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羞恥する男
しおりを挟む藍田は少しの間、現状が何も認識できなかった。まばたきもせずに立ち尽くしていたが、実は、目の前の景色がまったく見えておらず、すべての音すら遮断されていた。ただ呆然としていたのだ。
心臓すら止まっていたのではないかと思ったが、ふいにドクンッと大きな鼓動を感じ、胸を強く圧迫されたような息苦しさに我に返る。
この瞬間から、藍田は世界を取り戻す。目の前の景色を見て、耳が音を感じ取っていた。
遠ざかる足音を聞き、ハッとして振り返ると、入れ違いのように別の足音が近づいてきて、パーティションの向こうから人影が現れる。いつになく厳しい表情をした堤だった。
いつの間に、と思ったのは一瞬で、さきほど呼びかけられたことを思い出した。まだ頭が混乱しているらしい。物事が順序立てて考えられず、寸前まで自分の身に何が起きていたのか、そんなことすら思い出せない。
いや、思い出すのを拒絶しているのかもしれない――。
「藍田さん?」
堤に呼びかけられ、ビクリと体を震わせる。いつの間にか堤は目の前に立っていた。記憶が飛びかけているのか、意識がおかしいのか、もう藍田自身にもよくわからない。
「……堤、か……」
「堤ですよ」
そう言って堤は笑い、手にした袋を掲げて見せてきた。
「まだだろうと思って、メシ買ってきました。この時間、テイクアウトできる店って近くにないんですよね。コンビニ弁当ってわけにもいかないし」
堤はさっさとデスク上の空いたスペースに、袋の中から取り出した容器を並べていく。
「適当に買ってきたんで、好きなものだけ食べてください。えーと、これがリゾットで、こっちはトマトソースのパスタに、カルボナーラもあります。それと、サンドイッチの詰め合わせと、サラダとスープ。飲み物は、紅茶とウーロン茶。他の飲み物がいいなら、自販機で買ってきます」
藍田はデスクに並べられたものを眺め、小さく苦笑する。
「……多すぎだろう、これ」
「俺も食べるんで、ご心配なく」
緩慢に視線を上げた藍田は、堤の顔を見つめる。そんな藍田を安心させるように、堤は恭しくイスを示した。
「座ってください。立ったままだと食べられないですよ」
ただイスに座るだけなのに藍田は決断できず、その間、堤は急かしもせずに辛抱強く待っていた。
藍田は、大橋が消えたパーティションの向こうを気にする。
「――大橋さんなら帰りました」
堤の言葉に微かに肩が揺れた。急に足元が大きく揺れる感覚に襲われ、結局藍田は、イスに腰掛けていた。近くのデスクからイスを持ってきた堤が傍らに座ったが、今は気にならない。
容器の蓋を外していく堤の動きを無意識に目で追いながら、藍田はさきほど自分の身に起こったことを思い返す。
資料倉庫で偶然触れ合ったのとは違う。大橋は、自らの意思で藍田を――抱き締めてきた。きつく。
スーツを着ていても大橋の体温の高さや、逞しさを感じることはできた。突然のことに藍田の頭の中は真っ白になっていたが、それでも感覚だけはやけに研ぎ澄まされ、与えられた大橋の感触はすべて覚えていた。首筋に触れた熱い息遣いすらも。
同性同士で、同僚同士で、ありえない接触の仕方だ。あれではまるで、恋人に対する抱擁そのものだ。
藍田が心配だと言った口で大橋は、どうして藍田を抱き締めているのかかわからないとも言った。なのに、体を離そうとはしなかったのだ。
大橋が錯乱したと、まず最初に藍田は思ったのだが、抱き締めてくる腕の強さを感じているうちに、そうではないと気づいた。行動はおかしかったが、別に大橋は錯乱していたわけではない。
大橋に何が起こったのか知りたかったが、その前に、大橋が身にまとう甘い香水の香りを嗅いだ。頭の中が真っ赤に染まるほどの激しい感情に襲われ、大橋を突き飛ばしていた。行為そのものよりも、大橋からした香水の香りのほうが、ひどく許せなかったのだ。
大橋もおかしくなったが、自分もおかしくなってしまった、と藍田は思う。おかげでまだ、思考が空回りしている。起こった出来事を整理するのがやっとで、それに感情が伴わない。
