サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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謝る男1

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 受話器を置いた藍田に、すかさず堤が言った。

「俺、今から倉庫に行ってきます」

 立った姿勢のままデスクに片手をついた藍田は、ゆっくりと堤に視線を向ける。一瞬、なんのことを言っているのだろうかと思ったが、すぐに自分を取り戻せた。
 寸前までの大橋の電話のことを言っているのだ。

 らしくないことだが、大橋に怒鳴られた藍田は、まだ少し動揺していた。別に、怒鳴られたことがショックだったというわけではなく、受話器越しに聞いた大橋の真剣な声そのものに反応してしまった。意外なほどあっさりと、大橋の声が胸の奥に届いた、というべきか。
 会社では常に完璧なガードを身につけている藍田の耳と心には、特殊なフィルターがかかっている。そのフィルターのおかげで、他人の言葉で傷つくことも、動揺することもない。そのはずだった――。
 なのに大橋の怒声は、簡単に藍田のフィルターを通ってしまったのだ。

「藍田さん?」

 堤が訝しむように眉をひそめたので、大丈夫だと小声で答えた藍田は、ブラインドを下ろした窓のほうを見る。思わず、こう洩らしていた。

「……面倒な男だな」

 さすがの藍田も、大橋が怒っていたのはよくわかった。怒っていた理由は、資料倉庫の件だけではないだろう。おそらく、一週間前の藍田自身の発言のせいだ。あれは大橋を遠ざけようと思って、わざとひどい言葉を選んだので、ある意味、大橋の反応は当然だといえる。
 それでもなお、藍田に直接電話をしてきたのだから――面倒なのだ。こんな表現が適当なのかどうかよくわからないが、他に言葉が浮かばない。

「他の部署から頼まれて回収した資料を、倉庫に移動させたのは俺の判断ですから、俺が大橋部長補佐に説明して、謝罪してきます」
「いい。わたしが行く」

 咄嗟に出た言葉に、堤が目を丸くしたのはともかく、言った藍田自身が驚いた。大橋とはもう関わらないと心に決めていたはずなのに、それをたった一週間で翻すことになったのだ。

「しかし――」
「お前に仕事を頼んだのはわたしだ。それに、ここに使わない資料を置いておくわけにはいかないから、次の回収日まで倉庫に置いておくのは当然の判断だ。わたしでも、そう指示を出す。……まあ、いままでの対応が悪かったのは、反省すべきだな。うちは、どんな資料でも大事に抱え込む性分だから」

 そう言って小さく苦笑を洩らした藍田はすぐに、堤だけでなく、他の部下たちの視線に気づいて無表情に戻る。なぜそう、人が笑うといちいち反応するのかと、部下たちに問い詰めたい衝動に駆られていた。
 堤に言って、念のため新機能事業室が使っている資料倉庫の鍵を受け取ると、何か言いたそうな顔をしている堤の気持ちを藍田は代弁してやった。

「残念だったな。大橋さんがここに怒鳴り込んできたんなら、追い返せたのに」
「……別に、あなたがわざわざ地下まで出向かなくていいのに。そういう仕事は、俺がやりますよ。バリアーって、そういう意味も含んでいると思いました」

 いつもは生意気で挑発的な堤が、このときは単なる駄々っ子のように見え、うまく宥める言葉が思いつかなかった藍田は、堤の肩を軽く叩いた。

「様子を見たら、すぐに戻ってくる」

 そう言い置いてオフィスを出た藍田は、エレベーターホールに向かいながら、自分自身の言動に正直戸惑っていた。
 大橋には堤を行かせると言っておきながら、当の堤を制して、こうして自分が出向いていっているのだ。大橋と関わるのを面倒だ、厄介だと感じていながらの、今の自分の行動はなんなのか、藍田自身、よくわからない。
 もしかすると心のどこかで、大橋との関わりを完全に断ち切ることを是としていないのかもしれない。
 大橋は利用価値のある男だが、アクも強すぎる。あの男をコントロールできると考えるほど、藍田は自分の能力を過大評価していない。むしろ、藍田のほうが大橋に引きずられる傾向がある。
 そう考えると、より藍田は混乱してしまうのだ。自分はもっとうまく立ち回れるはずなのに、なぜ大橋に対してはそうできないのか、と。

 答えが出せないままエレベーターに乗り込むと、地下二階へと向かう。最初は混み合っていたエレベーターも、さすがに地下までいく社員はおらず、藍田一人となってしまった。
 資料階の入り口で社員証をリーダーで読み取らせて中に入る。
 資料階には、夏という季節をまったく感じさせない空気が漂っている。ひんやりとして、少し乾燥した空気だ。これだけでも心地いい空間なのだが、何より静かなのがいい。

 人気のない廊下にはズラリとドアが並んでおり、藍田は奥へと歩いていったが、角を曲がったところで立ち止まった。新機能事業室の資料倉庫の前で、鍵を手にした大橋が今まさにドアを開けようとしているところだった。思わず藍田は持っていた鍵を落としてしまい、その音で大橋がこちらを見る。

