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震えない男1
しおりを挟むふっと目が覚めたとき、藍田は自分がどこで寝ているのかわからなかった。半ば呆然として、薄ぼんやりと照らされる天井を見上げる。記憶にない天井だった。
ひどく喉が渇いており、小さく咳き込む。やけに空気が乾燥していると思ってようやく、ここがホテルの部屋であることを思い出した。
日帰り出張だったはずが、台風の直撃を受けて動けなくなったのだ。
そして――。
前髪に指を差し込み、藍田は隣のベッドに視線を向ける。
「……なんであんたが、一緒の部屋で寝ているんだ……」
現状が把握できないから出た言葉ではなく、把握できているからこそ、出た言葉だった。いままでの藍田なら、何があろうが大橋を拒んでいただろうが、結局こうして一緒の部屋で寝ている。
藍田には、この状況を許した自分自身が何より不思議だ。
布団もかけず、浴衣も乱れ放題の大橋は、ベッドに大の字で眠っている。体格がいい男なので、なんだか窮屈そうに見える。そもそも手足が日本人離れして長いせいだろう。大橋は、動作の一つ一つが様になるのだ。
絞られたライトの明かりに照らされる大橋の寝姿を眺めていた藍田だが、もう一度咳き込んでから体を起こす。ナイトテーブルの時計に目をやると、深夜といえる時間だった。
バスルームを使ってすぐにベッドに潜り込み、そのまま朝まで熟睡しそうな睡魔に襲われたのだが、今はやけに意識がはっきりしている。ただ、体はだるい。
なんとかベッドの端に腰掛けると、ナイトテーブルの上に置いたままになっているペットボトルに手を伸ばす。咳き込む理由は、部屋の空気が乾燥しているからだ。
すっかり温くなったお茶を飲み干したが、喉の渇きを潤すには足りない。藍田は足先で探ってスリッパを履き、仕方なく立ち上がる。
部屋に備えつけられた冷蔵庫を開けると、そこに入っていたミネラルウォーターのボトルを取り出した。
藍田は冷たい水を一口飲んで、ほっと息を吐き出す。熱のこもった体の内から伝わってくる冷たさが心地よかった。
濡れたまま横になってしまったため、寝乱れ放題になった髪を掻き上げながら、厚いカーテンの引かれた窓に歩み寄る。大橋の声と、強い風の音を聞きながら眠った記憶があった。
大橋は隣のベッドで熟睡しているが、台風のほうはどうなったのか気になる。
カーテンをわずかに開いて藍田は窓の外を見る。周辺のビルにはまだちらほらと電気がついており、車や人の姿もある。静かな夜の光景からして、どうやら台風は通り過ぎたらしい。路上は濡れているが、雨も止んでいた。朝には安心して、ここを発てそうだ。
藍田はベッドに戻って腰掛けると、ゆっくりと水を飲む。一眠りしたため、目を開けているのもつらかった強烈な眠気はどこかに行き、意識はしっかりしている。
おかげで、眠りにつく寸前、大橋が真剣な口調で何か話していたことを思い出せた。ただし、内容はまったく覚えていない。
話す大橋の声が、耳に心地よかったことしか――。
再び体が熱くなり、慌ててペットボトルに口をつけようとした藍田は、ここであることに気づいた。
室温が、高いのだ。藍田がベッドに入ったときは肌寒いぐらいだったはずなのに、今はその藍田ですら少し暑く感じるほどだ。
結局、再び立ち上がると、空調の設定温度を確認する。思ったとおり、高めの設定になっていた。これでは、切っていても大差ない。
設定温度を少し下げた藍田は、ハッとして大橋に視線を向ける。眠る前に藍田自身が、空調の温度が低いと指摘したことを思い出したのだ。
「……適温ってことを知らないのか、この男は。なんでも、やることが極端なんだ」
せめて腹を冷やさないように布団をかけてやろうと思い、藍田は大橋のベッドの傍らに立ったが、子供のような寝相をした男につい見入ってしまう。
単純そうに見えて、中身はその通りではない大橋が、何を思って突拍子もない行動に出たのか考えていた。
大橋との間にあった出来事に拘泥しない、と言った藍田だが、本当は自分に言い聞かせたようなものだった。いつまでもこだわってしまいそうな予感があるのだ。
すぐには自分のベッドに戻る気がせず、藍田は、熟睡している大橋の傍らにそっと腰を下ろしていた。
同じ部屋で大橋と寝るのは、二度目だ。一度目は大橋の部屋だった。あのときと状況は似ている。
多少無理をすれば、大橋と同じ部屋で寝る必要はなかったのだ。前回といい、今回といい、大橋と同じ部屋で寝ることを選んだのは藍田だ。
大橋のことは苦手だが、決して嫌ってはいない――。
ぼんやりとそんなことを考えながら大橋の寝顔を眺めていて、思わず片手を伸ばす。
「寝る前にも汗だくだったな、そういえば……」
