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図太い男2

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 思いがけず、福利厚生センターでの打ち合わせが長引き、大橋がオフィスを出たときには、すでに昼休みに入っていた。
 少し前に空港で朝食を食べたばかりだと感じていたが、時間を認識した途端、腹が減る。本格的に仕事に入る前に、何か食べておきたいところだが、その余裕もないようだ。
 気疲れを覚えつつ歩いていた大橋は、スマートフォンの電源を切ったままだったのを思い出し、慌てて取り出す。
 電源を入れると、さっそく留守電が入っていた。メッセージを聞いた大橋は、ニヤリと笑って周囲を見回す。一階が見下ろせる廊下へと移動して、メッセージ通り、ある人物へと電話をかけた。

「――大橋です。連絡ありがとうございました」

 大橋がこう名乗ったとき、相手がどんな顔をしたのか、なんとなくだが想像できた。笑いを噛み殺しつつ、大まじめな顔を取り繕っているだろう。

『もうこっちに来たの?』
「俺はフットワークが軽いんですよ。福澤さん」
『昨夜、連絡もらったときは驚いたけど、もう動くとはね』
「早いうちに打てるだけの手を打っておこうかと思って。ついでに、本来のプロジェクトのほうで済ませておきたい用もあったんです。会社の荷物だけじゃなく、人も移動しますから」
『本来の仕事をしつつ、本当に大変だ……』

 当たり前だが、福澤の口調はあくまで他人事だ。電材営業部の動きを大橋に知らせて、気が楽になったのかもしれない。
 一方の大橋は、昨夜から大変だったと恨み言を言う気にもなれなかった。どうせ誰かが動かなければならないことだ。むしろ、自分に知らせてくれたことを感謝すらしている。

「昨夜は、家族団らんの時間をお邪魔して、すみませんでした」

 大橋は、昨夜福澤の連絡したときの様子を思い出す。すでに自宅に戻っていたという福澤の声とは別に、なんとも楽しそうな子供の笑い声が聞こえてきたのだ。それをたしなめる、柔らかな女性の声も。
 これが家庭の声なのかと、少しだけほろ苦い気持ちになったのは、大橋の秘密だ。しかし、妙なところで福澤は鋭かった。

『――君なら、三度目の結婚でもいいって言う女性もいるだろう。もう家庭を持つ気はないの?』

 ドキリとした大橋は、誤魔化すように笑い声を洩らす。まさかこの状況で、こんなに答えにくい質問をされるとは思わなかった。

「さすがに二度失敗すると、痛感しますよ。俺は誰かと家庭を築くのに向かない男だってことを。それに今は、一人暮らしのほうが居心地がよくて」
『別に一緒に暮らさなくてもさ、恋人ぐらいはいたほうが楽しいよ。まだ若いんだし、仕事だけの毎日も味気ないだろう』

 これは世間話なのか、それとも親身になってくれているのかと、大橋は判断に迷う。結局、福澤が納得しそうな返事をしていた。

「寂しくない程度に、相手をしてくれる人はいますから、ご心配なく」

 少々慌てて大橋は電話を切り、ほっと息を吐く。
 家庭人である首都圏システム営業部第二室の室長は、実は世話好きなのかもしれないなと思いながら、頭を掻く。いつもならもっと気楽に躱せるはずの話題なのだが、なぜか今は、大橋の背中はじっとり汗ばんでいた。

 本来ならここで休憩でもしたいところだが、予定のせいでそうもいかない。昼なら時間が取れるという、相手側からの要望だ。
 大橋がエレベーターで向かったのは、企業倫理室のオフィスがあるフロアだった。このフロアは、一般社員には馴染みの薄い部署ばかりが入っているため、慌ただしい空気はあまり感じない。それに、緊張感のようなものが漂っていた。
 大橋は危機管理室のオフィスを横目に見ながら通り過ぎ、その隣の企業倫理室のオフィスへと足を踏み入れる。
 いかにも誰かを待っているという風情で、いかめしい顔をした男が立っており、目が合った。その男が、横幅に大きな体を揺するようにして大橋の元へと歩み寄ってくる。

