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眠い男1
しおりを挟むふと足を止めた藍田は、窓の外に視線を向ける。台風の接近を物語るように、雨と風の勢いが、時間とともに少しずつ増している。
憂鬱な仕事に、憂鬱な天候。それに、憂鬱な気分。
重大なトラブルでもなければ、誰が好きこのんで東京出張などするものか、と藍田は心の中で毒づく。それぐらいしなければ、とてもでなければやっていられない。
はあっ、と乱暴に息を吐き出すと、先を歩いていた先進技術開発部の男性社員が怯えたような表情で振り返った。
上司から何を吹き込まれたのか知らないが、さきほどからこの調子だ。藍田の一挙手一投足に大げさに反応し、やたら怯えるのだ。大阪本社から災厄がやって来たとでも吹き込まれたのかもしれない。
「何か気になるものでもありますか?」
まだ二十代半ばぐらいに見える若い男性社員に控えめな声で問われ、藍田は首を横に振った。
「いや。ただ、風が出てきたと思って」
ああ、と声を洩らした社員も、つられたように窓に視線を向ける。
「夕方から夜にかけて東京に直撃らしいです。……帰りに電車が走るか、それが心配で」
「だったらわたしは、帰りの飛行機の心配をしないといけないな」
淡々と応じた藍田に、男性社員はうかがうような視線を向けてくる。
「……別に、怒っているわけじゃない。台風は自然災害なんだから、こちらの予定に合わせて来るなとも言えない。むしろ怒っているとすれば――」
ここに来ざるをえない状況を作り出した張本人だ。
藍田はわずかに唇を歪めて、込み上げてきた怒りを押し殺すと、歩きながら低い声を発する。
「それで、該当する社員は?」
「ええと……、本社移転に伴うオフィスの配置換えで相談があるといって、開発研究所から呼び戻しています。上からの指示通り、開発部のオフィスには立ち入らせていませんし、パソコンやスマホにも触れない環境に置いています」
「完璧だ」
そう言って藍田が冷ややかな笑みを浮かべると、なぜだか男性社員は意外そうに目を丸くしてから、慌てて視線を伏せた。うろたえた様子はまるで新入社員のようで、なんとなく藍田は微笑ましい気持ちになる。
思わず唇を綻ばせそうになったが、寸前で堪える。朝から大橋と一緒にいたせいで、どうやら緊張感が少し緩んでいるようだ。藍田は自分を戒めると、完全に気持ちを切り替えた。
先進技術開発部のオフィスの前まで来ると、一人の男が強張った顔で立っていた。男性社員が小声で、東京支社の技術開発部門統括責任者だと教えてくれる。昨夜、人事部長と話していてちらりと話題が出たが、確か兵頭といったはずだ。
その兵頭と名刺交換をしたところで、男性社員の役目はここまでだ。
彼がオフィスに戻る姿を一瞥してから、兵頭に促されるまま藍田は再び歩き出す。
「――わざわざお越しいただくような事態になり、申し訳ありません」
抑えた声で兵頭が苦しげに言う。いえ、と応じた藍田は、隣を歩く兵頭の横顔を素早く観察する。まだ四十代前半で、部門の統括責任者を任されるということは、よほど有能なのだろう。ただし、研究者として。
会社を揺るがすようなトラブルを部下が引き起こして、対応に苦慮していると、ありありと感じ取れる。もしかすると、自分の今の立場すら危ういかもしれないのだ。
やはり部下を持つ身である藍田としては、兵頭の感じる不安が他人事とは思えない。一方で、管理者として甘いといわざるをえないだろう。
「昨夜のうちにお願いしておいた調査の結果はどうでしたか?」
あえて事務的な口調で尋ねると、兵頭の表情が曇る。
「……関わっていないはずの研究データに、何度かアクセスした形跡がありました。どこも同じでしょうが、うちの研究所もデータの管理は厳重に行っていて、外に持ち出すことはできません。ただ、審査の関係で、データはこちらの開発部でも一括管理していて、印刷したものが社員たちの手に渡ることがあります。もちろん、それは破棄することになっていて――」
「しかし、流出した。いや、させた、というべきですね。彼は、特許申請を控えた大事な研究データを持ち出した」
「まだ本人から確認を取ってないので、断定はできません」
兵頭の言葉に、藍田は眉をひそめる。
