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不機嫌な男
しおりを挟む決して顔には出さないが、藍田春記の機嫌は昨日から最悪だった。
もっとも、藍田の無表情から心理状態を推し量れるような人間が、この社内にいるはずもない。そしてまた、自分の心中を他人に推し量られるなど、藍田のプライドが許さない。
組織図をデスクの上に広げ、藍田はじっと見つめる。昨年度に改編版が発行され、わざわざ広報課に頼んで手に入れたものだ。
組織図を見れば見るほど、腹が立つほど複雑で大きな組織だ。これが、トーワグループだ。おそらく一般の社員の中で、この組織図を完璧に把握している人間は少ないだろう。自分たちが関係する支社や事業部さえ理解していれば、仕事にまったく支障は起こらないからだ。
ただし人事についてはそうもいかない。おかげで毎年どこの部署も、人事異動の時期には、関係事業部の名簿や座席表の作り直しの作業で大忙しだ。そうしないと、何かあったときの問い合わせに手間ばかりかかってしまう。
それもこれも、製品ごとの分社化と、数ばかり多い事業部制のせいだ。
どうにかしてほしいとは、東和電器に入社していたときから思っていた藍田だが、来期からその願望が叶うことになった。大幅な事業部の削減――統廃合が行われることが決定したからだ。
誤算だったのは、考えるだけで頭が痛くなってくる改革を、自分が任されることになったという一点のみだ。
藍田が現在持つ肩書きは、新機能事業室副室長だ。トーワグループを複雑な組織にしてしまった戦犯ともいえるのだが、本社・支社からもたらされる事業に関する報告を、あらゆる方向から数字で計測し、分析する部署だ。
こういう表現をするとわかりにくいが、ようは他人の意見を、会社にとって有益か否か判断する材料を揃えるのだ。そのとき資料として提示した数字の結果によって、新しいプロジェクトの起動、新しい事業部の設立が決まる。
そんな部署にいる藍田に、昨日付けで新たな肩書きが加わった。『事業部統合に関する管理実行プロジェクト』のリーダー、だ。
実のところ事業部の『統廃合』が正確なのだが、廃合という表現は反発を招く恐れがあるため、上層部の判断で伏せられた。
くだらない配慮を、と思った藍田だが、当然口には出さない。ムダ口は嫌いだ。
それに、こういったつまらない配慮が積み重なって、今の複雑な組織が出来上がったという経緯も頭に入力済みだし、上層部が何を考えて、この時期に藍田にこんな大事な仕事を任せたのかも推測できている。
なかなか悪辣なことをしてくれるではないか――。
藍田はそっと唇を歪める。ここで内線が鳴り、受話器を取り上げる。
「ああ、どうも」
相手が名乗るのを聞いて、藍田は応じる。別に意識して素っ気ないのではなく、いつもこの調子だ。電話の相手も慣れたもので、他の上司のように、藍田に軽んじられているなどと、いまさら感じはしないだろう。
『相変わらずだな、君は。――確認したいことがあるんだ。これからちょっと出てこられないか。いつもの場所にいる』
「……このあと会議が入っているので、少しだけなら」
『かまわん。すぐに済む』
藍田は受話器を置いて立ち上がる。仕事をする部下たちの後ろを通り過ぎようとしたが、その中の一人、パソコンに向き合っていた堤皓史がふいに藍田を振り返る。藍田直属の扱いとなっている戦略事業部の人間だ。
藍田もあまり人のことは言えないが、上司を上司とも思っていない不遜げな眼差しが見上げてくる。
眼差しに見合った、精悍な面構えだ。女性にとっては、魅力的なハンサムという評価が下せる容貌らしいが、藍田の感想は、二十代後半でこの個性の強さなら、あともう少しすれば手に負えなくなるかもしれない、というものだ。
なまじ仕事ができるうえに、一癖も二癖もある性格だけに、扱いにくい男だ。
「――さっそく、偵察が入りましたか?」
クリップボードで口元を隠しながら、堤に抑えた声で問われる。藍田は無表情に見つめ返す。
「なんのことだ」
「とぼけるなんて、藍田さんらしくない。昨日、藍田さんが専務室に呼び出されてから、あっという間に広がりましたよ。本社の移転の話」
「ああ……、そっちのプロジェクトのことか」
「そっち?」
訝しむように堤が眉をひそめる。本社が東京に移転する話は、ずいぶん前から噂にはなっていたので、知っている社員は多い。
だが、藍田が任された事業部の統廃合については、一般社員の耳にはほとんど入っていないだろう。管理部門はともかく、営業部門に走る動揺が大きいのだ。
藍田は無表情に堤を見つめ返し、端的に答えた。
「そっち、だ。――少し席を外す。わたし宛てに電話が入ったら、すぐに戻ると伝えておいてくれ」
