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頑固な男2
しおりを挟む会社のビル前でタクシーを降りた藍田は、条件反射のように周囲を見回す。大橋の姿がないか、探してしまったのだ。病院を出た時間はほぼ同じなので、寄り道でもしない限り、また会社で顔を合わせる確率は高い。
もっとも大橋は地下駐車場に車を入れ、そのままエレベーターでオフィスに上がるはずだ。ビル前やロビーで顔を合わせることはない、と思う。
「……あの男の行動は、こっちの予想を超えているからな……」
ぼそりと呟いた藍田は腕時計に視線を落とす。診察や検査は、なんとか午前中のうちに終わらせられたが、そこから時間がかかりすぎた。とっくに昼休みは終わっている。
昼休みの間に、何事もなかった顔をしてオフィスに戻るつもりだったのだが、予定が狂った。部下たちが揃っている状況で戻れば、好奇の視線に晒されるのは見えている。
それもこれも、派手に自分を連れ出した大橋のせいだ。
いまさらながら腹立たしさを覚えつつ、藍田が足を踏み出そうとしたとき、ロビーを歩いてくる一人の男性社員の姿が視界に飛び込んできた。
相手も藍田に気づいたらしく、一度足を止めたと思ったら、すぐに小走りでビルから出てきた。
「――藍田さん、大丈夫なんですか?」
開口一番に堤に問われ、藍田は眉をひそめながら頷く。
「わたしがいない間、何か問題は起きなかったか?」
「安心してください。少なくとも俺がいる間は、藍田さんの所在を尋ねる電話はありませんでした。何かあっても、所用で席を外しているとだけ告げるよう、みんなとは申し合わせていますし」
機転が利く堤の存在が、こういうときありがたい。余計なことを言われて、あとで誰かにあれこれ詮索されるのは、煩わしい以外の何者でもない。
「助かった。……手間をかけさせたな」
いいえ、と応じた堤が、何かを期待するような表情で藍田の前に立ちはだかる。
「……まだ何か用か」
「藍田さん、昼は食べましたか?」
意外な質問に目を丸くした藍田は首を横に振る。
「医務室からまっすぐ病院に行って、いままでかかったから、何も食べてない」
「だったら俺と一緒に食いに行きましょう。いまさら帰りが少し遅くなっても、誰もなんとも思いませんよ」
「お前、昼はまだなのか……」
仕事の都合で昼食を遅れてとるのは、多忙な社員にとって別におかしいことではない。藍田もそうだ。
「いつもは、適当に弁当を頼んだりするんですけどね。今日は医務室を覗いたついでに、外に食いに行こうかと思ったんです」
「医務室って、まさか――」
堤は頷き、夏の強い陽射しに目を細めながら、さまになる仕草で髪を掻き上げる。
「帰りが遅いので、点滴を受けているのかと思ったら、病院に行ってたんですよね」
「きちんと検査を受けろと言われたんだ」
ここで藍田は口を閉じる。アスファルトから立ち上る夏の熱気に、わずかに残っていた体力も気力も奪い尽くされそうで、正直、会話を交わすのも億劫になっていた。表情に出ないので誰も気づいていないだろうが、藍田は暑さに弱い。
「……堤、食事なら一人で行ってくれ。わたしは食欲がない」
「近くのビルの中に、美味い中華レストランがあるんですよ。そこに行きましょう。近いし、今ならそんなに混んでませんよ」
人の話を聞いているのか、と叱責する気にもならなかった。藍田は半ば呆れながら、部下である男を見つめる。
予想を超えているというなら、堤もそうだ。大橋とは違った意味で言動が意表をつきすぎて、何を考えているのか藍田にはまったくわからない。
「胃の調子がよくないんだ。油っこいものは見るのも嫌だ」
暑さにうんざりしながら藍田が言うと、ここで堤はニヤリと笑う。
「ちょうどよかった。今から行くところ、ランチでお粥が選べるんですよ。それに蒸し餃子だから油っこくないし、単品で薄味の野菜スープを頼みましょう。デザートは、杏仁豆腐とマンゴープリンのどちらかを選べますよ」
「……詳しいな」
「ときどき行くんで」
