サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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切羽詰まった男1

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 背に、藍田の視線が突き刺さる――。
 振り返って確認したわけではないが、確認するまでもない。藍田はきっと、射抜くほど鋭い視線を、自分の背に向けている。静まり返った廊下を歩きながら、大橋は妙な緊張感を味わっていた。
 決して悪気も他意もなかったのだ、と心の中で言い訳しながら。

 台風が直撃している中、なんとか無事にホテルに着いたとき、藍田は目に見えて憔悴していた。胃痛がひどいとか、貧血を起こしているとか、そういう病的なものではなく、とにかく眠くてたまらないのだろう。
 ホテルに着くまで、ぼんやりしていたかと思うと、急に思い出したように目を擦っては、口元を押さえていた。本人は懸命に自分を保とうとしていたようだが、ときおり覗く無防備な姿は、普段の冷徹な新機能事業室副室長とはまるで別人だった。

 タクシーの中で咄嗟に抱いた藍田の肩の感触がふいに蘇り、動揺した大橋の歩調がわずかに乱れる。すぐに我に返って足を速めたが、後ろをついてくる藍田の歩調は変わらない。
 ようやく大橋が振り返ると、思ったとおり藍田は、まっすぐこちらを見つめていた。そのくせ、目が合うと不自然に視線を逸らす。意識していると、藍田の態度が物語っている。もちろん大橋も、ホテルにチェックインしたときから藍田を意識していた。
 そう、タクシーの中で微妙な緊張感は漂っていたものの、ホテルに着いてから夕飯を済ませるまではよかったのだ。大橋も藍田も、態度には出さないものの、なんとか一線を保っていた。一昨日の行為は匂わせない、という一線を。
 それが――。

「……藍田、怒っているか?」

 思わず尋ねると、藍田は静かな表情のまま、投げ遣りな口調で答えるという高度な技を使った。

「怒っているが、疲れと眠気が上回っている。いまさらもう、ロビーに戻って時間を潰すのも嫌だしな」

 正直な奴だ、と苦笑した大橋は、ガシガシと頭を掻く。

「悪気はなかったんだ。俺もフロントから聞かされるまで、大丈夫だと思っていた」
「いい。あんたに任せっきりだった、わたしにも責任がある」

 責任、という言葉を他人が聞けば、どれだけ重大な出来事が起こったのかと思うかもしれない。しかし事情を知れば、大半の人間は拍子抜けするだろう。そんなことか、と。
 ただし大橋と藍田にとっては、そんなこと、では済まない。今のところ二人の関係は、非常にデリケートなのだ。
 藍田と並んで歩きながら、大橋はこんな提案をしてみた。

「――どうしても俺と同室が嫌なら、お前一人でツインの部屋を使え。俺はフロントに言って、シングルの部屋を取ってもらう」
「準備するのに時間がかかると言われただろう。それにもう、部屋は満室かもしれない。部屋の準備に手間取っているということは、それだけ急に予約が入ったということだ。この台風だから仕方ない」
「まあな……」

 二人がこんな会話を交わす理由は、つまりこういうことだ。
 ホテルに着いたその足で、やはり早めにチェックインとシングルの予約を済ませておこうとしたのだが、予想以上にフロントが混み合っていたため、結局二人は、当初の予定通り、先にホテル内にあるレストランで夕飯を済ませた。
 その後、再びフロントに行って手続きをしようとして、予想外のことを告げられてしまった。すでにシングルもダブルも満室になってしまったというのだ。

 空いているツインにしても、部屋を準備するため、しばらく待ってもらえないかと言われた。
 確かに、事前にシングルの予約を入れておかなかったこちらが悪い。文句を言える立場ではないし、だからといって暴風雨の中、近くの別のホテルに移動するのも手間だ。しかも、行った先のホテルも空いているとは限らない。
 何より今の藍田は、十分でもラウンジに座らせておいたら、眠り込んでしまうのが目に見えている。冷房がよく効いたラウンジでそんなことをさせたら、風邪をひきかねない。
 そこで大橋は、ツインの部屋のみのチェックインと支払いを済ませ、藍田に手短に状況説明をすると、半ば強引に腕を取り、エレベーターに乗り込んだというわけだ。

「俺はまだ体力があるから、ロビーでコーヒーでも飲みながら時間を潰す」

 大橋なりに気遣いと優しさを示したつもりだが、なぜか藍田にさらに厳しい視線を向けられた。

「……なんだよ、藍田。まだ不満か」
「違う。あんたの言い方が卑怯だと思っただけだ。……あんただって疲れているのは、わたしにもわかる。そんなあんたを部屋から追い出したら――、わたしはわがままを言っているだけの、薄情者になってしまう」

