サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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逃げられない男1

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 昨日からずっと、藍田の体は熱に侵されていた。
 ただし病的なものではなく、自分でもどう表現していいのかわからない、曖昧な感覚だ。ただ、とにかく体の芯が熱を持っているようで、その熱が藍田を苛み、集中力を奪う。

「――ですから、その件でいくらわたしに抗議されても無駄ですと、何度も申し上げたはずですが」

 予想外の出張のおかげで、それでなくても藍田の仕事は溜まりに溜まり、昨日の昼前に会社に戻ってから、本来の日常業務の傍ら、うんざりするほど溜まったメールに目を通し、最優先の案件から返信していくか、部下に振り分けて指示を与える。
 事務的に数字や文字を読み、機械のように正確な判断を下す。藍田の仕事は、いうなればそれだけのことだ。そこに感情が入る余地はないし、思い悩む必要もない。それなのに、出張先の東京のホテルの出来事が頭から離れず、藍田の仕事の進捗に少なからず影響を与えていた。

 動じている自分に我慢できず、半ばムキになって仕事に取り組んでいると、今度は嫌がらせとしか思えない、東京支社からの電話の嵐だ。
 東京支社での藍田の行動すべてが、とにかく気に食わなかったらしい。機密情報を漏洩させた社員の処分だけでなく、開発部門全体の責任を問うという姿勢、事業室統廃合に関する説明会の内容も。とにかく、藍田が悪いといいたいのだ。
 都合の悪いことをすべて他人のせいにできれば、気は楽だろう。もっとも、一時的な現実逃避でしかないと、藍田の元に電話をかけてきた人間のうち、何人に自覚があるのか。そもそも、自覚があれば八つ当たりのような電話などしてこない。藍田は冷ややかにそう考える。
 電話の向こうから、感情的な怒声がまだ上がっている。

「少し声を抑えていただけませんか。聞こえていますから――」
『すみません、お電話を代わりました、兵頭です』

 突然、申し訳なさそうな声で兵頭が電話に出て、藍田は目を丸くする。寸前まで、耳が痛くなるような怒声を聞いていたので、兵頭の丁寧な口調に拍子抜けすらしてしまった。
 兵頭は、部下が失礼なことを言ったと何度も詫び、気にしていませんと儀礼的に藍田は応じる。
 受話器を耳に当てたまま、仕事を再開しようとパソコンのキーに指を置いたとき、気になることを言われた。

『……ところで、オフィス企画部の大橋部長補佐が東京支社のことで、何かしら上に働きかけたという話は本当なんですか? あの人は東京支社とも馴染み深い人なので、本当だとしたら、事業室の統廃合の話で、こちらの事情をわかってくれる方が間に入ってくれるのかと、今ちょっと、噂になっているものですから』

 話の内容そのものより、藍田は大橋の名のほうに過剰に反応してしまう。無意識のうちに向かいのオフィスに視線を向けていたが、ブラインドを下ろしているので外の景色を見ることはできない。藍田自身が下ろしたのだ。

「大橋さん……」

 姿勢を戻して呟くと、小さな声が聞こえたわけではないだろうが、何かに呼ばれたように堤がこちらを見た。藍田はさりげなくパソコンの画面に視線を落とす。

『噂が本当だとしたら、こちらの事情などを説明する窓口は、大橋部長補佐になっていただいたほうが、正直ありがたいと言いますか――』

 こちらが把握していないところで、事態が妙なことになっている。藍田は眉をひそめると、冷ややかな口調で告げた。

「噂の内容を教えていただけませんか。少なくともわたしには、該当するような話をまったく聞いた覚えがないので」

 えっ、と声を洩らして、兵頭が黙り込む。自分が余計なことを言ったことに気づいたらしい。

『あっ……、あくまで噂なので、こちらできちんと確認してから、またご連絡します』

 慌てたように電話を切られ、受話器を置いた藍田は結局立ち上がり、ブラインドの隙間から外を覗いていた。大橋のデスクは空席で、そのことに藍田は内心安堵して席に戻る。
 昨日、出張から戻ってきて以来、大橋とはまったく会話を交わしていないし、顔も合わせていない。込み入った話などできるはずもなく、大橋がなんのために東京支社に出向いたのか、その理由も知らされなかった。
 ただし出張の理由について大橋に告げなかったのは、藍田も同じだ。

