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謝る男2
しおりを挟む重みのあるファイルが落ちる派手な音はいつの間にか止み、紙が床に舞い落ちる音だけが、資料倉庫内に響く。少し遅れて、大橋の声も。
「――いってー。角は、痛い……。ファイルの角は痛い」
間の抜けた台詞に、我に返った藍田はそっと視線だけを動かすと、思いがけず大橋の顔が間近にあり、心臓の鼓動が大きく跳ねる。同時に、後頭部と背に大橋の手がかかったままなのだと気づく。
一方の大橋も、藍田のほうを見て驚いたように目を見開き、なぜかそのまま動きを止めた。食い入るように、ただ藍田を見つめてくるのだ。
咄嗟のこととはいえ、藍田も大橋のジャケットを握り締めていた。
この瞬間、藍田は激しく動揺していたのかもしれない。その証拠に、どうして自分たちがこんな近い距離で見つめ合っているのか、わからなくなっていたからだ。もしかすると大橋も同じだったかもしれない。
「あー……」
意味なく声を洩らした大橋が、戸惑ったように視線を伏せる。藍田は視線を壁のほうに向けながら、やっと声を発することができた。
「……痛いんだ。そろそろ、離してくれ」
数秒の間を置いてから、飛び退く勢いで大橋が体を離す。
「大、丈夫、か……、藍田」
「あんたにギリギリと締め上げられるんなら、ファイルに降られたほうがよかったかもな」
「バカ野郎。ファイルの角は立派な凶器だぞ」
そう言って頭を撫でた大橋が、フッと笑いかけてきた。藍田が段ボールに足を取られる寸前まで、自分たちがどんなやり取りをしていたか忘れたようだ。
大橋を怒らせ、遠ざけようとしていた気持ちが空回る。自分は何をムキになっていたのかと、藍田自身も拍子抜けしていた。だから、大橋の側にいるのは嫌なのだ。こうしてペースを乱されてしまう。
まだ身構えている藍田に対して、大橋は大きな段ボールの一つを指さした。
「座れよ。そう急いで帰ることもないだろう」
大橋が段ボールに腰掛けたのを見て、少しの間逡巡してから、藍田も結局、向き合う形で座っていた。それでなくても資料などで狭くなっている場所だ。二人はほとんど膝を突き合わせる格好となっていた。
すぐ目の前に大橋がいるということで、藍田は居心地が悪くて落ち着かない。すぐに資料倉庫から出るべきだったと後悔するが、もう遅いようだった。
「――きちんと検査は受けたのか」
突然話しかけられ、ハッとして藍田は顔を上げる。大橋が真剣な顔をして身を乗り出してきていた。
「なんのことだ……?」
「一週間前のことだろうが。病院で胃カメラの予約を入れたと言ってたのは」
「入れたんじゃなく、入れられたんだ」
どっちでもいい、と言いたげに大橋が軽く鼻を鳴らす。
「で、受けたのか」
なぜそんなことを知りたがるのだろうかと思いながら、仕方なく藍田は答えることにする。大橋の性格からして、答えなければここから出ることを許してくれないだろう。
「……昨日、受けた。ついでに、血液検査の結果も聞いた」
「それでどうだったんだ」
「胃潰瘍は良性で、ストレスが原因だろうと言われて薬を出してもらった。それで一か月後に再検査だ。血液検査は、やっぱり軽い貧血だった。……胃潰瘍が原因だったみたいだ。栄養をうまく吸収できてないらしい」
藍田が素直に話したことに、大橋は満足そうに頷く。その仕草が、なんとなく癪だ。
「つまり、よく食って、ストレス解消すればいいってことか。簡単だな」
「どこが簡単だ。あんたと違ってわたしは、日ごろから神経を使って仕事しているんだ。ストレスと無縁でいられるはずがないだろう」
「――なら、しっかり食え。それはお前の意思でどうにでもなることだ」
急に厳しい表情で大橋に言われ、咄嗟に言葉が出てこなかった。藍田はぎこちなく視線を伏せると、ぼそぼそと応じる。
「努力は、する……」
「何? 聞こえんぞ」
「努力すると言ったんだっ。だいたい、あんたはなんのつもりだっ。わたしの保護者にでもなったつもりか」
本人に自覚はなかったのか、大橋は目を丸くしてから、ガシガシと頭を掻く。藍田も、自分がどうしてこんなにムキになるのか、よくわからなかった。とにかく、大橋にかまわれると落ち着かないのだ。
「お前みたいにクソ生意気な奴の保護者になる気はないが、俺たちは手を組んだし、お前のバリアーになるとも言ったしな。最低限、お前には健康でいてもらわないと困る。俺の仕事にも関わってくるんだ」
前触れもなく、大橋の顔にファイルを投げつけたい衝動に駆られたが、さすがにそれは、藍田の中の常識が引き止めた。これでも大橋は年上だし、何より社内での立場も、上なのだ。
なのに大橋は、さらに余計なことを言う。
「お前のことだから、どうせ俺ぐらいしか、心配してくれる奴もいないだろう」
藍田は素早く立ち上がり、帰ろうとしたが、すかさず手首を強い力で掴まれた。思いがけず大橋の高い体温を直に感じ、うろたえた藍田は振り返ったまま一歩も動けなくなり、見つめる先で大橋も、不自然に動きを止めている。
時間が止まったような気がした。
藍田は半ば呆然として大橋を見つめるが、その大橋も、どこか惚けたような表情で藍田を見上げてくる。強く意識するのは、掴まれた手首から感じる大橋の力の強さと、生々しい体温だけだ。
ようやく、こうして見つめ合っていることに不自然さを覚え、わずかに視線を逸らして藍田は訴えた。
「――……大橋さん、手、離してくれないか。痛いんだ」
「あっ、ああ……」
