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緊急事態の男1
しおりを挟む藍田には珍しく、この日は定時を少し過ぎた時間には帰り支度を整え、アタッシェケースを手に立ち上がる。
反射的に視線は、堤のデスクに向くが、肝心の堤の姿はそこにはない。朝、わずかな時間だけオフィスに顔を出したあと、あるプロジェクトの企画をまとめるため、東和電器の子会社に向かったのだ。
予定帰社時間では、そろそろ戻ってきても不思議ではないが、藍田が堤の帰りを待つ必要はない。藍田がオフィスを出ようとすると、珍しく早い帰宅に、女性社員が目を丸くして眺めていた。
エレベーターホールに立った藍田がまず先にしたのは、上の階に向かうエレベーターから降りてきた社員たちの顔を素早く確認することだった。その中に堤がいるのではないかと思ったのだ。
昨夜、あんなことがあったせいで、堤とどう接すればいいのかわからない。藍田はアタッシェケースを持ち替えると、昨夜堤にしっかりと握られた自分の手を見つめる。
あのときは、大橋に抱き締められた動揺から、自分もおかしかった、と藍田は認める。そうでなければ、部下に、しかも同性に手を握られる行為を許すはずがない。挙げ句、手の震えが治まるまで、そんな異常な行為を許していたのだ。
今日になって、まともに堤の顔が見られなかった。上司としての威信が崩れたとかいう大層な気持ちからではなく、とにかく自分の不甲斐なさを恥じたからだ。当の堤は何事なかったような態度だったが、かえってそれが、気をつかわせているようにも思える。
しかも、昨夜から一睡もできなかったせいもあり、体調がよくない。最近は少しはマシになっていた胃痛もぶり返したようで、一日中、シクシクと痛み続けている。こんなときは、早めに仕事を切り上げて、自宅で静養するのが一番いい。
だから今日は、残業もせず帰途に着いている――わけではなく、よりによって人と会う約束が入っていた。
断ってしまおうかと、考えなかったわけではない。ただ、誰もいない部屋に帰ったところで、今夜もまた、昨夜の出来事を何度も思い返すのはわかりきっている。堤に手を握り締められるきっかけとなった、大橋の行為を。
ふいに、大橋の力強い腕の感触が蘇り、小さく体を震わせる。
これだ。この感触が昨夜からずっと、藍田を苦しめ続けているのだ。何かの拍子に蘇っては、一気に集中力を奪われる。手の震えは止まっても、いまだに動揺し続けているということだろう。
今この瞬間、大橋が目の前に現れ、いつもの笑みを向けてきたら、無駄にハンサムな大橋の顔を殴りつける自信が藍田にはある。激しい羞恥と怒りを処理できるなら、それぐらいの暴挙はたやすい。しかし現実は、藍田は大橋と顔を合わせる勇気を持たない。大橋と会いたくなかった。だから一日中、外を見ないためにブラインドを下ろしていた。
エレベーターで一階に降りると、歩きながら広いロビー見渡す。大橋と堤、どちらを警戒しているのか、もう藍田自身にもよくわからなくなっていた。
このとき、ジャケットのポケットの中でスマートフォンが鳴る。
「――今向かっている。おとなしく待っていろ」
素っ気なくそれだけを告げ、相手の言葉も待たずに通話を打ち切った。
藍田は会社近くでタクシーを停めて乗り込むと、行き先を告げる。向かう先は、藍田の数少ない行きつけの店の一つだった。
夕方の渋滞をなんとか抜け出し、三十分後にタクシーを降りた藍田の目の前にあるのは、小さなビルの前だった。このビルの三階にあるワインバーが、待ち合わせ場所だ。
店の扉を開くと、入り口からもっとも遠いカウンター席についた男がすかさず手を上げて寄越してきた。すでにスーツのジャケットを脱いでおり、ワイングラスを片手にすっかり寛いでいるようだ。
「お前に会う前に酔っ払うかと思った」
藍田が隣に腰掛けると、澄ました顔で『友人』がさらりと嫌味を言ってくる。
「……人の予定も聞かずに、勝手に待ち合わせ時間を決めるからだ」
グラスワインと生ハムなどを頼んでから、藍田は改めて隣の席に視線を向ける。
藍田にとって数少ない友人である逢坂は、チーズをつまみに美味しそうにワインを一口飲んでから、意味深に横目で笑いかけてきた。
「仕事上がりなんだから、もう少し楽しそうにしろよ。相変わらず、辛気臭いな」
「お前は相変わらず口が悪い」
淡々と言い返すと、何がおかしいのか、逢坂は声を上げて笑う。もう酔っているのではないかと、藍田は少々心配になる。実は今日、重大な話があるといって逢坂に強引に呼び出されたので、まともに頭が働いてくれないと困るのだ。
眉をひそめる藍田の前に注文したものが置かれると、促されるままワイングラスを手にする。逢坂が自分のグラスを軽く触れ合わせてきて、小さく澄んだ音が鳴った。
「――藍田、お前は薄情だ」
いきなりの逢坂の言葉に、藍田はそっと眉をひそめる。別に気を悪くしたわけではなく、逢坂の言動の唐突さに呆れていたのだ。これは今に始まったわけではなく、大学時代に知り合ったときから、こうだ。