 仕事上の不可侵がある――と堅苦しく言えばそうなるが、実際のところは、睡魔と疲労に教われていた藍田に、仕事のことを話せるだけの余裕がなかった。それは大橋も同じだったらしく、移動のタクシーの中でも、一緒に食事をとっている間でも、二人は必要最低限の言葉しか交わさなかった。そのくせ、ベッドの中では、たくさんのことを話した。
 ふいに大橋の体の感触を思い出し、激しい羞恥に襲われた藍田は反射的に立ち上がる。何事かと一斉に部下たちがこちらを見たが、数秒遅れて昼休みを告げる音楽が流れ、すぐに彼らの意識が藍田から離れる。一人を除いて。

「藍田さん、どうかしましたか?」

 さっそくデスクの前までやってきた堤に声をかけられる。藍田はイスに座わり直して仕事を再開しようとしたが、完全に集中力が切れたことを感じて諦めた。

「藍田さん」

 いつになくきつい口調で呼ばれ、仕方なく藍田は顔を上げる。

「……些細なことで、飛んでこなくていい。最近は体調もいいから、心配しなくても卒倒したりしない」
「出張の疲れが取れたようにも見えませんけど」

 藍田は軽く息を吐くと、電話を指さす。

「東京支社からの電話が鬱陶しいからだ。わたしは向こうの人間の精神安定剤じゃないぞ。好き勝手言って、すっきりする人間はいいだろうが、わたしは溜め込む一方だ」
「向こうで、台風並みの暴風雨を巻き起こしたんじゃないんですか」

 意味深に笑っている堤を一瞥して、藍田は手早くマウスを操作する。処理したトラブルに関しては、もちろん部下にも告げていない。堤のように鋭い社員でない限り、出張の理由など深く考えたりはしないだろう。

「――他に用はないのか、堤」

 一方的に会話を打ち切る藍田に慣れている堤は、気を悪くしたふうもなく、にっこり笑って切り出した。

「昼、食べに行きましょう」

 藍田はデスクに頬杖をつくと、呆れながら呟いた。

「なぜそう、人の食生活に干渉したがる」
「藍田さんがいかにも健康的な人なら、干渉なんてしませんよ」
「……最近は気をつかって、きちんと食べている――とも言えないな」

 空港で大橋と交わした会話を思い出し、つい苦い表情となる。誰かから食事を気遣われるというのも、三十歳を過ぎて情けない話だった。
 藍田は視線を、ブラインドを下ろした窓へと向ける。大橋のことを考えた途端、体に残る感触がまた蘇ってしまった。種火が灯るように、胸の奥に小さな疼きが走った。この瞬間藍田は、一昨日から自分を苛み続けている『熱』の正体を理解する。
 奥歯を噛み締めて、全身に広がろうとする疼きを堪えると、努めて冷静な声で堤に言った。

「昼食なら一人で行ってくれ。わたしは先に済ませておくことがある」

 堤は何か言いたげな顔をしたが、素直に受け入れてオフィスを出ていった。
 人気が乏しくなったオフィス内を見回した藍田は、デスクの引き出しを開け、中から鍵を取り出す。昨日、堤から返却されてきた資料倉庫の鍵だ。
 堤が片付けの段取りと、作業担当の社員を何人か決め、必要に応じて藍田が、荷物を運び出す人間に鍵を手渡すことになったのだ。資料倉庫の出入りは必ずチェックされるので、別に堤が鍵を持っていたところで不都合はないのだが、堤は几帳面だった。
 その几帳面さのおかげで上司である藍田は、社内で数少ない、人目を気にしなくて済むスペースの存在に思い当たってしまったのは、なかなか皮肉かもしれない。



 隠れ場所としては、資料倉庫は最適としかいいようがなかった。
 短期間のうちに片付けられはしたが、荷物が多いのは相変わらずの空間は雑多で、だからこそ身を隠せて落ち着く。何より、静かだ。
 昼休みに資料階に下りている人間は、今のところ藍田一人のようだった。おかげで資料倉庫に入るまでの間、誰かとすれ違う心配すらしなくてよかった。

 積み重ねられた段ボールの一つに腰掛けた藍田は、天井を見上げて深く息を吐き出すと、自分の体を両腕で抱き締めるようにして身震いする。一人になって気が抜けてしまうと、胸の疼きが一際強くなったようだった。

「あの男のせいだっ――……」

 忌々しく思いながら、藍田は小さく毒づく。
 必要があるのかどうか知らないが、資料倉庫は防音加工もしっかりなされている。小声で呟くどころか、多少大声を張り上げ、壁を蹴りつけたところで外に洩れることはない。もちろん、藍田はそんな野蛮なことをするつもりはない。深いため息を洩らすだけに留めたが、そのため息は自分でもうろたえるほど悩ましい響きを帯びていた。
 時間が経てば経つほど、ホテルの部屋での自分たちは異常だったのだと痛感する。何を思って男同士で抱き合ってしまったのかと考えるが、結論は出せない。

