過ぎる。正確に計っていたわけではないが、藍田は声を上げた。
「……堤、もう時間だ」
「まだ経ってませんよ」
「ウソを言うな」
熱が冷めたように、二人の間にはいつものような上司と部下としての空気が漂い始めていた。それを堤も感じているのか、抗うように藍田の背にかけた手に力が入る。
上手い宥め方が思いつかない藍田は、ため息混じりにこう言った。
「――わたしに昼食を食べさせない気か」
この言葉は、意外なほど効果があった。堤の腕からふっと力が抜け、少しの間を置いて体が離された。
堤は自嘲気味な笑みを浮かべる。
「俺の弱点ですね。藍田さんにそれを言われると、逆らえない」
「他のことでは逆らう気満々ということか」
「時と場合によっては」
ヒヤリとするようなことを言った堤に引き寄せられ、背を軽く叩かれる。埃を叩いてくれたらしい。
「急いで、ここも掃除しないといけませんね。――何があるかわかりませんから」
その言葉の意味を、藍田は深くは考えなかった。
「さっさと行くぞ」
冷然とした口調で言うと、寸前までの行為など忘れたように堤は黙って付き従った。
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