「なんで、お前が……」
「あんたの八つ当たりを、堤が受け止める義理もないだろう」
「八つ当たり?」

 大橋の表情が急に剣呑となる。向けられた鋭い眼差しから逃れるように、藍田は鍵を拾い上げながら言った。

「この間のことで、わたしのことを怒っているんじゃないのか」

 顔を上げると、大橋は一瞬、決まり悪そうな表情をする。

「怒らせるようなことを言ったと、自覚はあるんだな」
「別に。ただ、あんたが機嫌を損ねる理由が、それしか思いつかない」

 大橋は何も言わずドアを開けたが、驚いたように目を見開く。その反応が気になった藍田も側まで行って中の覗き込んだが、惨状を目の当たりにして、思わず洩らしてた。

「……ひどいな」
「お前が言うな、藍田。お前のところが使っている倉庫だぞ」

 大橋に背を押されるまま資料倉庫に足を踏み入れると、電気をつけてから、改めて辺りを見回す。
 一年前に藍田が見たときは、まだ書類などはまとめて棚に収まっていたのだが、今は、棚から書類やファイルが溢れ出し、床のあちこちに段ボールが積み上げられていた。それに、新機能事業室が資料として使用した書籍の類までが、資料倉庫を侵食しており、気をつけないと足を取られそうだ。

 資料として分類できるものは、とりあえずここに放り込んだといった様子だった。それなりに広いスペースを与えられているはずなのだが、やけに狭く感じられるのは、やはり容量が限界に近いからだろう。
 いつだったか資料倉庫の様子を語った堤の表現は、決して大げさではなかったのだ。
 藍田は天井近くまである満杯の棚を見回しながら、淡々とした口調でとりあえず謝った。

「悪かったよ、大橋さん。あんたが怒るのも、もっともだ。わたしも、ここまですごいとは想像してなかった」
「俺も、ここまでひどいとは想像できなかった。……本当に、ひでーな。なんでもかんでも溜め込むなよ」
「そうは言っても、わたしが副室長になる前からのものも多いだろう」

 ここで藍田はあることに気づき、大橋に視線を向ける。ドアの横に立った大橋は、なぜか藍田を見ており、いきなり目が合った。二人同時に、うろたえたように視線を伏せる。

「なんだ、藍田」
「……ここの様子はわかったから、もう帰っていいか? 次の紙ゴミの回収日までには、少しはここをマシな状態にしておく。堤の話だと、他の部署に提供したままになっていたうちの事業室の資料が、まとめて返却されてきたんだ。オフィスに置いておくわけにもいかないから、一時的にここに移動させたらしい。別に、横着にかまえていたわけじゃない」
「お前にしては長台詞をしゃべったな。そこまでして庇ってやるほど、あの生意気そうな部下が可愛いか」
「あんたは、部下が可愛いと甘くなるのか?」

 真顔で藍田が問いかけると、大橋は目を吊り上げる。乱暴にドアを閉め、目の前まで歩み寄ってきた。

「どういう意味だ」
「深い意味はない。ただ、あんたはいつも部下と楽しそうにしていると思ったんだ。特に、女性社員と。オフィス企画部は仲がいいと評判だしな。うちと違って」

 大橋が口を開きかけたが、言葉を発する前に藍田はスッと距離を取り、無秩序に資料が詰め込まれた棚を見上げる。
 言わなくていいことを言ったと思い、まともに大橋の顔が見られなかった。そもそも大橋の職場環境など、藍田にとってはどうでもいいことだ。

「――俺たちは別に、馴れ合っちゃいないだろう?」

 突然、大橋に切り出され、ドキリとする。なるべくなら避けたかった話題を、大橋は簡単に口にしたのだ。藍田は棚に視線を向けたまま動けなかった。

「仕事上必要だから、顔を合わせたり、会話を交わしているだけだ」
「あんたは仕事の範囲を超えて、わたしのことに口出しをしている」
「許容しろ。目の前で弱っている人間がいたら、気にかけるのは当然のことだ」
「……それであんたは気が済むだろうが、わたしはペースを乱されるから嫌なんだ」

 言いながら藍田は、少し緊張していた。さすがに能天気な大橋でも、ここまで言えば激怒すると思ったのだ。まさにそこが狙いなのだが、感情的になった大橋の言葉が藍田は怖かった。大橋の言葉は、藍田が持つ見えないフィルターを貫いてくる。
 しかし予想に反して大橋は、苛立ったように自分の髪を掻き乱しながら、低く唸る。それから思い切ったように足を踏み出し、藍田の腕を掴んできた。
 腕から伝わってくる大橋の手の力強さにビクリと体を震わせ、反射的に藍田は後退ろうとしたが、ちょうど足元に置いてあった段ボールに足を取られる。

「あっ……」

 どちらが声を上げたのかよくわからなかった。咄嗟に見つめた先で、大橋も驚いたような表情をしていたからだ。
 藍田は後ろ向きのままひっくり返りそうになり、その藍田を引き戻そうとして、大橋も何かを蹴飛ばしてバランスを崩したようだった。
 大橋の大柄な体を受け止めきれず、藍田は背後の棚に思い切りぶつかりそうになったが、寸前のところで大橋の腕に背を庇われる。ただし、あとがよくなかった。
 二人が勢いよくぶつかったため、その拍子に棚からファイルや書類が落ちてきたのだ。
 素早く大橋の大きな手に頭を引き寄せられる。それだけではなく、全身を使って藍田を庇ってくれていた。
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