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面倒な男1
しおりを挟むパソコンの画面に並ぶ数字を眺めながら、藍田はイスに深くもたれかかって足を組む。
ふと視線を上げると、すでにオフィスからは、半分の社員の姿が消えていた。時間を見ると、終業時間を一時間ほど過ぎている。
藍田は、部下が遅くまで残業するのを嫌い、効率的に仕事をこなして定時で帰宅することがまったく気にならない性分だ。
そのおかげか、夜、新機能事業室に行っても一般の社員が誰もいないと、よく他の部署の責任者から皮肉を言われる。もちろん藍田は、そんな皮肉すら気にならない。
もっとも、自分の残業には何時間であろうが寛容になれる。それが責任者の務めというものだ。
オフィス中を見回したところで、堤のデスクに目を止める。いつもなら藍田ほどでないにせよ、遅くまで残っていることの多い男だが、今日はもう姿はない。
藍田はデスクの引き出しをそっと開ける。
中には、今朝堤から、書類に隠すようにして渡された薄い包みが入っていた。中身はハンカチなのだそうだ。
一週間前、ホテルのティーラウンジで藍田はハンカチを駄目にしたのだが、律儀にも堤は、本当に新しいものを買って返してくれたのだ。
周囲をちらりと確認してから、藍田は引き出しから箱を取り出し、丁寧にデパートの包装紙を剥がす。別に剥き出しで渡されたところで気にもしないのだが、堤はそうではないらしい。
妙にむず痒い感覚を味わいながら、包装紙をたたんでデスクの上に置き、薄い箱を開ける。取り出したハンカチは、有名なブランドのものだった。
ハンカチを眺めていると、突然内線が鳴る。藍田は反射的に受話器を取り上げる。
「はい、新機能事業室、藍田――」
『よお、俺だ、藍田』
不躾な電話の相手は大橋だった。藍田は窓のほうに顔を向ける。外はすでに薄暗くなっているが、中庭を挟んで向き合っているオフィスはどこもまだ、煌々と電気がついている。
向かいのオフィスで、大橋がこちらに向かってヒラヒラと手を振っていた。藍田はすかさずデスクに向き直り、頭と肩で受話器を押さえながら怒鳴りつける。
「恥ずかしいことをするなっ」
滅多にない藍田の怒声に、まだオフィスに残っている社員の何人かが、弾かれたようにこちらを見る。なんでもないと、藍田は軽く手を振った。
『怒鳴るようなことでもないだろ。笑って流せよ』
「そんなことはどうでもいい。用はなんだ」
言いながら藍田はハンカチを箱に仕舞う。まさかデスクで何をしているのか、大橋に見えているとも思えないが、決まりが悪かった。
『お前、これから帰る準備をしろ。そうだな、十分でどうだ。たまには早く帰れよ』
「……なんであんたに、そんなことを言われないといけないんだ」
藍田は再び窓の外をうかがう。大橋はイスごと体の正面を窓のほうに向け、藍田を見ていた。まるで、二人の間に巨大なテーブルでもあって、向き合って座っているようだ。
物珍しそうに、大橋の部下たちまで腰を屈め、上司である大橋の背後からこちらを見ている。まるで、動物園の猿山の猿だ。――もちろん、向こうが。
『言ったろう。俺たちは協力し合うことにしたんだ。それで、俺なりに準備したことがある。お前にも立ち合ってもらいたい』
急に大橋の声が真剣味を帯びたので、藍田も即座に断ることができなかった。
「立ち合うというのは、どういうことだ?」
『行けばわかる。どうだ、十分で出られるか? 多分もう、今夜は会社には戻れないぞ』
なんだか大事のようなので、仕方なく藍田はパソコンの電源を落とす準備をする。
「急ぎの仕事はないから、出ることはできる」
『なら、十分後に会社の正面玄関を出たところで待っていろ。車は置いていく。タクシーで移動するぞ』