完全に立ち去るタイミングを逃した藍田は、恨みがましく大橋を睨みつける。肩をすくめて苦笑した大橋は、再び向かいの段ボールを示した。
「座れよ」
逆らう気力も湧かず、藍田は素直に腰掛け直す。
「まだ何かあるのか……」
「お前に言おうと思って、ずっと忘れていることがあったんだ」
「くだらないことなら――」
「俺たちの味方のことだ。いや、敵には回らない人間、といったほうがいいな。でも、頼りにはなるし、おそらく信頼もできる」
大橋の眼差しが真剣すぎて、まっすぐ見つめ返せない藍田は何げなく自分の手首に視線を落とす。大橋に掴まれたばかりの手首には、うっすらと指の跡が残っていた。
バカ力、と藍田は心の中で洩らす。
「……この間、居酒屋であんたに引き合わされた人間の中にいたとか言うんじゃないだろうな」
「わが社の監視者、といえばわかるか?」
それが誰を指しているのか、すぐに理解できた。藍田は即座に顔を上げる。
「管理室の宮園室長、か?」
「この間、呼び出されてな。珍しいだろう? 一歩引いたところから、会社を眺めているような印象のある人が、騒ぎの渦中にいる俺を自分の執務室に呼ぶなんて。何を注意されるのかと身構えていたんだが――何を言われたと思う?」
こう尋ねてきたときの大橋の表情は、まるでイタズラの相談を持ちかけてくる悪ガキそのものだった。
不思議なほどその表情は憎めなくて、こういうところがきっと、他人を惹きつける魅力の一つなのだろうなと、漠然と藍田は考えていた。
「おい、藍田、少しは考えてるか?」
段ボールから腰を浮かせた大橋に顔を覗き込まれ、心の中を覗かれたような気がした藍田はうろたえる。誤魔化すように顔を背けていた。
「知らない。早く言ったらどうだ」
「……おもしろみがねーな、お前は。今に始まったことじゃないが。――管理室として、できる範囲で協力すると言ってくれた。藍田さんにも、そうお伝えください、だそうだ」
背けた顔を、藍田は再び大橋に向ける。それぐらい、意外なことだったのだ。一方の大橋は、藍田の反応に満足そうだ。
「厳格なはずの監視者も、退屈していたらしい。宮園さんはどうやら、俺とお前という組み合わせをおもしろがっているようだな。会社そのものについても、思うことがあるんだろう。会社が目指すものとは逆の方向も見てみたいし、イレギュラーな存在を認めるのもおもしろい――」
「宮園室長の言葉か?」
「そう。面と向かって言われたら、お前ならムッとくるだろう」
ムッとはしないが、少し複雑な心境にはなる。
自分と、管理室室長である宮園は似ている部分を持っていると、藍田は常々感じていた。自分は数字で、宮園は法規によって、物事や他人を常に冷静に判断しているという点だ。
「……社内に、自分の感情を持ち込む人だとは思っていなかった」
「宮園さんか?」
「ああいう人でも、今の会社に多少の不満を感じているんだな……」
「お前はないのか?」
「わたしは――」
返事に窮して藍田は唇を引き結ぶ。不満はあるが、その現状を受け入れることに、あまりに慣れすぎたのだろう。任されたプロジェクトは、そういう意味で、藍田の目を覚まさせたといえるかもしれない。
胃薬を服用しながら仕事をこなしていた挙げ句が、捨て駒扱いだ。
つい藍田は、引き結んだばかりの唇を歪めるようにして笑ってしまう。すると今度は、大橋がうろたえたように目を剥き、まじまじと見つめてきた。
「ど、した……? 急に笑ったりして」
誰もかれも、わたしが笑うと、そんなに珍しいのか。藍田は心の中で呟いたが、口にしたのは違う言葉だった。
「どこまでいっても、わたしは誰かの駒なのかと思ったら、笑えてきた」
藍田は口元に手をやり、歪な笑みを消す。こういう笑い方をすると、ただでさえ乾いた心が、さらに荒みそうだ。それに、物珍しげに見つめてくる大橋の視線が、なんだか腹立たしい。
もう戻る、と低く告げて立ち上がった藍田に、大橋はこう声をかけてきた。
「だったら俺たちも、宮園さんを利用すればいい。あの人も、そのつもりで俺に声をかけてきたんだ」
ドアノブに手をかけて振り返ると、大橋も立ち上がるところだった。
「利用……?」
「お前なら、あの人の利用の仕方が思いつくだろう。俺は根が単純だから、ああいう人の相手をするのは苦手なんだ。その点、お前と宮園さんは気が合いそうだ」
「なんだか含みがあるな」
藍田の言葉に答えず、毒気が抜けるような笑みを浮かべた大橋がこちらに近づいてこようとしたので、すかさず鋭い声で制する。
「あんたは、もう少しここにいろっ」
「えっ、なんでだ」
抜け目がないかと思えば、妙なところで大橋は間が抜けている。
「こんな密談にうってつけの場所で、あんたと二人でこそこそしているところを誰かに見られたら、何を言われるか――」
「いまさらという気もするが」
飄々とした口調と表情で返され、一瞬カッとした藍田は、段ボールの上に置かれたファイルを掴み上げると、大橋に向かって投げつける。
「おわっ。お前なあ、さっき言っただろ。ファイルの角は痛いんだよ」
「うるさいっ。五分間、そこでじっとしていろっ」
藍田はそう言い放ち、乱暴にドアを開ける。最後にもう一度振り返り、念を押した。
「……動くなよ」
大橋は苦笑しながら頷いた。
「わかったよ」
ここで急に冷静になった藍田は、寸前の自分たちのやり取りを恥ずかしく感じながら、逃げるようにして資料階をあとにした。
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