 大橋は戸惑いながら藍田を見つめる。高飛車な口調はともかく、藍田は藍田なりに自分を気遣ってくれているのだと知ってしまうと、大橋の胸の奥で不可解な熱い塊が蠢いていた。これはまずい、と思う。
 一昨日、オフィスで衝動的に藍田を抱き締めたときにも、同じような感覚に襲われ、わけがわからなくなったのだ。
 うろたえる気持ちを必死に抑えつけようと大橋が四苦八苦している間に、部屋に着いてしまい、カードキーを差し込みながら大橋は緊張していた。
 部屋に入ると、二人きりの空気を意識するのが嫌で、すぐにテレビをつける。興味もないバラエティー番組に視線を固定したまま、大橋は早口に告げた。

「藍田、先にシャワー使え。俺はビールでも飲んでるから、慌てなくていいぞ」
「……そうさせてもらう」

 そう答えた藍田の声から、完全に覇気がなくなっている。エネルギー切れ寸前といったところだろう。
 ベッドの一つに腰掛けた大橋は、横目で藍田の様子をうかがう。スリッパに履き替えた藍田は、億劫そうにジャケットを脱ぎ、ネクタイを解く。なんでもない一連の動作を、自覚もないまま大橋はじっと見つめていた。
 照明を落とし気味のホテルの室内では、藍田の横顔の白さがやけに際立って見える。それに、ワイシャツ姿が新鮮に感じられる。暑ければ気軽にジャケットを脱いでしまう大橋とは違い、藍田はどんなに暑かろうがジャケットを脱ぐことはないので、そのせいだ。

 袖口のボタンを外す指の動きすら目で追ってしまい、そんな自分に気づいた大橋は、慌てて視線を藍田から引き剥がす。藍田を意識しすぎだ、と自分を戒めていた。なんということはない。同僚とホテルの同じ部屋に宿泊するだけなのだ。出張先でこれまで何度も経験してきたことだ。ただ、今は、相手が藍田というだけで。
 その藍田に自分が何をしたのか思い出し、大橋は髪を掻き毟りたくなる。できなかったのは、視線を感じたからだ。
 藍田が訝しむような表情で見ていた。

「大丈夫か? 苦しそうな顔をしていたが……」
「またお前の、不機嫌そうな寝顔を見ることになるのかと思ったら、そんな顔になったんだろうな」

 咄嗟の言い訳としては上手かったが、藍田の機嫌は確実に損ねた。
 軽く眉をひそめた藍田は、大橋の相手などしていられないとばかりに、浴衣を手にさっさとバスルームに行ってしまった。



 三本目の缶ビールを空にしたところで、大橋の気分は少々よくなっていた。正確には、そうなるよう、自販機で買い込んできたビールを立て続けに飲み、酔いに逃げたのだ。
 悪酔いする要因はない。仕事のトラブルはひとまず片付き、緊張から解放されると同時に、普段の夕飯に比べてずっと美味いものが食え、その充足感をツマミに、ホテルの部屋でのんびりとビールを飲んでいる。そこまで考えてから、大橋はガクッと肩を落として独り言を洩らす。

「ポジティブに持っていくにしても、無理がありすぎだろう、俺……」

 本当は、バスルームから響くシャワーの音を聞き続けているうちに居たたまれなくなって部屋を出て、外は台風で大荒れという状況でホテル内をぶらつく気にもなれず、ビールを買い込んですごすごと帰ってきたのだ。
 この部屋に入ったときから、今日片付けたトラブルのことなど微塵も思い出さなかったぐらいだ。ビール程度の酔いでは、藍田から意識を引き剥がすことができない。

 ここでふと、大橋はあることに気づいた。缶ビールの二本目を飲み始めた頃、水音は止まったのだが、いまだにバスルームから藍田が出てくる気配がない。髪を乾かしているにしては、ドライヤーの音も聞こえない。なんにしても、時間がかかりすぎる。
 大橋は空になった缶を倒しながら、慌てて立ち上がっていた。

「おいっ、藍田、大丈夫かっ?」

 バスルームのドアの前に立ち、声をかける。しかし中から返ってくる声はなく、大橋がドアを開けようとしても、中から鍵がかかっていた。

「藍田、聞こえてるんなら返事しろ。慌てなくていいとは言ったが、お前、どれだけ入ってる気だ。それとも、のぼせて動けないのか?」

 ドアをノックしながら必死に話しかけ続けても、やはり藍田の声は聞こえない。この時点で、酔いは完全に払拭される。もともと、酔っていた『つもり』になっていただけで、たかが缶ビール三本ほどで酔えるほど酒に弱くはない。
 大橋の背を、冷たい嫌な汗が伝う。ホテルの人間を呼んで来るべきかと迷った瞬間、中で派手な水音がする。

「どうしたっ、なんかあったのか?」

 必死に何度も問いかけるが、やはり返事はない。ただ、中で何かしている気配は感じ取れるので、のぼせて動けないわけではないようだ。だったら声ぐらい聞かせろと、思わず怒鳴りそうになる。そうできなかったのは、ある可能性に思い至ったからだ。
 気を静めるため大きく息を吐き出してから、大橋はいくぶん抑えた声で問いかけた。

「――もしかして、俺がいるから、出たくないのか? やっぱり俺と一緒の部屋じゃ、怖くて仕方ない……か?」

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