「そうですね。断定はできません。わたしもあくまで、関係者からもたらされた情報を元に、あなた方に動いてもらっているだけですから。ただ、だからこそ、本人を問い詰めなくてはならないでしょう。単なるハッタリで動くほど、彼が接触していた会社は甘くはないですよ」
二人は、開発部が使っているというミーティング室のうち、使用中となっている唯一の部屋の前で足を止める。
極秘裏の打ち合わせが多い開発部らしく、ミーティング室はフロアの奥まった場所にあり、ここにくるまでの廊下も入り組んでいるため、人の出入りがわかりにくい造りになっていた。
ミーティング室のドアを見据えながら藍田は、淡々とした口調で話す。
「――本来ならわたしは、情報流失に関する事案には一切タッチしません。ただ、こんなバカなことをしようとした理由が、事業部の統廃合に関わりがあると言われれば、動かざるをえないんです。本人が本当にそう言ったかどうかは不明ですが、第三者の口から語られたのなら、確かめる必要はあります」
「彼は……、自分がいる研究室が思う通りの結果を出せていないことを気にかけていました。だから、研究室どころか、事業部そのものがなくなると思い詰めたのかもしれません」
「わたしには、事業部の統廃合を口実にして、自分だけ甘い汁を吸おうとしていたようにしか思えませんが」
ハッとしたように兵頭がこちらを見て、納得したように小さく頷いた。
「ないとは言い切れません。いや、そうなんでしょう。そうでなければ、自分が関わったわけでもない研究データにアクセスする理由がない」
藍田はもう一度、乱暴に息を吐き出す。
昨夜、逢坂に耳打ちされた情報というのは、つまり、こういうことだった。
東京本社の先進技術開発部で、ある商品の開発に関わっている社員が、他社へ情報を売っているというのだ。その他社というのは、逢坂が電話で話したという投資会社の人間だ。おそらく投資会社の人間は、逢坂が食いつくかどうか探ってみたのだろう。
どの程度の情報が持ち出されているのか、今、開発部の一部の人間が調べているが、藍田にとって大事なのは、今回の騒動が、事業部の統廃合にどれだけ影響を及ぼすかだ。
社員の心理になんらかの悪影響を及ぼした挙げ句の愚行だとすれば、対応を考えなければならない。もちろん、厳しい方向で。あえて兵頭には言わないが、東京支社の開発部部門に、それなりのペナルティーを受けてもらうことは、すでに藍田の中で決定している。
社内での懲罰は上が決めることだが、藍田は営業部門だけでなく、開発部門の事業部の統廃合にも大鉈を振るうつもりだったので、皮肉なことに今回の騒動は、そんな藍田にとっては好都合だった。
開発部門が起こした不祥事は、開発部門がケジメをつけるべきなのだ。
疲労と睡眠不足で、頭の半分が膿んだように熱くなっているが、残りの半分はいつもと変わらず、冷静に動き続けている。その冷静な部分で、藍田は物事を淡々と処理し続けていた。
「――とりあえず、彼と話をしてみます。わたしが事業部統廃合を任されていると知ってどんな反応をするか見てみたいですし。あなたには、同席をお願いしたい」
「わかりました」
頷いた兵頭がさっそくドアをノックしようとしたが、藍田はそれを制する。
「先に、開発部門の各事業部の責任者に連絡を取ってください。二時間後に大会議室で説明会を行いたいと思っています」
「説明会、というのは……」
何かを察したように表情を曇らせた兵頭に対して、あくまで淡々と藍田と告げた。
「事業部の統廃合がどのような手順で進められるか、一度みなさんときちんと顔を合わせて、お話しておきたいんです。営業部門への説明はすでに終えていますが、開発部門は後回しになっていましたので、この機会に」
ぜひ、という一言を付け加えると、弾かれたように肩を震わせた兵頭が一礼してオフィスに戻ろうとしたが、このとき、ちらりと藍田を見た目に、ありありと怒りが滲み出ていることに気づいたが、見なかったふりをした。
他人からこんな眼差しを向けられることに、すっかり慣れてしまったのだ。
きっと、他人が感じる痛みにも鈍感になってしまったのだろうなと、壁にもたれかかりながら、藍田は漫然とそんなことを考えていた。
最悪だ――。
