サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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緊急事態の男2

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「社内がごたついているときほど、社員はしっかり締め付けろよ、藍田。言っちゃなんだが、東和電器――トーワグループは、いままで社員を甘やかしすぎた。その挙げ句が、今の事態だ。甘やかされていた連中ほど、よく喚いているだろう?」

 逢坂こそ、東和電器の中の人間と通じているのではないかと、疑いそうになる。あまりに逢坂の言うとおりだった。
 藍田は余計な口は挟まず、逢坂の取り留めない話に耳を傾ける。世間話をしているようでいて、逢坂が言っているのは紛うことなく『重大な話』だ。

「ぼくは、愛社精神なんてものは持ち合わせていない人間だが、契約は重んじる。雇われている身だからこそ、会社にとって利益となるなら、犯罪にならない限りはなんでもしてきたし、今後もそうだ」

 お前もそうだろう? と問われ、考える前に条件反射で頷いていた。確かに、逢坂の表現に違和感はなかった。会社そのものに愛着や執着は感じていないが、これまで自分の身を置いていた場所だ。守るためなら多少の無理はする。

「それでだ、ぼくは今、一つのジレンマに陥っている」

 逢坂ともあろう男に、そんな曖昧な感覚があったのかと、藍田は長年の友人に対して新鮮な驚きを感じる。もちろん、口には出さない。
 藍田が何を思ったのか察したように、皮肉っぽく唇を歪めた逢坂はチーズを口に放り込み、ワインを一気に飲み干す。いつもよりピッチが早いということは、逢坂の機嫌の良さは本物のようだ。

「電話の相手から聞いた話を、ぼくが黙っていると――」

 逢坂の手が肩にかかり、ふざけるようにしなだれかかってくる。そして藍田の顔を間近から覗き込んできた。

「ライバル会社に確実に打撃を与えられる。同時に、ぼくの数少ない、大事な友人が困る。そいつの困った顔を見てやりたいという誘惑もあるんだけどな。だが、ぼくは友情に厚い人間なんだよ」
「……お前の大事な友人が、忙しい中、疲れ果て、そのうえ胃も痛いというのに、呼び出しに応じてやったんだ。――少しは友情に報いる気になったか?」

 返事の代わりに逢坂の唇が耳元に寄せられる。ゲイのカップルにでも勘違いされたのか、テーブル席で飲んでいる学生風のグループから奇異の視線を向けられるが、そんなものに動じるほど、藍田も逢坂も繊細ではない。
 もたらされる逢坂の囁きに耳を傾けていた藍田だが、次第に自分の顔色が変わっていくのを感じる。
 ようやく逢坂が体を離したとき、思わず鋭い声を発していた。

「そんな大事なこと、人を呼び出す前に、電話で言えっ」
「藍田の顔を見たかったんだよ。なんといっても、ぼくの数少ない、大事な友人だからな」

 逢坂をさらに怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、そんな時間すら惜しいことに気づき、藍田は立ち上がってアタッシェケースを手にする。財布を取り出そうとすると、逢坂がひらひらと手を振った。

「今夜はぼくの奢りだ」

 一度は出しかけた財布を引っ込めた藍田は、その場を立ち去ろうとして、どうしても気にかかることがあり、踏みとどまる。逢坂が憎らしい表情で首を傾げた。

「なんだ。感謝の言葉でも述べてくれるのか?」
「そうするのが人間としての道理なんだろうが、わたしの理性がそれを拒絶する……」

 人の気も知らず、逢坂は派手な笑い声を上げた。

「だったら、無事にこの件が片付いたとき、ぼくに奢ってくれ」

 藍田はその条件を承諾して、足早に店をあとにした。



 藍田が急いでオフィスに戻ると、すでに残っている部下たちの数は三人ほどになっていた。残業を好まない藍田の教育が行き届いている――と今は満足している状況ではない。

「藍田さんっ……」

 残っている部下の三人のうちの一人である堤が、驚いたように声を上げる。
 堤と顔を合わせづらいと考えながら一度は退社したというのに、会社に戻ってきて本人と顔を合わせる瞬間まで、藍田の頭から完全に堤のことは抜け落ちていた。自分の感情にこだわっていられるほど余裕がなかったのだ。