いままで経験したことがないほど、藍田の感情はあらゆるものが入り乱れ、自分でコントロールができなかった。
大橋の行為に対して、怒ればいいのか、悲しめばいいのか、戸惑うべきか、鼻先で笑うべきか、それとも――。
藍田の体はカッと一気に熱くなる。本当は、大橋の腕の中に閉じ込められた瞬間からわかっていたのだ。自分が、身を焼かれそうなほど羞恥していたことを。
「藍田さん、準備できましたよ」
堤に声をかけられ、考えることに没頭していた藍田の意識は現実に戻される。
視線を上げると、優しい表情をした堤が見つめていた。ただ、そういう表情に慣れていないのか、口元の辺りがぎこちない。やはり堤は、挑発的で生意気な表情が生来のものなのだろう。
些細なことに気づく程度には、藍田の頭は冷静さを取り戻している。だが、肝心の感情が心もとない。まだ、意識と体の半分が、大橋の腕の中に捕らえられているようだ。
プラスティックのフォークを差し出され、食欲はなかったが無視するわけにもいかず藍田は片手を伸ばそうとする。そこでやっと、自分の異変に気づいた。
伸ばしかけた手が、小刻みに震えている。動揺はまだ、藍田の中から去っていなかったのだ。
「あっ……」
咄嗟に手を引こうとしたが、その前に堤に素早く掴まれる。
「震えてますね」
強い眼差しを向けてきた堤は、そう言って藍田の片手をきつく握ってくる。思いがけない行動に藍田は軽く目を見開きはしたものの、どう反応していいかわからず、声を荒らげることすらできない。
生理的な嫌悪感でも湧き起これば、手を抜き取るぐらいしたのだろうが、それもない。考えてみれば大橋に抱き締められたときも、嫌悪感だけは抱かなかった。自分はもしかすると危機感が乏しいのかもしれないと、心の中で呟きながら、藍田は体から力を抜く。
「……ためらいもなく、よく男の手なんて握れるな」
すると堤が唇を綻ばせる。
「なんだ?」
「やっと、藍田さんがまともに話してくれたと思って」
いろいろあったんだ、という言葉は声となっては出てこなかった。藍田はゆっくりと息を吐き出したが、その息もまだ震えを帯びている。体の奥から震えが湧き起こって、止まらない。
そんな藍田を真っ直ぐ見据えてきながら、堤に問いかけてくる。
「――怖いんですか」
示し合わせたように二人の視線は、重なった手へと向けられる。藍田の震えを吸い取ろうとするかのように、堤はきつく手を握り締めたままだ。
熱いほど体温の高い大橋とは違い、堤の手はひんやりとしている。そんな比較をした自分に、藍田はさらに羞恥心を刺激された。
「空調が寒いわけではないでしょう。それに藍田さんの手、熱があるのかと思うぐらい熱くなっていますよ」
「……回りくどい言い方をするな」
「だったら、一人でオフィスにいて、不気味だったとか」
藍田が目を丸くすると、堤は笑みを向けてくる。どうやら堤なりの冗談らしい。
「お前の冗談は、基本的に笑えない」
「それは藍田さんが手厳しすぎるんですよ」
「わたしだって冗談ぐらい解する」
「――……さっき、大橋さんと何かあったんですか」
反射的に手を引きそうになったが、しっかり堤に握られているため、動けなかった。
藍田に言う気がないと察したらしく、堤は肩を竦める。
「わかりました。俺が来る前に何があったかは聞きません。だから――」
堤の提案を、普段の藍田なら目を吊り上げて一蹴するだろう。だが今の藍田は、とにかく気持ちが大きく揺さぶられていて、普段とは違う。自分の身に起こったことの意味がわからなくて、混乱したままだ。
「……好きにしろ」
小さな声で藍田が応じると、堤は両手で、まだ震えている手をしっかりと包み込んでくる。堤の手は、見た目よりずっと硬い感触をしていた。
男の手など握ってくる堤をよくわからないと思ったが、藍田が何よりもわからないのは、男の体を抱き締めてきた大橋の存在だ。
ここで藍田は、ああ、そうか……、と口中で洩らす。
わからないからこそ、自分は不安でたまらないのだ。だから、いつまで経っても震えが治まらない。
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