さりげなく堤の腕が背に回され、軽く押される。強引ではないが、断れない状況へと追い込まれた形となっていた。
結局堤と一緒に歩きながら、藍田は会社のビルを振り返る。今からオフィスに戻って、向かいにいるであろう大橋を意識するのが嫌だった。正確には、大橋を意識するであろう自分自身が、嫌なのだ。
これまでの藍田なら、仕事に必要ないものは意識の外へと完全に切り離すことができたし、だからこそ煩わしい感情を自覚することもなかった。なのに今は違う。
面倒な仕事を押し付けられてから、状況が一変した。騒々しい人間たちが、否が応でも視界に入ってきて、無視することを許さないのだ。
藍田は横目でちらりと堤を一瞥する。この男もそうだ。いままで、遠巻きに藍田を観察しているような節はあったが、必要以上に近づいてこなかったはずなのに、今は違う。少なくとも、上司を気軽に食事に誘ってくるタイプではなかった。
ふいに堤がこちらを見たので、藍田はスッと視線を正面へと向ける。
「――堤、来週また、少しオフィスを空けることになると思う」
「仕事ですか?」
「私用だ。今日行った病院で、胃カメラの予約を入れられた。それに、今日した検査の結果も聞かないといけない」
「ついていきましょうか?」
数秒の間を置いてから、藍田は顔をしかめて隣を見る。目が合った堤は、肩をすくめて笑った。
「冗談ですよ」
「わたしが反応に困るようなことを言うな」
「藍田さんの口から、『困る』なんて言葉を聞くとは思いませんでした」
この男は上司をなんだと思っているのだ――。
いろいろ言いたいことはあったが、藍田はため息一つで勘弁してやる。それでなくても今日は午前中から、仕事に託けて他部署に呼び出され、事業部の統廃合について露骨に探りを入れられ、長々と嫌味を聞かされたのだ。挙げ句に、病院まで行くことになった。
そのうえ、この暑さだ。頭上を見上げた藍田は、忌々しい太陽を目を眇めて睨みつける。
何もかもが忌々しいし、苛立たされる。連日のように人を呼びつけて嫌味を言う暇人にも、胃薬程度をすぐに出してくれないどころか、病院への紹介状を押し付けてきた医務室の勤務医にも。
何より、お節介な大橋や、上司を上司とも思わない堤にも。
「暑い……」
藍田は小さく洩らすと、暑い中を歩くことが今になって嫌になり、会社に戻ろうかという気になる。実際、食事を抜くのはよくないとわかってはいるが、食欲がない。
「堤、悪いが――」
食事は一人で行ってくれ、と言おうとしたとき、突然、堤の手に背を押された。
「信号が変わりますよ。急ぎましょう」
そんな言葉とともに堤が駆け出し、藍田も勢いに圧されて小走りで横断歩道を渡る。
渡りきったところで、堤に言われた。
「さっき、何か言いかけましたか?」
短い距離を走っただけなのに息が切れる。藍田は大きく深呼吸を繰り返してから、首を横に振った。
「……なんでもない」
「じゃあ、急ぎましょう。俺、腹が減って限界なんですよ」
この陽気の中、嫌味のように爽やかな笑みを向けられ、さすがの藍田も引き返すとは言えなくなっていた。堤に振り回されていると自覚するのも癪だ。
再び並んで歩き出してすぐ、藍田は背の違和感に気づいた。本人は無意識なのか、背に堤の手がかかったままなのだ。まるで、女性をエスコートするかのように。
普段から女性相手にこういうことばかりしているから、妙なときに癖が出るのだと思った途端、唐突に藍田の脳裏にある男の顔が浮かんだ。大橋だ。
女性相手にこういうことをしていそうだというなら、大橋の存在を忘れてはならないだろう。藍田が向かいのオフィスを見る限り、かなりの確率で大橋の傍らには女性社員がいて談笑しており、本当に仕事をしているのかと、藍田は苦々しく感じることがある。
「どうかしましたか?」
突然、堤に隣から顔を覗き込まれる。藍田は眉をひそめたまま首を傾げた。
「何がだ」
「急に難しい顔をしたので」
「……暑いんだ」
「それは俺に言われても」
藍田は唇を引き結び、堤を睨みつける。部下にからかわれているのかもしれないという疑念を深めたとき、当の堤が目の前のビルを指さした。