「――君のせいで、昼食の約束をキャンセルしたよ」

 開口一番に非難がましい口調で告げられた言葉に、目を丸くしたあと、大橋は失笑を洩らす。重厚な雰囲気を漂わせた五十代半ばぐらいに見える男が、まっさきに言うことだろうかと思ったのだ。
 ただ、自分が歓迎されていないということを知るには、最適な言葉だったかもしれない。
 大橋は、悪びれずに飄々として応じた。

「わたしも食べていません。よければ、これからご一緒しますか?」
「……話を聞こう。移転推進実行プロジェクトのリーダーである君が、夜遅くに連絡を入れてくるぐらいだ。話に集中したい」
「恐れ入ります、小野谷おのや室長」
 小野谷に伴われて執務室へと移動すると、手で示されるまま大橋はソファに腰掛ける。すぐに小野谷も腰掛けるかと思ったが、デスクに歩み寄った小野谷がまずやったのは、コーヒーは持ってこなくていいと内線で部下に告げることだった。
 あまりに露骨な対応に、大橋は本気でおかしくなってくる。

「それで、用というのは?」

 正面のソファにやっと腰掛けた小野谷が、警戒した様子で切り出し、鋭い視線を向けてくる。大橋は必要以上ににこやかな表情を浮かべた。

「用、というほど大層なものではありません。ただ、東京支社の企業倫理室のお考えをうかがったほうがいいと思える事案がありまして――……」
「問い合わせ程度なら、電話で対応する。それに、わたしでなくてもよかっただろう。もったいぶって、わざわざ押しかけてくるようなことなのかね?」

 大橋はソファから身を乗り出し、小野谷に強い眼差しを向ける。

「東和電器の面子がかかっていますから、ぜひ、小野谷室長に――いや、東京支社の企業倫理室室長に、ご意見をうかがいたかったんです。直接お会いして」

 淡々とした口調で大橋は、昨日自分のもとにもたらされた情報について、端的な説明をする。
 つまり、東京支社の電材営業部に不穏な動きあり、ということを。
 最初は訝しげな顔をしていた小野谷だが、やっと真剣に話を聞く気になったらしく、大橋同様、ソファからわずかに身を乗り出してきた。

「不穏な動きというのは、具体的には」
「事業部の統廃合に対する抗議のために、リスクマネジメント委員会の設置を求めるつもりらしいです。それが認められないようなら、マスコミに訴える気らしいとも」
「何をバカなっ……」
「そうですよね。そんなことをしたところで、東京支社のイメージが失墜するだけです」

 こう答えた途端、小野谷に睨みつけられた。なぜうちだけが、と言いたいらしい。
 大橋は薄い笑みを浮かべたが、すぐに消し、テーブルの上を軽く指で叩く。

「内乱を起こすのは、本社ではなく、東京支社の人間ですよ。本社はあくまで、困惑の表情を浮かべて、<遺憾です>とでも答えれば、対応したことになりますし、合理的に事業部のいくつかを潰すことができる――と、上は考えるかもしれませんね」

 ここで執務室内に息苦しいほどの沈黙が訪れる。大橋は小野谷の言葉を待ちながら、何げなく視線を窓のほうへと向ける。どうやら、雨足がさらに勢いを増しているだけでなく、風も出てきたようだ。
 藍田が観てきた天気予報は当たっているらしい。

「――それで、なんで君がここに来たんだ」

 突然の小野谷の問いかけに、一瞬目を眇めた大橋は視線を戻す。今の小野谷の顔にあるのは、疑心だ。
 もっともな疑問だと、大橋は小さくため息をついた。

「事業部の統廃合を任されているのは藍田で、わたしが任されているのは本社移転の仕事です。が、もちろん情報のやり取りはありますし、互いにサポート体制は敷いています。信頼関係を結んでいますから」

