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震えない男2

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 手を掴んでいた大橋の力が緩む。このとき逃げ出そうと思えばできたのだが、なぜだかできなかった。それに、すぐにまた大橋に手を掴まれる。ただ、今度は少し様子が違った。
 藍田のてのひらに、大橋のてのひらが重なってきて、まるでそうすることが当然であるかのように指を絡めてきたのだ。そして手を引かれる。

「何、を……」
「今は震えてないな」

 そう呟いた大橋のもう片方の手が伸ばされ、藍田の首の後ろにかかる。あっと思ったときには、ゆっくりと引き寄せられていた。藍田は逆らうこともできず、大橋の胸の上に上体を預けた格好となる。
 浴衣の薄い布を通して、大橋の高い体温だけでなく、筋肉質な硬い体を感じた。それは大橋も同じらしく、素直に驚いた様子で目を見開いていた。自分で自分の行動に驚いているようにも見えるが、他人の心理を推し量るどころではない。藍田の頭の中は真っ白になりかけている。
 首の後ろにかかっていた手はいつの間にか背にかかり、しっかりと抱き寄せられる。

「……大橋、さん……」
「お前が側にいると、自分で自分がわからなくなる。どうして、こういうことをしているのか――いや、違うな。したいから、してるんだ。ただ、その理由がわからん」
「あんた、ふざけてるのかっ」

 なんとか頭だけは上げられた藍田は大橋を睨みつけるが、食い入るように見つめてくる大橋の眼差しを直視できず、すぐに視線を伏せる。

「離してくれ……。わたしは、寝たいんだ」
「俺もだ。さすがに昨日、今日と疲れた。まともに寝てないっていうなら、俺も同じだ」
「だったら――」
「寝たいという欲求と同じぐらい……いや、それ以上に、お前にこうしたいんだ。理由は聞くな。今言ったように、わからん」

 この男はふざけているのだろうかと本気で思ってしまうが、背にかかる手の感触は力強く、何より、興奮を物語るように熱い。その熱に、藍田は感化されていく。
 握られた手をわずかに動かすと、しっかり力を込められて応じられた。離さない、と無言で示されたようで、少しだけ大橋が怖くなった。ただ、最初に抱き締められたような混乱は訪れない。
 少なくとも大橋が、危害を加えてこないということは、はっきりしているのだ。

 抗っても無駄だと悟った藍田は、ベッドについた片手から力を抜き、大橋とより体を密着させる。
 体の奥がじわりと熱くなってきたが、そんな変化を誤魔化すように必死に言葉を紡いでいた。

「……わからないというなら、わたしだって同じだ。あんたという男が、わからない。わたしをからかうにしても、性質が悪すぎる。冗談にしても、好きこのんで男の体なんて触りたいものじゃないだろう。こんな冗談は、子供がやるものだ。それに、何もわたしを相手にしなくても――」
「お前は、焦ると言葉数が多くなるな。普段は余計なことなんて言わないから、よくしゃべるお前を見ていると、新鮮というか、おもしろいというか」

 藍田は大橋を睨みつける。

「やはり、わたしをからかっているんだな」
「違うっ。からかうつもりで、こんなことできるか。こんな、リスクの大きいこと……」

 一応大橋も、藍田を相手にこんな行為に出ることのリスクは自覚しているらしい。
 それでも大橋がやめないのは、なぜなのか。自分が体を離せないのは、なぜなのか。
 藍田はとうとう、大橋の肩の辺りに顔を伏せる。自分のものではない汗の匂いを嗅ぎ取り、胸の奥が熱くなるだけではなく、心臓の鼓動が大きく、速くなる。これは確実に大橋にも伝わっているだろう。なぜなら藍田が、大橋の鼓動を感じているからだ。