「なんだ、まだ残っていたのか」

 堤の側を通り過ぎながら平淡な声をかけると、堤は電源の入ったノートパソコンを示す。

「今日の打ち合わせの報告書をまとめていたんです」
「……急がなくていいぞ。わたしも、すぐに目を通せるとは思えないからな」

 まっすぐ見つめてくる堤の眼差しが、いつもと違うように感じた。考えすぎなのかもしれないと思いつつも、藍田はあえて堤の顔からわずかに視線を逸らし続ける。
 自分のデスクについてアタッシェケースを開いたところで、窓際を見る。残っている社員も少ないため、新機能事業室のオフィスはすべてのブラインドが下ろされていた。そのため、向かいのオフィスにはまだ電気がついているのか、座ったままでは確認できない。

 必要なものを取り出したアタッシェケースを足元に置いたところで、待ちかまえていたように堤が勢いよく立ち上がり、こちらにやってきた。藍田はあえて気づかないふりをして、デスクの側に置いてあるキャビネットに移動すると、鍵を使って扉を開ける。

「――藍田さん、帰られたんじゃなかったんですか?」

 デスクの向こうに立った堤に声をかけられ、ファイルの背表紙に指先を這わせながら藍田は答える。

「帰ったんだが、早めに片付けておきたい仕事を思い出した」
「俺に手伝えることはありますか?」

 予測したとおりの堤の言葉に、思わずため息が洩れてしまう。

「必要ない。それより、早く帰れ。報告書は明後日まででいいから」

 必要以上に冷たい声で応じた藍田だが、堤がデスクを回り込んで近くにやってきたので、わずかに動揺してしまう。もちろん、表情に出しはしないし、堤を相手にしながらも、指先ではファイルを追い続けていた。

「……昨夜は、あなたをからかうつもりで、あんなことをしたわけじゃありません」

 突然、切り出された話題に、反射的に顔を上げた藍田は堤にきつい眼差しを向けていた。部下たちの大半が帰っているせいで、人目は気にしなくていい。ただし、人気がなくて静かな分、声を抑えての会話とはいっても、辺りに響きそうな危惧があった。それでなくても今は、気が急いている。込み入った話は、高ぶった神経が拒んでいた。

「堤、今日は帰れ」
「あなたの命令なら」
「命令だ。わたしは至急、処理しなければいけない事案がある。――会社を揺るがすような問題が起こったんだ」

 大げさでもなんでもない。逢坂から聞かされたのは、まさにそんな話だったのだ。
 藍田が本気で言っていると察したらしく、堤は表情を引き締めて頷いた。

「わかりました」

 頷いた堤が次の瞬間には背を向けて行こうとしたので、咄嗟に藍田は声をかけていた。

「お前がからかっていたとか、そんなことは思ってない……。ああいう状態になったのは初めてだから、どう対処すればいいのかわらかなかったが、わたしにとっては多分、お前がしてくれた方法がよかったんだと思う」

 我ながら回りくどい言い方だと自覚はあるが、感じる羞恥を押し殺しながらだと、どうしてもこんな言い方しかできないのだ。それに、聞こえていないとは思うが、他に残っている二人の部下の目と耳が気になる。

「――……いろいろと言いたいこともあるだろうが、今晩はもう勘弁してくれ」

 肩越しに振り返った堤が、いつもの生意気な笑みを浮かべた。

「あなたを困らせるのは、俺の本意じゃありません。それと――」

 堤が窓を指さしたので、思わず藍田も同じ方向を見る。

「大橋さんも、今日は残業みたいですよ」

 眉をひそめて堤を睨みつけようとしたが、そのときにはもう、堤は自分のデスクに戻っているところだった。
 藍田は言いたいことをぐっと飲み込むと、キャビネットの鍵をかけ、必要なファイルを手に乱暴にイスに腰掛ける。深く息を吐き出し、会社に戻ってくるまでの間にタクシーの中でめまぐるしく考えたことを、一度整理する。

 デスクの上に置いたファイルは、リスクマネジメント室から渡されているマニュアルだ。緊急事態が起きたとき、どう対処すべきかまとめられているのだ。
 藍田はすでに、新機能事業室用のマニュアルを持っているが、これは事業部統合に関するプロジェクト用に、新たに配布されたものだ。何事もなく無事にプロジェクトが進むとは思っていなかったが、まさか早々に使うことになるとは思わなかった。

 ファイルを開いた藍田は手順を確認してから、受話器を取り上げる。このとき、帰り支度を整えて立ち上がった堤と目が合ったが、藍田の雰囲気が只事ではないと気づいたらしく、目礼だけして立ち去った。
 ブラインドの向こうにいるはずの男のことも、今は強引に頭から追い払う。あちらはあちらで、仕事が忙しく、藍田のことなど考えもしていないはずだろうから。

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