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閑話 おかしくなった男

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 バスルームのドアを閉めた藍田は、しっかり鍵をかけてから息を吐き出す。あくまで自然な態度を、と心がけていたが、成功したとは思えない。それでもなんとかやり過ごせたのは、大橋も同じ心境だったからだろう。
 これから同じ部屋で夜を過ごすというのに、一昨日のことを蒸し返したところで、益があるとは思えない。何より今の藍田には、大橋と論議できる余力はない。
 すでに、まっすぐ歩くのも難しい状態だ。
 とにかく、眠すぎる。

 浴衣を置くと、さっそく棚からバスタオルとタオルを下ろし、入浴の準備をする。本当は湯を溜めてしっかり浸かりたいところだが、大橋を待たせている手前、そんなにゆっくりもできない。
 ワイシャツのボタンに手をかけようとしたところで藍田は、壁にかかった大きな鏡に視線を止める。力の抜けた自分の顔を目にして、思わず視線を逸らしていた。こんな顔を大橋にずっと晒していたのかと思うと、羞恥を覚えた。

 服を脱いでバスタブに入り、カーテンを閉めたところで、バスルームのドアの向こうで物音がする。どうやら大橋が出かけたらしい。
 やっと肩から力を抜いた藍田は、勢いよくコックを捻り、温めに調節した湯を頭から浴びる。
 目を閉じて、顔に当たるの湯の感触を感じていると、心地よさに意識が遠のきそうになる。とことん体と精神を酷使し続けたので、そろそろ限界かもしれない。

 手荒く髪と体を洗い、泡を流し落としてしまうと、カーテンを開いてさっさとバスタブを出る。
 バスタオルを手にしたところで藍田は動きを止め、ドアの向こうの気配をうかがっていた。大橋が戻ってきたのかどうか、確かめようとしたのだ。だが、テレビの音がするばかりで、それ以外の音を聞くことはできない。
 まだ戻っていないのだろうかと思い、藍田は少し逡巡してから、バスタブに湯を張り始める。
 どんなに遅く帰ってこようが、疲れていようが、しっかり湯に浸からないと落ち着かないのだ。出張先のホテルでもそれは同じで、さすがに大橋と同宿していてそれもどうかと思ったが、気が変わった。少しし長湯になったぐらいであの男も文句は言わないだろう。
 文句を言わせる気もないが――。

 まだ湯が溜まっていないバスタブに身を沈めた藍田は、足元にかかるシャワーの感触を堪能しながら、天井を見上げる。
 てのひらで首や肩を揉み、強張りを解こうとするが、なかなか普段のようにはいかない。
 それでも、溜まった湯に肩まで浸かってしまうと、ほっとする。それが、よくなかった。
 限界まで耐えていた眠気が一気に押し寄せてきて、藍田の意識を包み込んでしまう。早く上がらなければと頭の片隅では思うものの、肝心の手足が動かない。
 結局藍田は、バスタブの縁に頭を預けて目を閉じていた。少しだけだと思いながら。



 遠くから自分を呼ぶ声を聞いた気がして、温く心地いい膜に包まれていた藍田の意識が揺さぶられる。
 うるさい――はずなのに、妙に耳に馴染む声が、何度も藍田を呼んでいた。

「藍田っ、返事しろっ」

 藍田はゆっくり目を開き、小さく吐息を洩らす。やっと、現状が認識できたのだ。家では珍しくもないのだが、湯に浸かったまま眠り込んでいたようだ。湯が冷めかけている。
 そして、ドアの向こうから何度も藍田を呼ぶのは、大橋だ。
 戻ってきたのか、とぼんやりと藍田が思ったとき、また大橋で言った。

「藍田、聞こえてるんなら返事しろ。慌てなくていいとは言ったが、お前、どれだけ入ってる気だ。それとも、のぼせて動けないのか?」

 ドアを壊しそうな勢いでノックされ、反射的に立ち上がろうとしたが、自覚がないまま動揺していたらしく、足が滑ってよろめいた藍田は、大きな水音を立てて座り込む。
 しっかりその音が聞こえたらしく、すかさず大橋が反応した。

「どうしたっ、なんかあったのか?」
「……うるさいっ……」

 小声で応じた藍田の顔が、どんどん熱くなっていく。湯あたりではないだろう。その証拠に、大橋に声をかけられると、顔どころか体まで熱くなってくるのだ。
 なんとかバスタブから出た藍田は湯を抜きながら、少しの間、その場に立ち尽くす。次に何をすればいいのか咄嗟にわからなくなるほど、うろたえていた。
 ハッとして、やっとバスタオルを取り上げて髪を拭き始めると、ドアの向こうで大橋が、いままで聞いたことのないような声で言った。

