サプライズ~つれない関係のその先に~

北川とも

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頑固な男1

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 ジャケットを腕にかけ、ワイシャツのボタンを留めながら藍田は診察室を出る。
 待合室に向かうと、藍田が訪れたときと変わらず、混雑していた。滅多に病院には足を運ばないので、昼間はこうも人が多いものなのかと、最初は驚いたぐらいだ。
 会計が終わっても、次は病院近くの薬局で薬を受け取らなければならない。診察してもらうだけでもかなり待ったのだが、さらにまた時間がかかるのかと思うと、藍田は憂うつになる。
 診察を待っている間、何度となく帰ろうと思ったのだが、結局できなかった。
 それというのも――。

 藍田は壁際に置かれた長イスの一脚に歩み寄る。そこでは、大橋が腕組みして、壁に上体を預けて眠り込んでいた。隣に腰掛けると、その気配に気づいて大橋が目を開く。

「終わったか?」
「ああ」

 大橋の目から隠すようにして、藍田は捲り上げていたワイシャツの袖を下ろす。検査のため、右腕から血を抜いたのだ。
 会社の医務室で胃薬をもらうだけのつもりだったのだが、病院に行って検査してもらうよう紹介状を渡され、なぜか藍田の付き添い人の顔をしている大橋に半ば強引に連れてこられてしまった。
 早く自分の仕事に戻れという藍田の言葉は、端から無視されていた。

「それで、医者はなんだって?」

 当然のように大橋に尋ねられる。あんたに教える義理はないと突っぱねるだけの気力は、今の藍田にはなかった。

「……胃炎だと言われた。ストレス性の。潰瘍もできているかもしれないからと、胃カメラの予約を入れられたうえに、貧血の症状が出ているからと言って、血を抜かれた」
「俺とは無縁の単語だな。ストレスに貧血……」

 軽い調子で大橋に言われ、バカにされたように感じた藍田は思わず睨みつける。大橋は軽く声を洩らして笑った。

「睨むなよ。俺と違って繊細に出来ていると思ったんだよ。俺は、ガサツだからな」
「……そんなこと、見たらわかる」
「このヤロー」

 腕時計に視線を落とした大橋の動作に気づく。そういえば、藍田はともかく、大橋も仕事を放り出してきているのだ。一応連絡は入れたとはいえ、のんびりはできない。

「大橋さん、帰ったほうがいいんじゃないか。わたしはもう、一人で大丈夫だ。……最初から一人で大丈夫だったが」
「気にするな。最後までついててやる」
「わたしが気にする」
「――俺は気にしない」

 断言した大橋が大きなあくびをして、再び腕組みしたかと思うと、目を閉じる。
 放っておかれるような形となった藍田は、ムッとしながら大橋の顔を睨みつける。だが、すぐに空しくなり、肩から力を抜いた。
 改めて大橋の顔を眺めて、気づいてしまったのだ。藍田だけでなく、普段は陽気そのものの大橋の顔にも、疲労の色が滲んでいることを。大橋も普段から激務の中を過ごしているのだ。

 さぼりたい、という言葉は案外本心からのものだったのかもしれない。ただ、それで自分が運転手役を買って出ているのだから世話はない。
 人につき合って無理をするなと言ってやりたかったが、他人に干渉しない藍田の主義に反する。それに、疲れて寝ている男を叩き起こして、また小言を言われるのもご免だ。

「――……変な男だ」

 藍田はぼそりと呟く。
 大橋がここまでお節介な男だというのは、藍田にとっては意外だった。
 二度離婚したことを除けば、大橋は要領がよく、適度に手を抜くことを知っているタイプだと思っていたのだ。それはつまり、厄介なことには手出ししないともいえる。
 なのに大橋は、今の藍田ほど厄介なものはないと思うのだが、ためらいもなく関わってくる。
 車中で言った、機嫌取り云々というのは、大橋の本心を探り出すための方便だ。藍田と関わることで得る利益より、藍田と手を組むことで長期的に被る不利益のほうが、どう考えても大きい。大橋は、目先の権力で惑わされるほど、愚かな男ではない。
 そう思う程度には、藍田は大橋を評価している。大橋は、計算ができる男なのだ。