 抱き寄せてきた大橋もおかしかったが、その腕の中から抜け出さないだけでなく、自ら大橋の体に腕を回した藍田自身が、何よりおかしかったのだろう。普段であれば――否、どんなに取り乱した状況であっても、あんなことはありえないのだ。だが現実は、藍田は大橋を拒めなかったし、受け入れた。

 大橋と同じベッドで一夜を明かしたあとの自分の行動を思い返し、このまま消え入りたくなる。
 藍田は大橋よりも先に目を覚まし、自分がいまだに熱い体に寄り添っていることを知ってうろたえた。だが、ベッドから抜け出すことも、大橋を叩き起こすこともできなかった。
 では、何をしたかというと、眠っているふりをしたのだ。
 藍田はずっと、興奮している大橋の熱い体を感じていた。薄い浴衣を通してなので、体の変化はある程度感じ取ることができたのだ。男である藍田の体を抱き締めながら大橋は、肉体的な反応を示していた。そのことに不思議なほど嫌悪感は湧かなかった。むしろ藍田は――。

 急にドアがノックされ、飛び上がりそうなほど驚く。心地よい夢から引きずり出されたような苦痛も感じていた。
 仕方なくドアの前まで歩み寄ると、覚悟を決めてドアノブに手をかける。目の前に大橋が立っていたとして、冷静でいられる自信はなかった。まだ、二人きりで会える状態ではない。
 思考がどんどんまとまらなくなってきて、勢いのみでドアを開けていた。

「――……どうして……」

 藍田の前に立っていたのは大橋ではなく、堤だった。
 一度は外に出たのか、堤のこめかみから汗が伝い落ちており、わずかに息も弾んでいる。オフィスで別れたときは笑っていた堤は、今は真剣な表情をして藍田を見つめていた。眼差しの真摯さは怖いほどだ。

「……お前、昼食を食べに行ったんじゃないのか」
「出かけはしたんですけど、藍田さんの様子がどうしても気になって、引き返してきたんです。でもオフィスにはあなたの姿がなくて――多分、ここだと思ったんです」

 説明しながら堤は、自然な動作で資料倉庫に入ってきて、後ろ手でドアを閉めてしまう。これでもう鍵を使わない限り、誰かが外からドアを開けることはできない。
 表面上は落ち着いた表情を取り繕っているが、内心では激しく動揺している藍田は次の言葉が出てこず、突然やってきた部下をひたすら見つめる。一方の堤のほうは、悠然とした態度で資料倉庫内を軽く見回し、笑いかけてきた。

「ここ、少しはマシになったと思いませんか?」
「……あ、あ」
「また大橋さんに踏み込まれるのは嫌ですからね。必死に整理して片付けたんです。それに掃除も。先日、資料倉庫から戻ってきた藍田さんが、埃だらけになっていたのに気づいたものですから。とはいっても、まだ半分しか済んでませんが」
 ここまで言ってから、堤が段ボールの一つを示す。
「座りませんか?」
「いや……、もう、出るつもりだから……」

 ここが一人で占有できる空間でなくなった途端、藍田が留まり続ける理由はなくなる。
 堤の肩に手を置き、一緒に資料倉庫を出るよう促したが、すかさず堤の片手が重ねられ、驚いた藍田は足を止めた。堤の手の感触は、オフィスで震える手をずっと握られていたときのことを蘇らせる。

「――もう少し、ここにいませんか」

 そう声をかけられ、藍田はぎこちなく堤に視線を向ける。人当たりのいい笑みを見せている堤だが、目は少しも笑っていない。
 食い入るように見つめられて息苦しさを覚えた藍田は、堤の手を振り払って出て行く気力が失せていくのを感じ、仕方なく頷いた。重ねられた手は、堤に握られている弱みのようなものだと思うと、無碍にもできない。
 さきほどと同じ場所に腰掛けると、わざわざ隣に段ボールを移動させて堤も座った。

「俺も目をつけてたんですよ」

 突然堤に言われ、藍田は微かに肩を震わせる。

「えっ……」
「ここですよ。ちょっとぼんやりするには、ちょうどいい。人はいないし、静かだ」
「上司を前にして、さぼりを白状するのか」
「始業時間前や、昼休みの話です」

 ここで一度会話が途切れる。藍田は、堤が何を切り出してくるのかと身構えずにはいられなかった。

「――……俺、ずっと考えているんですよ」
「何を」
「あの夜、あなたと大橋さんの間に何があったのか」
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