 これぐらいのウソは可愛いものだ。

「今日、藍田もこちらに別件で来ていますが、この件には関わっていません。藍田が動けば確実に、電材営業部に懲罰的な処断を下さざるをえなくなるでしょう」

 あえて厳しい言葉を使ってみたが、効果はてき面だった。小野谷の顔色が変わり、何かを思案するように忙しく視線が動いている。

「……確かに、そうだろうな。ここぞとばかりに本社は、東和電器全体の問題ではなく、東京支社の問題として片付けようとするはずだ」
「しかしそうはいっても、本社だって無傷というわけにはいかないでしょう。会社の外にいる人間からすれば、本社だろうが支社だろうが、東和電器であることに間違いはない」

 ここでデスクの上の電話が鳴り、忌々しそうに眉をひそめた小野谷が立ち上がる。きつい口調でしばらく電話を繋がないよう告げ、すぐに受話器を置いてしまう。

「それで君は、どうしてわたしのところに来たんだ」

 振り返った小野谷に問われ、大橋はほっと息を吐き出す。やっと肝心なことを切り出せると思ったのだ。

「リスクマネジメント委員会の設置のためには、事前審査が必要ですよね。社員の申し立て内容が、委員会設置に相応しいものかどうか判断するために。その審査をするのが、リスクマネジメント室室長と、経営企画室室長、そして企業倫理室室長の――あなただ」
「……申し立てがあった場合、それを揉み消せというわけか」

 大橋は会心の笑みを浮かべ、首を横に振る。

「逆ですよ。承認してほしいんです」
「つまり……」
「設置しろと言うなら、リスクマネジメント委員会を設置させて、言いたいことを言わせればいい。ただし、あなたから十分に釘を刺してほしいんです。会社の通常業務を阻害し、名誉を傷つけるような活動に、どういったリスクが伴うか。法務部の誰かを伴うのが効果的かもしれませんね」

 自分は意外に悪役が似合うかもしれない、などと考えながら、大橋は淀みなく話し続ける。

「正義感に駆られてやっているのかもしれませんが、結果として自分たちの行動が、同じ東京支社にいる社員たちに負担を強いることになると、行動を起こす人間は知らなければいけない」
「しかし、その役目はわたしでなくても……」
「小野谷室長でないとダメです。実績も人望もおありになる、あなたでないと。他のお二方には、専務から説明がいくことになっています」

 専務、と出た途端、ぎょっとしたように小野谷は顔を強張らせる。

「専務が……?」
「すでに専務には、すべてお話してあります。計画のことも。おそらく小野谷室長がお力を貸してくれることも」

 これは、遠回しな脅迫だ。ここで小野谷が協力を拒めば、大阪本社としては、今後の小野谷の処遇をどうするか自由にできる口実を手に入れられる。
 瞬時にそれを悟ったのだろう。小野谷は、疫病神でも見るような眼差しを大橋に向けてきた。その目を見た大橋としては、やはりこの役目は自分が負ってよかったのだと、妙な満足感を覚える。藍田は、こんな眼差しを向けられていい男ではない。
 地均しのような嫌な仕事は、ワイヤーロープ並みに図太い神経をした人間にこそ相応しい。例えば、大橋のような。藍田は、提示された資料を基に、冷ややかに決断を下していけばいいのだ。

 しばらく黙り込んでいた小野谷だが、呻くように低い声で言った。

「――……こんな悪辣な方法を考えついたのは、藍田という男か?」
「まさか、俺ですよ。昨日、ほんの数時間で思いついたんですが、なかなか有効な手だと自負していますよ。半年後はどうなるかわかりませんが、少なくとも今は、事態を丸く収められる……かもしれない。それは小野谷室長にかかっているわけですが」

 今にも大橋を射殺しそうな目で睨みつけてきた小野谷だが、すでに結論は決まっている。この場で出せる結論など、一つしかないのだ。

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