慌ただしく電話が切られ、向こうのオフィスでは大橋はバタバタと立ち上がり、集まっていた部下たちに何か話しかけている。そして突然こちらを見て、藍田に向けて手を振ってきた。
藍田はあえて無視する。
パソコンの電源を落とすと、帰り支度を始める。堤からもらったハンカチも収めてアタッシェケースを閉じると、残っている部下に声をかけてオフィスをあとにする。
ビルの正面玄関から外に出たところで、首からかけた社員証をポケットに仕舞うと、まだ生ぬるさを残した夜風に頬を撫でられた。
帰宅する社員たちの姿を目で追うが、まだ大橋の姿はない。十分どころか、五分ほどで帰り支度を整えて下りてきたのだが、どうやら急ぎすぎたらしい。
藍田がそっと息を吐き出そうとしたとき、辺りに響き渡るような大声で呼ばれた。
「おいっ、藍田っ、こっちだ」
ハッとして藍田が振り返ると、ビルからわずかに先の車道脇に、大橋が立って大きく手招きしていた。傍らには、タクシーがドアを開けて停まっている。
大橋の元に駆け寄ると、ガードレール越しに大橋に腕を掴まれる。
「早く乗れ。みんなもう、集まっているそうだ」
「みんな?」
訝しむ藍田の手からアタッシェケースを取り上げて、大橋がタクシーの後部座席に放り込む。
「おいっ……」
「いいから」
容赦なく腕を引っ張られるので、藍田はガードレールを跨ごうとする。このとき足がガードレールに引っかかり、前のめりに倒れ込みそうになる。寸前のところで大橋に受け止められた。
「意外に鈍臭いな、お前」
藍田はムッとして顔を上げる。藍田の体を受け止めてもびくともしない大橋の胸を拳で叩いた。
「あんたが引っ張るからだ」
奇妙な表情をした大橋の両手が、しっかりと自分の肩を掴んでいるのを感じる。藍田は多少うろたえながら、大橋の胸に手を突く。
「みっともないから、さっさと離せ」
「あっ、ああ……」
慌てた様子で大橋の手が背から離れる。次の瞬間には、強引にタクシーに押し込まれた。
体勢を立て直す前に大橋も乗り込んできて、奥に押しやられる。何から何まで強引な男だ。
「――それで、どこに行くんだ」
タクシーが走り出してから、不機嫌な声で藍田は問いかける。相手のペースで物事が進むのは、仕事であろうが私生活であろうが、藍田がもっとも嫌うことだ。
「ああ? まだ言ってなかったか」
藍田がキッと睨みつけると、大橋は悪びれるふうもなくにやりと笑う。
「冗談だ。仕事が終わったんだから、少しは肩から力を抜けよ」
「どこに行くんだ」
肩をすくめた大橋が口にしたのは、聞いたことのない店の名だった。眉をひそめた藍田が疑問を口にする前に、大橋が説明する。
「俺がよく使っている、居酒屋だ」
「はあ?」
「日本酒もいいのを揃えているが、メシもうまいぞ。独り身に戻ってから、ずっと世話になりっぱなしだ」
「あんたの独り身の生活なんてどうでもいい。どうしてわたしが――」
「会社でよく使っている店だと、まずい顔ぶれなんだ。何かと上から睨まれているような連中ばかり集まったからな」
抗議は口中で消える。どうやら大橋は、ただ飲み食いするためだけに人を集め、藍田も合流させようとしているわけではないらしい。
藍田は口を閉じ、目的地に着くまで余計なことを言うのをやめた。
三十分ほど走ってから、タクシーがようやくある路地に入ったところで停まり、大橋が支払いを済ませる。元々飲み歩く習慣のない藍田は、この辺りの地理にはさっぱり疎い。
「ほら、こっちだ」
タクシーから下り、アタッシェケースを手に周囲を見回していた藍田は、大橋に腕を掴まれて引っ張られる。
勢いに圧されて素直に従ってしまった藍田だが、すぐに自分の姿に気づいて慌てて大橋の手を振り払う。
「あんたはさっきから、人を幼稚園児か女かと思っているのか」
目を丸くした大橋は自分の手を見てから、戸惑った様子で言った。
「ああ、すまん。つい……」
「つい、なんだ」