さっさとオフィスを出た藍田が向かったのは、エレベーターホールだった。
お互い忙しい体なので、わざわざ一階のカフェテリアまで移動してコーヒーを飲みながら、というわけにもいかない。きれいな女性が相手ならともかく、仏頂面の藍田と向き合ってコーヒーを飲んだところで、相手も美味しくないだろう。
エレベーターホールの一角にある窓の前には、休憩用のイスが置かれている。観葉植物によって自然な目隠しが作られているので、外の景色を眺めながら密談ができるというわけだ。ただし、禁煙スペースになっている。
軽く周囲を見回してから藍田がそのスペースに入ると、煙草の箱を手の中で弄ぶ高柳の姿があった。一般の社員なら、その姿を見ただけで回れ右して逃げ出すという、本社屈指の強面だ。
「お待たせしました」
藍田が声をかけると、高柳がちらりと視線を上げる。険のある鋭い目をしてはいるものの、中年の渋い俳優を思わせるほど顔の造作は悪くない。が、とにかく剣呑とした雰囲気を漂わせすぎる。
トーワグループには三つのマーケティング本部があり、その中で東和電器のマーケティングを統括しているのが、高柳だ。マーケティング本部長という肩書きを持つ。
その高柳とのつき合いは、よく資料を提供してもらっているうちに、個人的に言葉を交わすようになったというものだ。
高柳は何も言わず、正面のイスを示す。素直に藍田は従った。
「――俺は初耳だった」
前置きもなく高柳は切り出す。気にせず藍田も応じる。
「いつ?」
「今朝だ。営業部門の役職付きたちに、今朝一斉に通達があったんだ」
藍田たちがいる、いわゆる管理部門と営業部門はフロアが違うどころか、ビルすら違っている部署もあるため、なかなか互いの部門の事情を知るのは難しい。
営業部門への通達を遅らせた配慮には、納得できるものがある。事業部の統合でもっともわりを食うのは、営業部門なのだ。
「本社の移転の話は聞いていたが、まさか、事業部の統廃合まで同時に進めることになるとはな。やられたという感じだ」
「正確には、統合、ですよ」
訂正した途端、高柳に鋭く見据えられ、藍田は静かな眼差しで応える。
「……わたしも、昨日初めて聞きましたよ。上がそんなことを計画していたなんて」
「プロジェクトリーダーはお前だそうだな」
ええ、と頷くと、高柳は煙草の箱をジャケットのポケットに突っ込む。
「風当たりが強くなるぞ。営業の連中から」
「あなたも含めて、ですか?」
「いや、俺は正直、お前に同情している。上は、自分たちの身を犠牲にしたくないからこそ、お前に押し付けたんだ。もし何かあっても、簡単に責任を取らせられるようにと考えたんだろう」
そんなことは、専務室でプロジェクトのことを告げられたときからわかっている。しかも、自分と一緒に呼ばれた男の顔を見てしまったら、なおさらだ。
上の人間の悪辣ともいえる企みに、だから藍田は昨日から不機嫌なのだ。
藍田は淡々とした表情を崩さないまま、高柳に問いかける。
「それで、わたしに用というのは?」
「お前の保身のために、相談に乗らんこともない。俺たちの利害は一致していると思わないか? 互いに守りたいものがある」
「――営業部門の事業部を一つでも多く残したいという、高柳さんの気持ちは理解できます。しかしそれは結局、あなたもわたしを利用しようとしているということでしょう」
高柳の頬がピクリと強張ったのを、藍田は見逃さなかった。
「利用ではなく、協力であれば、いつでも受け付けます」
「藍田……」
呻くように呼んだ高柳が睨みつけてくるが、藍田は真っ直ぐ見つめ返す。
「用がそれだけなら、わたしはこれで失礼します」
藍田は高柳を一顧だにせず、その場を立ち去る。
廊下を歩きながら、舌の上に苦いものを感じてうつむき、口中で呟いた。
「高柳さん、わたしにとってはあなたも、上の人間なんですよ」
いまさら、味方のいない状況を嘆く気もない。ただ、任された仕事を淡々とこなすだけだ。
言い置いた言葉通り、すぐにフロアに戻ってきた藍田は自分のデスクにつく。広げておいたままにしておいた組織図を手に取って眺める。
高柳が何を危惧しているのか、その理由はわかっている。
事業部が統合によって減らされると、必ず行き場をなくした社員が出てくる。会社としては、タイミングを見計らって早期退職希望者を募り始めるだろう。藍田のプロジェクトには人事部の部長も噛んでいる。
そのうえ、事業部の数の変化はそのまま、部門内でのパワーバランスが崩れることを表している。これまで、パワーバランスの頂上付近にいて恩恵に預かっていた者ほど、変化を恐れている。高柳もその一人だ。
正直、藍田の知ったことではない。裁量権を握る身としては、細事の一つだ。