「薄情が嫌だというなら、わたしに情熱的なものでも求めているのか」
「暑苦しいから、感情的な奴は嫌いなんだけどな、ぼくは」
「……帰るぞ」
藍田の洩らした一言に、逢坂は低く声を洩らして笑いながら、容赦なく背を叩いてくる。いつになく機嫌はよさそうだが、逢坂の場合、機嫌がいいから周囲の人間も幸せな気分になるかというと、そうでもない。
基本的に、他人の不幸に愉しみを見出す、嫌な嗜好を持った男なのだ。
逢坂が機嫌がいいということは、自分に関する不幸を何かしら掴んでいるということだろうか――と推測し、藍田は心底、帰りたい気分になる。
逢坂の、邪気がありすぎるからこそ天真爛漫ともいえる人間性と友情を保てるのは、鋼のようなタフな神経か、すべてを凍り尽くすほどの冷めた性格をした人間のどちらかだ。こんなエキセントリックな男を上司に持つと、部下は毎日、胃が痛い思いをしているだろう。
藍田はワインを少し口に含んで味わってから、逢坂の横顔を眺める。
曽祖父がロシア人だったという逢坂は髪と瞳の色素が少し薄いが、顔立ちは日本人以外の何者でもない。ただし、無駄に華やかで端麗な容貌をしている。着ているスーツも、自分の姿が一番映えるということを念頭に置いているらしく、ヨーロッパの高級ブランドのものだ。
自分の地味な存在感に安堵を覚え、華美で目立つことが嫌いな藍田とは、外見から嗜好まで、何から何まで対照的だ。それでいてつき合いは、大学時代から続いている。アクの強すぎる逢坂もまた、友人が少ない男なのだ。
しかも、お互い性格に問題があるのか、そもそも執着そのものがないのか、いい歳をして、いまだに独身同士だ。
「――雑誌、読んだぞ」
藍田の前に置かれた皿から、勝手に生ハムを摘まみ上げて逢坂が言う。一瞬ピンとこなかった藍田は首を傾げたが、楽しげな逢坂の顔を見て、やっと察した。
「ああ、あれか……」
藍田と大橋がそれぞれ取材を受け、記事になったものが掲載された雑誌が発売になったのだ。見本誌をもらったが、藍田はまだ目を通していない。
「そう。あれ。偉いねー、出世したねー、藍田。東和電器内の権力争いを左右するような一大プロジェクトを任されて」
逢坂が皮肉混じりで言っているのは明らかだ。しかし、そんなことで目くじらを立てるほど、藍田も狭量ではない。二人の間での嫌味や皮肉など、日常会話だ。
「ぼくなんて一介の、特許管理室の室長だから、大層なプロジェクトを任されることなんてない」
「……細かい部分まで目を凝らして、人の揚げ足を取るのが得意なお前には、天職だろう。知的財産管理部での仕事は」
逢坂は、東和電器とはライバル関係にある大手電器メーカーに勤めている。肩書きは、本人が語ったとおりだ。電器メーカーにとって、扱う商品に関わる特許は、いわば生命線に等しい。何かあれば、即座に特許侵害だといって、訴訟を起こされるのだ。たとえ、言いがかりのような理由であろうとも。
それだけシビアな世界で、大企業の特許戦略の一翼を担っているだけあって、逢坂は有能だ。誰にも臆せず、ワイヤー並みのふてぶてしい神経をしている逢坂にとって、世界中の大小を含めた企業を相手にする仕事は、楽しくてたまらないだろう。
藍田も今の仕事が気に入っているが、事業部の統合というプロジェクトに関しては、正直、複雑な心境だった。別に、他人から恨みを買うのが嫌なわけではない。ただ、この仕事でどんな充足感を得るべきなのだろうかと、ずっと疑問に感じているのだ。
また胃が痛んだ気がして、藍田が軽く顔をしかめる隣で、逢坂が新しいワインを頼む。
「仕事柄、アメリカの特許管理会社の人間と話すことがあるんだ。まあ一種の、投資ファンド会社みたいなもんだな。目をつけた特許を、出資者を募って買い取り、他の企業に高く売りつけるんだ。いやらしいことも平気でする連中だから、ぼくは好きじゃないんだが、そういう連中は総じて鼻が利く――」
また逢坂が、唐突に話を始める。しかしこれは重大な話らしく、逢坂の端麗な横顔は真剣な表情を浮かべている。
「やけに、東和電器の内輪揉めに詳しいんだよ、ぼくが話した相手。特許専門に扱う弁護士で、ニューヨークにいるんだが。で、ぼくはすぐにピンときたね。東和電器の中の人間と通じているって。だから、適当な相槌を打ちながら聞いてたんだが、そいつの口から、ロクでもない話が出た」
「……お前がそこまで言うなら、わたしが卒倒するレベルの話かもしれないな」
憎たらしいことに、逢坂がニヤリと笑いかけてくる。
「何、繊細ぶってるんだよ、藍田。お前が動揺するところなんて、十五年以上のつき合いになるけど、ぼくは両手の指で足りるぐらいしか見たことないぞ」
「わたしは、お前が動揺した姿は、片手の指で足りるぐらいしか見たことない」
お互いすぐに、不毛な言い合いだと気づき、一度口を閉じると、黙ってワインを味わう。もっとも藍田のほうは、表面上は落ち着いたように見せていても、話の続きが聞きたくて焦っていた。確信に近いほど、嫌な予感がする。
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