「――新機能事業室の副室長の追及は厳しいな。かるーく流すってことを覚えろや」
藍田は何も言わず引き返そうとしたが、ガシッと肩を掴まれて、目の前にある店に強引に連れ込まれた。これでは、肩を組んで歩くほどの『仲良し』に見えてしまう。
必死に抗おうとする藍田の肩を、意地になったように大橋は離さない。
店内は混雑していた。カウンター席とテーブル席はすべて埋まっており、にぎやかというより騒々しい。
顔をしかめる藍田にかまわず、大橋はどんどん店の奥へと進み、座敷席があるスペースに入ると、藍田も無駄な抵抗はやめた。
バカ力、と内心で毒づきながら。
座敷席の奥は周囲を襖で閉ざされてはいるものの、今店にいるグループの中では一番盛り上がっているようだ。まさか、と思って藍田は大橋を見る。その通り、と言いたげに大橋は頷いた。
「冗談じゃない。酔っ払いどもと同席しろと言うのか」
「大丈夫だ。まだ、頭は使い物になっているはずだ」
不安になるようなことを言って、大橋が一気に襖を開ける。
外から想像していたより、広い座敷だった。そしてテーブルに、スーツやワイシャツ姿の男たちがついていた。見覚えのある顔もいくつかあり、即座に、彼らが東和電器の人間なのだとわかった。
藍田の眼差しを受けて、大橋は悠然と笑う。
「少なからず、社内の今の体制を不満に思っているのは、俺やお前だけじゃないってことだ」
「……勝手にわたしを含めないでくれ」
「若手は若手で結束するべきだと言ってるんだ」
背を押され、仕方なく藍田は靴を脱いで座敷に上がる。
「おっ、来たな、我が社の反体制のシンボル」
はやし立てるように物騒な言葉をかけられ、藍田は内心でギョッとする。
声をかけてきたのは、電材営業本部第三課の課長だ。確か、大橋と同期だったはずだが、名に関する記憶は曖昧だ。藍田は自分がいる部署と直接関わりのない部署の人間には、ほとんど関心を示さないのだ。
大橋は微かに苦笑を洩らす。
「物騒なこと言うなよ。上の連中に知られたら、引っ越し前に俺のクビが飛ぶ」
「今だって、ライン上ギリギリだろうが、お前は」
口ぶりからして、同期というだけでなく、大橋とは友人同士らしい。
藍田の視線に気づいたのか、大橋が紹介してくれた。
「こいつは俺の友人の織田。電材営業本部第三課の課長だ。口が悪いせいで、よく上に睨まれている」
「正直者と言ってくれよ、大橋」
そう言って織田がニヤリと笑う。なんとも一癖ありそうな男だ。飲む気満々らしく、すでにネクタイを取って、ワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいる。藍田と目が合うと、軽く片手を上げて寄越された。
大橋は続け様に、他の人間も紹介する。十数人いて、本社の営業部門や管理部門、支社の人間までと、部署はバラバラだ。ただ共通しているのは、全員中堅から若手の世代で、しかも役職付きということだ。
藍田としては、管理部門の人間はともかく、営業部門の人間まで集まっている中に、自分がいていいのだろうかという気になる。なんといっても藍田の仕事は、事業部――特に営業関連の事業部の統廃合に関するものだ。
いわば、統廃合される側の人間からは、敵と呼ばれても不思議ではない。
「藍田、こっちに座れ」
大橋に手を引っ張られ、藍田は座布団の上に正座して、隣で大橋はあぐらをかく。並んで座った藍田と大橋を、この場にいる全員がしみじみといった様子で眺めてくる。
「……しかし、お前の口は怖いな、大橋。本当に新機能事業室の藍田を連れてくるなんて。どうやって騙したんだ」
「どう見てもお前ら、水と油といった感じだもんな。藍田なんて、大橋みたいな厚かましいタイプ、苦手そうだし」
顔を合わせたことはあっても、言葉を交わしたこともない男たちが、好き勝手に藍田と大橋の組み合わせを評し始める。