だが、無視できないこともある。人事に関してだ。事業部の統廃合に伴い、大幅な人事異動は必然となり、昨日まで役職付きとして権力を振るっていた人間が、いきなり部下を一人も持たない身になるかもしれない。
有能な人間がそんな状況に陥るのは、できるなら避けたい。そのため藍田自身で人事を把握しておく必要がある。プロジェクトの一環として、藍田にもある程度の人事の裁量は任されるはずだ。
藍田は、人間を相手にするのが苦手だ。だからこそ、新機能事業室で数字で何もかもを分析するのは、天職だとすら思っている。
それを――。
藍田はそっと眉をひそめる。上の勝手な思惑で厄介な舞台の上に引っ張り出され、しかも、さきほどの高柳のような人間たちを相手にしなくてはならないのだ。
藍田は自分の性格を、口を開けば無用な敵を作るタイプだと把握している。だからこそ、今回の仕事には気が滅入っていた。
「――珍しいですね」
デスクの前に立った堤が声をかけてくる。
この男もよくわからない。何が楽しいのか、仕事以外でまともな返事を返さない藍田に、頻繁に仕事以外のことで声をかけてくる。
「何がだ」
「藍田さんが不機嫌そうな顔をしているなんて」
自分の表情の変化に気づいていたのかと、藍田は軽く目を見開いてから、すぐに表情を消す。
「用は?」
「資料の分析について、迷っている部分があるんです」
堤に言われ、新機能事業室の共有フォルダーに入っているデータを、自分のタブレットで表示する。堤は、デスクの前に立ったままだ。
藍田はタブレットに視線を落としたままズバリ切り出す。
「――本社の移転の他に、事業部統合のプロジェクトが進行することになった。リーダーはわたしだ。当分、仕事の面で君らに迷惑をかけるかもしれない」
「まだ、敵を作りますか、藍田さん」
藍田は顔を上げて、堤を睨みつける。堤は苦笑していた。
「どういう意味だ」
「少しは自分を守るためのバリアーを作られたらどうです。周囲からの攻撃をすべて受けていたら、身がもちませんよ」
「余計なお世話だ――」
「そのプロジェクト、俺を加えてもらえませんか? あなたを守るバリアーとして、多少は役に立つつもりですよ」
真意の読めない男だと思いながら、藍田は冷静に切り返す。
「どうして、敵を作るとわかっているプロジェクトに加わりたいんだ」
「会社の命運を握るなんて、滅多にできない経験だと思って。……最後に、派手な仕事をしてみたいんです。ある企業から、うちにこないかと誘いを受けていましてね。俺も受けるつもりです。いえ、この事業室で数字に触れているのも楽しいんですけどね」
転職が悪いとは言わないが、それを堤は、堂々と上司である藍田の前で言ったのだ。悪びれていないというか、ふてぶてしいというか、やはり堤は扱いにくい。
軽く息を吐き出した藍田は、タブレットを置いてから、体ごとイスの向きを変える。
ちょうど、藍田がいるオフィスからは、中庭を挟んで向かいあるオフィスを見ることができた。
相変わらずオフィス企画部は騒々しい。見ているだけで、バタバタとしている空気が伝わっている。
「……上司が上司だからだ……」
藍田が呟くと、いつの間にか傍らに堤が立っており、笑いながら言う。
「相変わらず楽しそうですね、オフィス企画部は。あそこの大橋部長補佐、いろんな意味で藍田さんとは対照的ですからね」
他の部署の上司には肩書きがつけられて、なぜ自分の上司にはつけられないのかと、ふと疑問に思った藍田だが、もちろんそんなつまらないことは口には出さない。
自分と同じ、窓際の席についている男を見つめるのに意識を取られる。
大橋龍平という名で、年齢は藍田の一つ上。傍から見ていてもよくわかる、陽気な男だ。すっきりとして甘やかさすら漂うハンサムな容貌の持ち主で、仕事のことからそれ以外のことまで、実によくしゃべる。
おかげで、知りたくもなかったが、大橋に離婚歴が二度あることまで藍田は知っている。ということは、社内中の人間が知っているということだ。
どことなく軽薄そうなイメージがつきまとう男だが、あれで仕事はできる。そして藍田とは違い、親しみやすい性格も関係あるのか、人望もある。
本来ならああいう男のほうが、藍田が任されたプロジェクトに向いているのだ。
しかし皮肉なことに、大橋が任されたのは別の仕事――本社移転プロジェクトのリーダーだった。オフィス企画部という仕事の内容を考えれば妥当ともいえる。
「藍田さん?」
堤に声をかけられ、藍田はイスの向きを元に戻す。
「――いいだろう。お前が華々しく転職するまで、しっかりわたしを守るバリアーの役割を果たしてもらおうか」
無表情の藍田に対し、堤はしたたかな笑みで返してきた。
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