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押し付けられた男

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 足を引きずるようにして、大橋おおはし龍平りゅうへいは自分の部署であるオフィス企画部に戻った。
 どんよりとした空気が大橋を取り巻いているのを、他の社員たちは感じ取ったらしく、何事かといった様子で、いくつもの視線がスーツを通して全身に突き刺さる。
 親しみやすい上司であり、魅力的な男を演出するため、常に清々しい笑みを絶やさないよう心がけている大橋だが、今この瞬間は、むっつりとした表情以外できなかった。
 偽らざる、今の大橋の心境だ。

「――どうなっちまったんだ、うちの会社は」

 アホじゃねーか、という言葉は、寸前で呑み込む。
 肩書きもなく、背負わされた責任も軽い若手社員ならともかく、大橋は現在、三十五歳にして、東和電器株式会社・オフィス企画部部長補佐という立場にいる。軽々しく、人目がある場所で会社批判などできない。
 窓際の自分のデスクに戻ると、手にしていた書類一枚をポイッと投げ置く。大きく息を吐き出しながらイスに腰掛けた。
 イタリア製だとかいうイスは、多少乱暴に扱っても、大柄な大橋の体をしっかりと受け止めてくれる。
 出世してよかったと思えた出来事は、イスがランクアップしたということぐらいだ。
 八つ当たりに近い気持ちでそんなことを思った大橋は、イスに深くもたれかかって足を組むと、ふんぞり返る。
 大橋の上司が見たら眉をひそめそうな姿だが、あいにくこのフロアの主は、他ならぬ大橋だ。それに、もし仮に誰かが注意してきたら、ためらうことなくこう言っているだろう。
 端然とした上司の姿など、この心境で保てるか、と。

「あー、イライラするっ」

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、デスクの上に置いた書類を忌々しく睨みつける。さきほどまで呼び出されていた専務室で受け取った書類だ。

「……こんな紙切れ一枚で、人を地獄に叩き落しやがって」
「補佐、コーヒーいかがですか?」

 上の位置から声をかけられ、大橋は動きを止める。そのタイミングを見計らって、スッとデスクの上にコーヒーが置かれた。

「気がきくな、旗谷はたや。お前がコーヒーを入れるなんて、残暑厳しいこの季節に、雪が降るかもな」

 顔を上げ、大橋はニヤリと笑いかける。自分の分の大きなカップを手にした旗谷弥生やよいは、心外だと言いたげに、きれいに口紅の引かれた唇を尖らせた。

「うちのセクハラ対策委員会に駆け込みますよ、補佐」
「あんなもん、看板だけに決まってるだろ」
「言ってみただけですよ」

 旗谷は腰に片手を当て、胸を張る。ブラウスのボタンを上から二つ外してあるため、胸元のはだけ具合がなかなか微妙だ。男によっては、魅力的な谷間を想像させられるかもしれない。
 しかし、胸の大きな女と二度結婚して、二度失敗している過去を持つ大橋としては、女の胸の大きさはそこそこでいいという持論に落ち着いている。
 よって、旗谷からいかにアプローチをかけられようとも、今のところ理性は鉄壁を保っている。だいたい、職場恋愛は面倒だ。
 異性としても魅力的だが、大橋の片腕としてもかなり魅力的であり有能である旗谷の肩書きは、オフィス企画部システム環境事業部の主任だ。三十歳にして女性の主任というのは、東和電気始まって以来の快挙なのだそうだ。

 東和電器は、トーワグループを形成している。わかりやすくいうなら、トーワグループというピラミッドの頂点に、東和電器があるということだ。
 扱う製品を専門化、なおかつ分社化したうえで、グループとして一括りにしているのだが、社外的に見れば同じ社名で括れても、これが案外、社内に入ってしまうと複雑だ。
 全国に支社や営業所を持ち、子会社と出資会社などまであり、その系列を追っていくだけで頭が痛くなってくる。普通の社員なら、自分が所属する会社の、グループ内に占める位置を理解さえすれば済むのだが、組織にはまとめる人間というものが必要なのだ。

 大橋の所属する部署はつまり、その、まとめる側にいる。トーワグループ内に共通したシステムを導入させ、運用するのが仕事だ。ちなみに旗谷がいる事業部は、コンピュータシステムの管理を行っている。

「それで、何かあったんですか? 専務室に呼び出されたあと、不景気そうな顔をして戻ってきたら、みんな気になるじゃないですか」

 みんな、と言って旗谷がフロアを指し示す。見ると、なるほど確かに、興味津々といった顔で部下たちが、まだ大橋のほうをうかがっている。

「上司思いの部下を持って、俺は幸せだね」
「――そうですね。感謝してほしいですよ」

 書類を手に、後藤ごとうがデスクの前までやってくる。この男は、オフィス企画部第一企画室の所属で、大橋の直属の部下ともいえる。
 システム講習会のため、昨日から今日の午前中まで出張しており、たった今戻ってきたらしい。袖を捲り上げたワイシャツが、汗でぐっしょり濡れている。