「――震えないな、今日は」

 ふいに大橋に囁かれ、ドキリとする。髪に大橋が顔を寄せているのを感じたのだ。それだけ互いの距離が違いのだと、体を密着させていながら今になって藍田は実感していた。

「だったら、もう手は握ってなくていいか」

 独り言のように洩らした大橋が握っていた手を離す。ほっとしたと同時に藍田は、手を包み込んでいたぬくもりが急になくなったことに寂しさを覚えた。
 そんな自分の姿に気づき、激しい羞恥に襲われる。慌てて体を起こそうとしたが、先に行動を起こしたのは大橋だった。
 もう片方の手も背にかかり、数秒の間を置いて両腕でしっかり抱き締められる。藍田の頭に血がのぼり、めまいに襲われていた。

「大橋、さん……」
「理由を聞くなよ。ただ、とにかく、お前にこうしたいんだ」
「……あんたは、勝手だ」

 髪に大橋の笑った息遣いがかかる。

「俺の本性を知った奴は、みんなそう言う。最近なら、元カミさんだな、二番目の。と、いっても、二年前なんだが。俺は自分勝手な男なんだと。他人を自分のペースに巻き込んで、自分本意に物事を進める。巻き込まれるほうの気持ちを全然考えてない、だと」
「当たっているじゃないか」
「だから愛想をつかされて、二度の離婚だ。二番目のカミさんは、よっぽど俺と暮らしていて疲れたんだろうな。離婚してから、一度も顔を合わせてない」
「なら、一番目の奥さんは?」

 思わず口にしてから、しまったと思った。他人の個人的事情に興味を持つなど、いままでの藍田ならありえないことだ。もしかするとこれが、大橋のペースに巻き込まれている証拠かもしれない。

「いや、別に答えたくないなら――……」
「一番目のカミさんとは、今でもたまに会っている。どうやら俺のことを、男友達とでも思っているらしいな。顔を合わせるたびに、つき合っている男の話を聞かされて、ついでにメシも奢らされている」

 言いながら大橋が体を壁のほうに寄せ、ベッドにわずかなスペースを作る。促されるまま藍田は大橋と同じベッドに横になり、抱え込むようにすかさず両腕の中に捕らえられていた。さすがにシングルベッドに大人の男二人が並んで横になると、窮屈だ。

 この状況を冷静に考えてはいけないと藍田は思う。冷静になった途端、大橋を突き飛ばしてベッドから逃げ出してしまい、今度こそバスルームに篭城してしまうだろう。
 本来はそうすべきなのだろうが、大橋の腕や胸の感触は、手放すにはあまりに心地よかった。藍田がいままで味わったことのない感触だ。
 大橋の元妻たちが味わったであろうものを、男の藍田が味わっているのも妙な話だが。
 一度は遠のきかけた眠気が、再び押し寄せてくる。藍田は額を、大橋の肩に押し当てた。

「……もう再婚はしないのか」
「俺は他人と一緒に暮らすのは向いてないと、二度の離婚で痛感した。もったいないな。モテモテで生活力もある俺なのに」
「自分で言うな」

 くくっと声を洩らして大橋が笑い、その息遣いが今度は耳に直接触れる。
 耳にかかる熱い息遣いや、汗ばむほどきつく抱き締めてくる腕の感触。それだけではなく、薄い浴衣を通して大橋のさまざまな感触が伝わってくる。
 自分の感触は、大橋にどう伝わっているのだろうかと考えたとき、藍田は無意識のうちに腕を動かし、おずおずと大橋の背に回していた。
 しがみつきやすいようにという配慮なのか、大橋が大きく動いて体の位置を変える。
 藍田の体はベッドに押さえつけられ、その真上に大橋が覆い被さってきて、きつく抱き締められているという状況になっていた。

「あっ……」

 あってはならない格好に、藍田の頭はどうにかなりそうになる。
 明らかに、大橋の体はさきほどよりも熱くなっていた。眠りから完全に覚醒したらしく、張り詰めた筋肉の感触すら生々しい。