居心地の悪さに、藍田はこのまま帰ろうかという気にすらなってくる。だいたい、男たちが集まっている趣旨がいまいちよくわからないのだ。
「――藍田」
大橋に呼ばれてグラスを突きつけられる。反射的に受け取ると、すかさずビールを注がれた。続いて大橋がグラスを持ったので、仕方なく藍田も注ぎ返してやる。そんな藍田の手つきのぎこちなさに、大橋は小さく声を洩らして笑った。
「慣れてないな、お前。誰かと飲みに行かないのか? 新機能は、接待とも無縁そうだしな」
「放っておけ」
大橋が一気にグラスのビールを飲み干し、仕方なく藍田も口をつける。帰りは一度会社に戻り、車を取りに行くつもりだったが、この一口で帰りはタクシーに決定だ。
「で、これはなんの集まりなんだ?」
座敷内の熱気に負け、藍田はジャケットを脱いでから大橋に尋ねる。
「親睦会」
軽い調子で答えた大橋を横目で睨みつける。藍田のグラスのビールが少し減っていると知って、すかさず大橋はビールを注ぎ足してくる。
「そう怖い顔するな。――お前も薄々気づいているんだろう」
「反体制のシンボル、と言われていたな。あんた、妙なことを考えているんじゃないだろうな」
「社内クーデターか?」
藍田がそっと眉をひそめると、大橋は肩をすくめる。
「安心しろ。俺はそんな騒動を起こすほど会社に愛着はない。物騒なことも考えていないしな」
「なら――」
「ただ、会社が今のままじゃマズイ、というのも感じている。上のやりたい放題に、下は振り回されるだけというのもな……」
大橋が言うことは藍田も感じてはいるが、だからといって、実際に行動を起こそうという気はない。
「――わたしを巻き込むな」
素っ気なく藍田が言うと、大橋は苦笑する。仕方ねーな、という心の声が聞こえてきそうだ。しかし大橋はめげない。
「そういうわけにはいかない。俺はお前のバリアーになることになったからな。ということは、必然的にお前も俺に、ある程度合わせる必要があるというわけだ」
「どういう理屈だっ」
「俺とお前は一心同体ということだ」
ニヤリと大橋は笑い、藍田は睨みつけて立ち上がろうとしたが、しっかり肩を抱かれて動けない。事情がわかっているのかいないのか、向かいの席に座っている男に酔った顔で言われた。
「仲がいいな、お前ら」
冗談ではない。藍田は心の中で猛烈に反論する。口に出さなかったのは、余計なことは言いたくないという性分ゆえだ。
「仲がいいってさ。意外に俺とお前って、性格的に合うんじゃないか」
「……嬉しいのか、あんた」
冷静に藍田が指摘すると、大橋は微妙な表情となって一度口を閉じる。わずかながら藍田は溜飲を下げた。
「――で、彼らが集まっていることと、わたしが連れてこられたのはどう関係するんだ」
誰が注文してくれたのか、藍田と大橋の前に刺身の盛り合わせが運ばれてくる。生憎ながら、藍田は生魚を食べないので、さり気なく皿を大橋の前に移動させる。目敏く気づいた大橋に呆れたように言われた。
「なんだお前、生魚は駄目なのか? なんか食えよ。先は長いぞ」
最後にぎょっとするようなことを言って、大橋が周囲に声をかける。
「おい、メニューないか、メニュー。それと店の人間も呼んでくれ。注文の追加だ」
どこからともなくメニューが回されてきて、藍田の前に置かれる。この様子では、どこかで食事をとる時間もなさそうなので、今のうちに食べておくしかないだろう。そう考えた藍田は、やってきた店員に数品を注文する。
「――自分の意志に関係なく、俺とお前は、今の会社のやり方に反対するための、神輿にされる」
前触れもなく大橋が言い、グラスに口をつけていた藍田は眉をひそめて横目で大橋を見る。寸前までへらへらと笑っていた男は、今は真剣な横顔を見せていた。
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