心の中でそう洩らした藍田は、重苦しいため息を洩らす。もっとも、あからさまに落胆の感情を表しているのは藍田だけではなく、空港の運航状況を確認した人たちの大半は、似たような反応を見せた。
台風がすぐそこまで迫っている中、電話ではラチが明かないため空港まで足を運んだのだが、物事はそう都合よく運ばない。そんな当たり前のことを痛感する。
藍田が搭乗する予定だった飛行機は、すでに欠航が決定していた。最終便だけでなく、夕方からの便すべてだ。他の航空会社も同じ対応を取っており、つまりもう今日は、飛行機は飛ばないということだ。
ありうることだと予測はしていたが、いざそのトラブルが自分の身に降りかかると、ため息しか出ない。同時に、ひどい脱力感に襲われていた。
皮肉なことに、欠航の字を目の当たりにして、やっと今日の自分の仕事は終わったのだと実感できたようだ。だるい体を引きずって、電車を乗り継いできた甲斐はあったのかもしれない。
ちらりと苦笑を浮かべた藍田は、混雑しているカウンターにすぐに向かう気にはなれず、並んでいるイスの一つにひとまず腰掛ける。
顔を伏せて目を閉じると、深い場所にまで引きずり込まれそうな、強烈な睡魔が一気に押し寄せてきた。さすがに、丸二日もまともに眠っていないため、気を抜くと立ったままでも眠れそうだ。
東京支社にいる間は気が張っていたため、なんとか自分を保っていられたが、一人になると、もうダメだ。この場から一歩も動きたくなくなる。
意識が宙を漂っているような感覚を味わいながら、それでも藍田は考え続けていた。今日の、東京支社でのことだ。
藍田が面談した社員は、確かに情報を流出させていた。ただし、取引には至っていない。接触を持っていた投資会社も慎重で、取引をする相手がどれだけの情報にアクセスできるか確認するため、まずは重要度の低い情報から持ち出させていたのだ。あとは、東和電器の内輪揉めに関する情報も。
一日かけて調べさせた限りでは、特許申請間近の研究概要までが社外に流出したようだが、それが即、会社に打撃に与えることはないらしい。ただ、研究内容のすべてが把握されたことに間違いはない。
しかし藍田にとって大事なのは、なぜ社員の一人がそんな愚行に走ったかという理由だ。
ヒステリックに投げつけられた社員の言葉が、頭の中で反響していた。すると、間断なく痛み続けていた胃が、一際鋭い痛みを発し、思わず喉の奥で声を洩らす。
朝から胃薬を飲み続けているが、感じるストレスがそれ以上なのか、効いている気がしない。
情報を流出させていた社員の言い分は、開き直り以外のなにものでもなかった。曰く、事業部統廃合の話を聞き、安心して働ける環境でなくなった。自分は開発でがんばってきたが、それが報われることはなく、そのうえ一方的に切り捨てられるのは我慢できない。会社に裏切られたと感じた。
だから――背信行為に及んだ、と聞かされたときは、藍田はあまりのバカバカしさに、このときだけは胃の痛みを忘れて笑い出してしまった。
その後、愚かだ、という一言で切り捨てた。
愚かな行為の代償が、自分の仲間たちがいる事業部を結果として減らすことになるのだ。他に言いようがない。
くだらない後始末のために出張までしたという事実を何度も噛み締めるたびに、藍田の疲労感は増していく。あとに設けた、開発部門の各事業部の責任者に対する説明会も荒れてひどい内容だったのだ。
疲労感に腹立たしさまで加わり、正直、座っていることすら嫌になる。とりあえず強引に思考を切り替えてみた。
まずは、飛行機の予約変更をしてもらわなければならない。いや、もしかすると新幹線ならまだ走っているかも――。
藍田は取り留めなく考え続けはするのだが、体が動かない。新幹線すら無理なら、ホテルも探さなければならないのに。
本格的に自分は疲れ果てているなと思い、唇にそっと苦笑を浮かべかけた藍田だが、次の瞬間、体を強張らせていた。すぐ隣に誰か立っている気配を感じたのだ。
「――おい、こんなところで寝るな」
そんな言葉が頭上から降ってくるのと同時に、髪に何かが触れた。ハッとして藍田が頭を上げると、驚いたように大橋が手を引く。何が起こったのか、よくわからなかった。
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