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眠い男2
しおりを挟む藍田はゆっくりと目を細めると、大橋をじっと見つめる。大橋は落ち着きなく視線をさまよわせてから、ぎこちなく笑いかけてきた。
「飛行機、飛ばないんだろう?」
「あ、あ……」
「ここに来る前に確認してきたが、新幹線もストップだ。つまり今夜は、東京に足止めってことだ。まあ、オフィスに連絡さえ入れておけば、明日中に帰れば問題はないだろう。ダメだと言われたところで帰りの足がないしな。トラブル対処の報告は、帰ってからじっくりすればいい」
大橋がいつになく早口で話してから、藍田の前を通って隣のイスに腰掛ける。見回してみれば、イスに腰掛けている人の数がずいぶん少なくなっていた。
時間を確認してみれば、二十分ほど目を閉じていたらしい。居眠りしていたのかどうか、藍田自身、よくわからなかった。ただ、頭がぼんやりしている。
髪を掻き上げて大きく息を吐き出すと、大橋が顔を覗き込んできた。
「精根尽き果てたって顔だな」
「……疲れた……」
思わず本音を洩らしてから、藍田は口元に手をやる。大橋に対して弱音を吐くつもりはなかったのに、自然に口をついて出たのだ。一方の大橋も、目を見開いている。
互いに不自然に顔を背けたが、すぐに大橋は何か思い出したように、藍田のほうに体を寄せてきた。
「お前、予約番号は?」
大橋に問われ、もそもそとジャケットのポケットからスマートフォンを取り出す。
「よし、予約変更の手続きを済ませるぞ。今日はもう、飛行機は飛ばん。明日だ、明日」
腕を掴まれて強引に立たされると、半ば引きずられるようにカウンターの列へと加わる。どんなに疲れていようが、手続きは済ませておかなければならないとわかってはいるのだ。
この男はタフだ、と思う。東京支社で、藍田と同じくトラブル処理に奔走したのだろう。明らかに大橋も疲れているように見えるが、それでも動きには、まだ精力的なものが感じられる。
正直、大橋が現れて助かったのかもしれない。何かのきっかけがなければ、藍田は時間が許す限り、動かなかったかもしれないのだ。少なくとも大橋がいれば、情けない姿を見せたくないという気になる。
なんとか気力と体力を振り絞り、カウンターで手続きを済ませる。
「さすがに朝早い便は無理だったが、台風がどうなるかわからないし、機体のやりくりがつかないんなら仕方ないよな。とりあえず、午前中の便は取れたし、並びで座れるのはついてたな」
飛行機に乗れるのなら、別に並びで座れなくてもよかったのではないか。そう思った藍田だが、あえて口には出さなかった。
「――で、これからどうするんだ」
いつの間にか笑みを消し、まじめな顔で大橋に問われる。藍田は少し考えてから、曖昧に首を振った。
「適当にホテルを取る。……どこでもいい。寝るだけだから」
「だったら都内まで引き返して、俺が出張のときにいつも使っているホテルに泊まるか。そこの予約用の電話番号なら、スマホに入れてあるし――」
言いながら大橋が電話をかけ始める。藍田は漫然と、大橋の行動を眺めていた。思考が緩慢になりすぎて、大橋が何をしようとしているのかよく理解できなかったのだ。
大橋は電話で短く会話を交わしてから、奇妙な表情を浮かべて藍田を見下ろしてくる。何事かと思った藍田が眉をひそめたとき、ある言葉がはっきりと耳に届いた。
「――部屋はツインで」
数秒の間を置いてから、ぼんやりしていた藍田もさすがに事態を理解する。目を見開いて訂正させようとしたが、それに気づいた大橋が素早くこちらに背を向けてしまった。
「はい、予約は東和電器株式会社の大橋で。チェックインは……一時間後に」
早口にそう告げると、大橋は電話を切って再び藍田を見た。何事もなかったように澄ました顔をしているのを見て、藍田はやっとまともに言葉を発することができる。
「なんで……ツインなんだ。シングル二部屋ぐらい、空いているだろう」
「経費削減。支払いは俺がする。そのほうが、経理に回す伝票が一枚少なくて済むしな」
「……わたしは別のホテルに泊まる」
「必要ない。それに、動けずにぐったり座り込んでいたくせに、自分でホテルを探せるのか? この天候だと、空港近くのホテルは諦めたほうがいいぞ。都内のホテルだって、そろそろ埋まり始めている頃だろうしな」
ひどく腹立たしい気持ちなのだが、今の藍田は、大橋の相手をするには体力も気力もなさすぎた。
ただ、大橋にはこう問いたかった。どうして自分にかまうのだ、と。
口にできなかったのは、自意識過剰だと切り返されるのが嫌だったからだ。いや、そもそも藍田が大橋を意識してしまうのは、オフィスで抱き締められたせいだ。つまり、大橋が悪い。