 なのにそんな男が、自分に関わってくる――。
 疑問が堂々巡りをしていることを知り、我に返った藍田は周囲を見回す。自分が不自然に突っ立ったままなのに気づいたのだ。しかし、どこかに腰掛けようにも、大橋の隣のスペース以外、空いている席はない。
 仕方なく藍田は少し間を空けて、大橋の隣に腰掛ける。

 何もせずただ名を呼ばれるのを待っているのは、手持ち無沙汰だった。貧乏性というか、せっかちなのだと、藍田は自分の性格がわかっている。
 数年ぶりに病院にきたこともあり、最初は殊勝な気持ちで待っていた藍田だが、あまりに待ち時間が長いため、さすがにイライラしてくる。そこに突然、右肩に重みがかかる。ハッとして見ると、寝込んでいる大橋が藍田にもたれかかってきて、右肩に頭を載せてきたのだ。

「……図々しい男だな」

 呟いてから、片手で大橋の頭を押し退けようとする。だが、髪に触れたところで手が止まってしまった。大橋の部屋に泊まった日の夜、思わず前髪を掻き上げてやった自分の行動を思い出したからだ。大橋の存在は、自分からわけのわからない衝動を引き出しそうで、藍田は不安になる。
 うろたえて手を引きかけるが、すぐに思い直して乱暴に大橋の頭を押し退けた。

「いてっ」

 声を上げて目を覚ました大橋は、何が起こったのかわからない顔をしていたが、立ち上がった藍田を見上げて察したようだった。

「殴ったな、お前」
「あんたの頭が重かったんだ。……もう、わたしにつき合わなくていいから、さっさと会社に戻れ。診察も検査も済んだんだ。あとは精算をして薬を受け取るだけだ」
「まだそんなこと――」

 大橋を追い返すいい機会だったが、運悪く精算カウンターから名を呼ばれる。大橋がニヤリと笑った。

「早く行ってこい。――待っていてやるから」

 藍田は唇を引き結ぶと、精算を済ませて病院を出た。薬局は、近くどころか病院の敷地内にあり、こちらはさほど待つことなく薬を受け取ることができた。
 薬局を出た藍田の傍らに、外で待っていた大橋が当然のように立つ。

「ここで待っていろ。車回してくるから」
「……いい。タクシーを使う」
「ああ? そんな無駄なことするな。おいっ」

 かまわず歩き出した藍田の腕が、大橋に掴まれる。藍田はムキになって振り払おうとするが、容易なことでは大橋の手は外れない。

「離せっ」
「あー、くそっ、なんだよ、お前はっ。いいから来いっ」

 藍田がこの場で待つ気がないとわかったらしく、大橋に強引に引きずられるが、藍田は必死に足を踏ん張る。

「わたしは一人で戻ると言っているんだ。放っておいてくれ」
「俺も戻るから、ついでに乗せていくと言っているだろうっ。つまらん意地を張らんで、人の好意は素直に受け取れっ」

 頑固な男だと心の中で毒づいてから、藍田の口から容赦ない言葉が飛び出していた。

「――……わたしは、あんたと馴れ合う気はない」

 ここまで頑なに藍田を引きずり続けていた大橋の動きが、ピタリと止まる。これまで聞いたことのない、低く抑えた声で言った。

「なんだと……?」

 藍田は気圧されそうになるのを堪え、きっぱりと告げた。

「あんたに周囲で動かれると、迷惑なんだ。わたしはわたしのやり方がある。あんたはあんたで、自分の仕事だけしろ。……もう、わたしのことは放っておいてくれ」

 力の抜けた大橋の手を払い退けると、藍田は踵を返して一人で歩き出す。
 少し間を置いてから、背後から大橋の怒鳴り声が聞こえてきた。

「俺だって、お前と馴れ合う気はないっ。だがな、俺のいままでの行為を、お前がそんなふうに取っていたんだとしたら――残念だよっ。望み通り、お前にかまわないでいてやる。おとなしく、数字の温室にこもって、あのクソ生意気そうな部下に守ってもらっていろ」

 感情任せに言い放つ子供のケンカのような言葉だった。
 藍田は大橋を一瞥することなく、病院前に停まっているタクシーに乗り込み、走り始めると、体から力を抜いてぐったりとシートに体を預けた。
 大橋に対して、言いたかったことをようやく言えたはずなのに、藍田の気持ちはすっきりするどころか、底がない沼にますます深く入り込んだ気がする。
 その理由を考えられるほど、今の藍田には気持ちの余裕はなかった。

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