「もっ……、大橋さん、離してくれ――」

 抱擁に溺れそうな危惧を覚え、藍田は切羽詰った声を上げる。しかし大橋は動かないどころか、完全に藍田を押さえ込んでしまう。体を起こそうにも、頭すら上げられない。

「さっきの話の続きだ」

 急に大橋に言われ、藍田は軽く混乱する。もう話を聞く余裕すらなくなりかけていた。

「な、に……?」
「元カミさんの話だ」
「そんな話を聞かされても、わたしには関係ないだろう」
「――お前が嫌がった香水の正体だ」

 大橋が話すたびに、熱い息遣いが耳に触れ、そのたびに背筋にむず痒い感覚が駆け抜けていく。最初はなんとか耐えていたが、大橋がほとんど耳に唇を押し当てた状態で話し始めると、身を捩りたくなる。
 わざとやっているのではないかと思いながら、藍田は大橋の浴衣を握り締めた。

「一昨日の夜は、その元カミさんに呼び出されてメシを食ってた。香水の匂いは、エレベーターに乗ったときにでも移ったんだろう。俺は今のところ、元カミさんにでも相手してもらわないと、女っ気がないからな」
「……別に、あんたが誰の移り香を残していようが、わたしには関係ない」
「一応、だ。お前はどうも、俺を誤解している。どうせ、職場の女性社員に手を出しまくっているとでも思っているんだろう」

 俺は誠実な男なんだ、と付け加えられ、つい藍田は唇に笑みを浮かべる。どんな顔をして言っているのかと想像してしまったのだ。
 いつもの飄々とした表情なのか、それとも真剣な表情で弁解しているのか――。
 わたしには関係なのに。そう思いながらも藍田は、不快ではなかった。

 自制が利かないほど気持ちが緩んでいき、大橋の存在が藍田の中に入り込んでくる。もう、大橋が与えてくる感触を否定する気持ちすら萎えてしまった。この状況すら、受け入れてしまう。
 やはり大橋という男は怖いと思いながら、藍田は両腕を広い背に回してしっかりとしがみついていた。大橋はなぜか軽く身震いして、腕に力を込めてくる。

「バカ力。わたしの骨を折る気か」
「ああ……。悪い」

 ベッドの上で抱き合い、腕で相手の体をまさぐり、最適なポジションを見つける。藍田は大橋の腰に両腕を回して落ち着いたが、大橋は藍田の腰に片手を添え、もう片方の手で頭を抱き寄せてきた。
 ぼんやりと照らされる天井を見上げながら、藍田はそっと目を細めて吐息を洩らす。悔しいが、ほっとする。疲れた体には、大橋の抱擁は強烈なほど甘く、心地よかった。
 すぐに意識は揺らぎ、藍田は大橋の肩に額を押し当てる。

「……いつまでこうしているつもりだ」

 藍田の言葉に、大橋が笑った気配がした。

「気にせず寝ろよ」
「でかい男に覆い被さられたままか?」
「重くないだろう。体は支えてあるんだから」

 その姿勢だと、大橋がつらい。
 ただそれだけのことが、気恥ずかしくて言えなかった。大橋を気遣う自分というものが、藍田の中ではありえなかったのだ。
 これまでは仕事上のつき合いだけで、ふてぶてしくて図々しい、そのくせ人望がある大橋が疎ましくて、苦手だという認識しか必要なかった。それが、プロジェクトを任されてからどんどん関係は変化していき、一昨日の夜の出来事で、認識は一変した。
 結果として今、ベッドの上で大橋の腕の中にいて、心地よさに浸っている。
 この行動の意味を、大橋は囁くような声で言った。

「お前は、自分を睡眠不足にした責任を取れと言った。だから俺は、こうしていてやる」
「あんたの言っていることは……よくわからない」
「いいから寝ろってことだ。俺は紳士だから、安心していいぞ」

 バカ、と口中で呟いた藍田は、大橋の高い体温を感じながらゆっくりと目を閉じた。

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