頬に触れると、よほど寝苦しかったらしく、大橋の肌は汗で濡れていた。そんなに暑かったのなら、遠慮なく空調の温度を下げればよかったのにと思ったが、そうしないのが大橋らしさなのだろう。
この男はお節介だが、言い換えれば、優しいのだ。誰に対しても。だから、藍田のように冷たく、面白味もない人間に対しても平気で接してくる。
汗のしずくが伝い落ちている首筋にまで指先を這わせたとき、なんの前触れもなく大橋の瞼がゆっくりと開いた。
突然のことに、さすがの藍田も驚いて咄嗟に身動きが取れない。同じぐらい、今の自分の行動に驚いていた。
「……藍田?」
低く掠れた声を発した大橋が、眠そうに何度も目を瞬きながら見つめてくる。まだ、状況が把握できていないようだ。
藍田の心臓の鼓動は、胸が痛いほど速くなっていた。頭からスウッと血の気が引いていき、何も考えられなくなりそうだ。そんな自分を懸命に抑えながら、なんとか声を出すことができた。
「あんたの寝汗がひどいから、気になっただけだ。暑ければ、空調の温度を下げればよかったのに」
「あー、そうか……。お前の適温がわからないから、とにかく上げておいたんだ」
とぼけた口調で応じる大橋にほっとしながら、藍田はさりげなく手を引こうとしたが、寝起きとは思えない素早さで大橋にその手を掴まれた。
何がしたいのか知らないが、大橋は黙ったまま、じっと藍田を見上げてくる。寝ている相手に勝手に触れていたという分の悪さもあり、乱暴に手を振り払うこともできない藍田は、その視線を受け止めるしかない。
夜中、ベッドに横になっている男に手を取られたまま見つめ合っているというのも、奇妙な図だった。奇妙すぎて冗談にすらなりそうだが、あいにく藍田は生真面目で融通の利かない性格で、こんなときに限って大橋も、真剣な表情をしていた。
静かな室内に緊張感が漂い、藍田は肌で感じていた。今の大橋の様子は、一昨日、自分を抱き締めてきたときに見せていたものと同じだと。
危険だと頭ではわかっているのに体が動かない。
沈黙したまま見つめ合い、そのうえ手まで握られたままでいることに息苦しさを覚え、藍田は焦る。対照的に大橋は、落ち着いた様子だった。普段とはまるで立場が入れ替わったようだ。
「――堤に言ったのか?」
藍田が冷静さを失うのを待っていたようなタイミングで、大橋が思いがけない問いかけをしてくる。藍田は意味がわからず、眉をひそめた。
「なんのことだ」
「俺と入れ違いに、堤が来ただろう」
大橋の問いかけには、大事な部分が省略されている。やっと、一昨日の夜のオフィスでのことを問われているのだとわかり、知らず知らずのうちに藍田の体は熱くなっていた。
「なんで今……、そんなことを聞く必要があるんだ。それに、『言った』というのは、なんのこと――」
言葉の途中で、大橋が何を聞きたいのか察した。すると今度は、スッと全身の血が冷えていく。
「……自分のしたことが、他人に広まっていくのが怖いのか?」
このとき藍田の中で、猛烈な怒りが込み上げてきた。ただ、怒りの理由はわからない。一方の大橋は、なぜか驚いたように目を見開き、そして慌てた様子で首を横に振った。
「そうじゃない。ただ、お前の部下の中でも堤は特に、お前のことを気にかけているようだから、あのとき取り乱していたお前を見て、どう思ったのか気になって……」
「どう思ったかなんて、わたしにわかるはずがないだろう……。わたしは、堤じゃないんだ。それに、あんなことを他人に言えると思うか?」
今のこの状況すら、誰かに知られてはいけないと感じているぐらいだ。そう思った途端、藍田の中で怒りは困惑へと変わる。
そう、今のこの状況も、十分に変なのだ。
藍田は、大橋にずっと掴まれたままの自分の片手に視線を落とす。
「手が震えて止まらなかったんだ。あんたが帰ったあと。だから――……」
「だから?」
大橋の声が少しだけ険しくなる。詰問される立場でもないのだが、藍田は正直に話していた。
「堤が震える手をしばらく握ってくれていた。……こうして言うと変な話だが、あのときのわたしは動揺していて、何が正常で、何が異常なのか、判断がつかなかったんだ。先輩である男に抱き締められて、部下の男に手を握られて――今にして思うと、笑い話にもならない」
「だったら今のこれは、笑い話になるか?」
大橋の視線がちらりと、自分が掴んでいる藍田の片手に向けられる。カッとして手を引き抜こうとしたが、すかさず力を込められたため動けない。
「大橋さんっ――」
「感触は、男の手なのにな……」
独り言のように呟いた大橋が、熱っぽい眼差しを向けてくる。藍田はうろたえながらも、やはり目を逸らせなかった。これ以上大橋の目を見ていると、見えない力に従わされそうだと危惧しながらも。
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