「ここの十階です」
相変わらず背に手を置かれたまま、藍田はビルを見上げる。ビルそのものは知っているが、中にどんな飲食店が入っているかはまったく知らない。基本的に、食べることに興味がなく、腹に溜まればそれでいいという性質なのだ。
ビルに一歩入った瞬間、猛烈な冷気に襲われる。外が猛暑である分、ビル内の冷房はかなり低めに設定してあるせいだ。
涼しいと感じたのは二歩目を踏み出すまでで、すぐに寒いと感じた藍田は大きく身震いする。このとき、頭からスッと血の気が引いていく感覚に襲われ、足元がよろめいた。
思わず、先を歩く堤の肩に片手をかけると、素早く振り返った堤が顔を強張らせる。
「藍田さんっ」
「悪い……。立ちくらみがした」
視界が大きくぶれて、目の前のものすらまともに見えない。顔を伏せた藍田は軽く頭を振る。
「座りますか?」
「いや、すぐ治まる」
藍田が目を瞬かせている間、堤は肩越しに振り返ったままじっと動かず、ただ肩を貸してくれていた。大げさに騒ぐより、藍田にはただこうしているほうがいいとわかっているのだ。
静かに息を吐き出した藍田は、そっと堤の肩から手を離す。軽い立ちくらみだが、こうも頻繁に続くと忌々しい。とにかく今日は、体調が最悪だった。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大したことはない」
藍田の答えを信用していないのか、気遣うようにしっかりと、堤の手が背にかかる。
「――すごいですよね」
いくぶんゆったりとした歩調で歩きながら、ふいに堤に言われる。
「何がだ」
「大橋部長補佐ですよ」
「……なんでここで大橋さんの話題が出る」
応じながら藍田は、会社の地下駐車場でのことを思い出していた。やはり立ちくらみを起こした藍田を、大橋が支えてくれたのだ。その後、余計なことまで言われたが。
咄嗟に大橋の胸元に掴まったことが、いまさらながら失態だと思える。大橋に、弱みを見せてしまったのだ。一方で、体を支えてきた大橋の腕の力強さに、柄にもなく動揺した。
普通の生活を送っていて、同年代の同性の体の感触を強く意識することは、そうないだろう。だから動揺したのだと、藍田は自分の反応をそう解釈していた。
体の感触といえば、ついさきほど触れた堤の肩の逞しさや、今、背に触れている手の大きさも、強く意識している。
思わず堤の横顔に視線を向けると、前を見据えたまま堤は話を続ける。
「あの人、藍田さんが少しふらついたところを見て、向かいのオフィスから飛んできましたよ。あの場にいた人間では、藍田さんの異変に気づいたのは俺ぐらいだったのに」
「暇人のお節介なんだ、あの人は」
「だったら俺も、ということですか?」
堤から薄い笑みを向けられ、思わず返事に詰まる。大橋と堤は、年齢から物腰、性格に至るまで、何から何まで違うが、藍田にかまってくるという点では、行動が似ていると思った。
「……そうだな」
ぽつりと洩らした藍田は、無意識のうちに唇を綻ばせる。驚いたような堤の視線に気づき、すぐに藍田は表情を消した。
「だけどもう、あの人はわたしにかまってこないはずだ。……よほど鈍感でない限り、な」
「鈍感かもしれませんよ?」
さらりと堤に返され、ムッと眉をひそめる。
「お前、わたしのバリアーになるんだろう。大橋さんが今度うちのオフィスに乗り込んできたら、叩き出せ。あの男は、火のないところに煙は立てるし、妙な騒動にわたしを巻き込もうとするし、何より、騒々しい」
「――本気で実行しますよ」
どこか楽しげな口調で堤が言い、藍田は頷く。
「やれるものならな」
素早く動いた堤がエレベーターのボタンを押し、手で示されるまま乗り込む。あとから乗り込んだ堤が扉を閉める様子を眺めながら、ふっと肩から力を抜いた藍田はため息交じりに洩らした。
「本当に今日は調子が悪い……」
おかげで藍田の今日のペースは、二人の男によって乱されっぱなしだ。
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