「――もしかして、俺がいるから、出たくないのか? やっぱり俺と一緒の部屋じゃ、怖くて仕方ない……か?」
「なっ……」

 何を言い出すのかと、大橋にわかるはずもないのに藍田はドアを睨みつけていた。同時に、居たたまれないような激しい羞恥に襲われる。
 大橋がなんのことを言っているのかは、明白だ。
 ドアから背けた視線を向けた先では、濡れた体の藍田自身が映っており、大橋に見られたわけでもないのに鏡の前から飛び退く。
 心臓が痛いほど速い鼓動を打っていた。そこに、湯に浸かって眠っていたせいもあってか、頭が今になってふらついてくる。
 その間も、大橋はドアの向こうから話しかけてきた。

「そうだよな、当然だ。一緒の部屋で安心して寝られないよな。……わかった。俺はやっぱり、別の部屋を取って、そこで寝る。帰りも、俺は新幹線にする。お前が顔を見たくないっていうなら、仕方ないからな。ただ、仕事は仕事で割り切ってくれ。お前の胃にストレスで負担をかけて悪いとは思うが、これだけは俺の一存ではどうにもならん」

 バカか、あの男は――。
 藍田は腹立たしく思いながら心の中で大橋を罵倒する。大橋の言い方はまるで、藍田が大橋を意識していると言っているようなものだ。
 大橋に自意識過剰のように思われているのも腹が立つが、何より気に食わないのは、まるで藍田が、大橋をこの部屋から追い出そうとしているようだと思えたのだ。

「――なんで、一人で熱くなってるんだ……」

 困惑しながら洩らした藍田は、バスタオルを肩からかけて、ドアの前に立つ。おずおずとてのひらをドアに押し当てていた。そうすると、大橋の気配が感じられる気がした。

「……お前が謝れというなら、土下座でもなんでもする。とにかく、出てきてくれ。一応、お前が倒れてないと確認しておかないと、俺も出ていくに出ていけんからな」

 優しいとも切ないとも取れる大橋の声に、ズキリと胸が痛んだ。藍田はドアに押し当てた手を引くと、慌てて体を拭いて着替えを取り上げる。
 髪を整えたところで、このままドアを開けてもよかったのだが、藍田はバスタブの縁に腰掛けていた。
 もう少しだけ、大橋の必死な声を聞いていたいという奇妙な感情が湧き起こったのだ。
大橋が、藍田のためだけに声と言葉を振り絞っているという事実が、胸の奥でくすぐったい感覚を生んでもいた。
 ただ、藍田がそんな感覚に浸っていたられたのは、わずかな間だった。

「藍田、お前本当に、意識があるのか? 返事がないなら、ホテルの人間にドアを開けさせるぞ。手遅れになったら大事だから――」

 藍田の反応のなさに業を煮やしたらしく、大橋が物騒なことを言い始める。さすがに切羽詰ったものを感じ、藍田が腰を浮かせようとしたそのとき、大橋は――壊れた。

「頼むから藍田、出てきてくれっ。何もしないっ。もう、お前に変なことはしないから、とにかく顔だけでも出してくれっ」

 突然、藍田の脳裏に浮かんだのは、大橋に強く抱き締められた感触だった。背筋に疼きにも似た感覚が駆け抜け、ゾクリと身震いする。

「この男は、何、言って……」

 そう洩らした藍田の声は、微かに震えを帯びていた。怒りからではなく、とにかくただ、恥ずかしかったのだ。
 大橋の必死な反応をもっと感じたいと思った自分に対する罰かもしれない。
 そんなことを考えながら立ち上がった藍田は、狭いユニットバスの中を歩き回り、なんとか落ち着こうと努力する。
 その努力すら、『壊れた男』はぶち壊してくれた。

「藍田っ、本当なんだ。変なことはしない。……お前を抱き締めるようなことは――」

 ここで、藍田の羞恥心は限界を迎えた。
 バスルームの鍵を解くと、ゆっくりとドアを開ける。髪を乱し、驚いたような顔をした大橋が目の前に立っていた。
 それなりの役職に就いて、見栄えもいい三十半ばの男が、やはり同じような役職に就き、年齢もほぼ同じ男に対して、あんな恥知らずな言葉を喚き続けていたのだ。真摯に。
 こう思った途端、藍田は自分も壊れたのではないかと危惧していた。

 嬉しい――とは素直に認めがたい。だが、大橋という存在を強く身近に感じて、この男の側にいることに安堵のような感情を覚えたのだ。
 理解を超えた自分の感情の変化に、藍田の頭は真っ白に染まりかける。咄嗟に出た言葉は、これだった。

「――あんたは頭がおかしくなったのか」

 おかしくなったのは大橋だけではない。きっと自分もだ。
 このことだけは、藍田はやけに冷静に認めていた。今すぐにでも、またバスルームに閉じこもりたい羞恥心を押し殺しながら。

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