眠気とも、めまいとも取れる感覚に襲われ、藍田は片手で両目を覆う。考えていたことが一気に頭の中で霧散して、わけがわからなくなくなっていた。はっきりしているのは、とにかく落ち着いた場所で、体を休めたいということだ。
藍田はため息交じりに告げた。
「――妥協する。あんたと同じホテルでいい。ただ、予約を変更して、わたしにはシングルを取ってほしい」
「はいはい」
なんとも誠意のない返事をした大橋を、緩慢な動作で顔を上げた藍田は睨みつける。すると大橋がにんまりと笑いかけてきた。
「ほら、行くぞ。のんびりしていたら、タクシーがなくなる」
ふっと息を吐き出した藍田は、アタッシェケースを手に立ち上がる。驚くほど体が重く感じられ、またすぐに座り込みたい衝動に駆られる。そうできなかったのは、同じくアタッシェケースを手にした大橋が、気遣うような眼差しを向けていたからだ。
腹が立つような、気恥ずかしいような、そんな奇妙な感情を覚えながら、藍田は必死に平静さを取り繕う。
だがその姿勢も、空港の建物から一歩出た瞬間に、どこかにいった。
生ぬるくも強い風に襲われ、藍田の体は一瞬ふらつく。
「あっ……」
小さく声を上げてすぐ、強い力が肩にかかり、引き戻された。
「しっかり踏ん張っておけよ。痩せているお前なら、こんな風でも飛ばされるぞ」
顔をしかめた大橋に、非常に失礼なことを言われた気がする。藍田は聞こえなかったふりをした。
吹き込んでくる雨で顔を濡らしながら、大橋に半ば肩を抱かれるようにしてなんとかタクシーに乗り込んだとき、藍田はぐったりとしてシートにもたれかかっていた。
空港までは電車で来たため、雨風がすごいとは思っていても、肌で感じることはなかったのだ。今なら、吹き荒れる嵐の予兆を強く感じる。
「ひっでーな、こりゃ」
運転手に行き先を告げた大橋が、大雑把な手つきで髪を掻き上げながら洩らす。
藍田は自分のハンカチを取り出してスーツを簡単に拭いていたが、すぐに億劫になってやめてしまい、ウィンドーの外に視線を向ける。
走り出したタクシーは、強い雨風のせいでスピードは抑え気味だ。空港への道が閉鎖されてなくて運がよかったかもしれない。
車の振動に、眠気が刺激される。藍田が目を擦っていると、隣で大橋が噴き出した。
「……なんだ」
大橋を見ると、思ったとおり、肩を震わせて笑っている。
「いや……。普段はツンドラみたいなお前でも、眠気には勝てないのかと思ったら、妙に微笑ましい気持ちになってな」
「あんたも二日続けて徹夜すれば、わたしが今、どんな気持ちかわかるはずだ」
不機嫌な口調で藍田が応じると、大橋が身を乗り出し、悪戯っぽい表情を見せた。
「参考に教えてくれ。どんな気持ちだ?」
「眠気と疲労でふらふらの人間の隣で、のん気に笑っている男を殴ってやりたい、という気持ちだ」
「こえーな」
芝居がかった仕草で肩をすくめる大橋を、本気で殴ってやろうかと思う。そうしなかったのは、強引にせよ、空港から連れ出してくれたからだ。一応、藍田なりに感謝はしているのだ。能天気に笑っている大橋を見ると、到底素直に礼を言う気にはならないが。
藍田は無意識に、大橋の横顔に見入っていた。こんなふうに笑う男が、どうして一昨日、オフィスであんな行為をしたのだろうかと考えながら。
酔ったうえでの冗談、で納得してしまいたいが、釈然としない気持ちは藍田の中に残ったままだ。
明確な理由を求めているのだろうかと思った藍田は、途端に自分の鼓動が速くなるのを感じる。これ以上深く考えてはいけないと、自分の中の何かが制止しているようだった。
藍田の視線に気づいたのか、ふいに大橋がこちらを見て、思いがけず優しい表情を浮かべた。
「どうした?」
「……なんでも、ない……」
「チェックインする前に、先にメシ済ませようぜ。一度部屋に入ると、もう出たくないからな」
「わたしは別に――」
「食えよ。俺と一緒にいて、メシ抜きで済むと思うな。今日はたっぷり食って、しっかり寝ろ」
こんなことを言い出した大橋に逆らうのは不可能だと、これまでのつき合いで身をもって知ったつもりだ。
仕方なく、わかった、と答えようとした瞬間、運転手が急にハンドルを切る。車が強風に煽られ、道路の左に寄ったのだ。藍田の体は車に合わせて大きく揺れ、すかさず大橋の腕が肩に回され受け止められる。
強風の勢いよりも、急に肩にかかった感触に驚く。藍田は咄嗟に腕を振り払うこともできず、体を強張らせる。藍田の様子に気づいたのか、大橋は何も言わず、ぎこちなく肩に回した腕を退けた。
この瞬間、互いの心の内などわかるはずもないのに、藍田は大橋と同じ気持ちを共有したと確信する。
藍田は大橋に抱き締められた感触を、大橋は藍田を抱き締めた感触を思い出し、言葉も出ないほどうろたえたのだ。
やはり別行動を取ればよかったと痛いほど後悔した藍田だが、もう遅かった。
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