「出張中の経費の申請をするんで、判をお願いします」

 差し出された用紙を手に取り、ざっと目を通す。最近は経理部も、経費の申請には何かとうるさいのだ。

「……土産の饅頭は?」
「食い物に気をつけないと、そろそろ糖が危ないんじゃないですか」
「あー、俺の部下は揃いも揃って、可愛い奴らだよ」

 大橋はポンッと判を押して、乱暴に用紙を放り出す。床に落ちる寸前で後藤が拾い上げ、大橋は残念がって大きく舌打ちした。

「子供みたいなことしないでくださいよ、補佐。今年で三十五でしょう」
「……歳を言うな」
「――で、何かあったんですか?」

 バカ笑いをしていた後藤が、次の瞬間には笑みを消し、真剣な表情で尋ねてくる。後藤の隣に立つ旗谷も同じだ。
 大橋は寸前までの怒りを復活させ、乱暴に足を組み直す。

「大ありだ。中間決算前に、とんでもないことを言い出しやがったぞ、うちの執行部共は」
「まさか……」

 前々から噂にはなっていたのだ。さきほど大橋が、専務室で告げられたことは。
 旗谷がデスクに身を乗り出してきて、声を潜めた。

「なら、本当にやるんですか? うちの会社の――本社の引っ越しを」
「引っ越しって、お前、住居を移るわけじゃないんだから、せめて移転と言え」

 大橋は不機嫌な声で応じると、受け取ったばかりの書類を二人の眼前に突き出して見せてやった。

「任命書だ。なんと俺は、移転推進実行プロジェクトのリーダーだ」
「マジっすか、それ」
「こんなタチの悪い冗談を、口が裂けても言うか」

 いっそのこと、タチが悪くてもいいから冗談であってくれと、心底思う。しかし現実は、上層部の印鑑どころか、会社の角印まで押された立派な任命書が、大橋の手にあるのだ。
 さきほど専務室で告げられたのは、大橋がいる東和電器の本社を東京に移転させようというものだった。
 今現在、本社は大阪にある。大橋自身は東京の出身で、『東京支社』で採用されて一年半ほど後に、本社に栄転となったのだ。以来東京と大阪を行き来し、部長補佐に昇格した一年前に、ようやく大阪勤務として腰を落ち着けた。
 これからは本格的に関西弁使いにならないとな、と部下たちと冗談を言い合っていたのだが――。

「関西弁、使うまでには至らないだろうな。移転は、来年の三月末の予定だ。お前らも東京に『帰れる』わけだ」
「……なんだか複雑ですね」

 旗谷が眉をひそめ、後藤も頷く。大橋は皮肉っぽく唇を歪める。

「俺は、感傷に浸る暇もない。今の役職の仕事を続けながら、引っ越しの準備を整えないといけないんだからな。……そりゃまあ、中年のオヤジ連中はやりたくないだろうな。こんな面倒で大がかりな仕事」
「離婚を二度経験して、今は独身というだけでも十分に不幸なのに……」
「――……余計な注釈を付けるな、旗谷。俺が不幸なのは認めるがな」

 もっとも離婚の原因は、仕事の忙しさから妻をかまわなかった大橋にも原因がある。
 最初の妻は浮気に走り、二度目の妻は寂しさから実家に戻ってしまい、そのまま離婚に至った。二人の妻との間に子を作る暇すらなかったというのは、結果としてよかったのか、独身の今となってはよくわからない。
 厄介な仕事という不幸を押し付けられた大橋だが、実は心の支えがある。それは、優しく癒してくれる女の胸でも、将来の出世の確約でもない。
 大橋は思わず低い笑い声を洩らす。

「補佐、大丈夫ですか?」

 旗谷の問いかけに軽く手を上げて応じ、大橋はイスをくるっと回転させると、体の正面を大きな窓に向ける。
 有名な建築デザイナーが設計したという東和電器本社のビルは、少し複雑な形をしている。中庭を挟んで、同じフロアにある新機能事業室を見通すことができるのだ。
 その新機能事業室の窓際には、ある男のデスクがある。ちょうど今はビルの影に入って陽射しが届かないため、ブラインドは下ろしていない。

藍田あいだ副室長が、どうかしたんですか?」

 大橋と同じ目線の高さまで腰を屈めて、後藤が窓の外を覗く。二人並んで、デスクについている藍田の姿を眺める。
 新機能事業室副室長、藍田春記はるき。年齢は三十四歳で、大橋の一年後輩になる。三年前にこの本社に異動になり、副室長に就いたのは約一年半前。大橋とは違い、本物のエリートといえる。
 何より藍田は、離婚歴がないどころか、いまだ独身だ。これだけで、大橋と藍田に対する評価は違ってくる。同じ出世コースに乗っているようで、この評価の違いはけっこう大きい。

「――イイ男ですよねー。藍田副室長」

 大橋の目線の高さに腰を屈めて、旗谷がしみじみと洩らす。

「イイ男の隣で、そういうことを言うか、旗谷」
「あら、妬かないでくださいよ、補佐。イイ男には二種類あるんですよ。実用的なイイ男と、観賞用のイイ男。補佐は、前者ですね」
「……女は怖いねー。後藤よ」
「俺はまだ、補佐ほど女の怖さは経験していないんで」

 こいつらは本当に、俺のことを上司だと思っているのか――。
 横目で部下二人を見た大橋は唇を引き結ぶと、改めて、向けられている藍田の横顔を離れた場所から眺める。
 白皙の美貌、という鳥肌が立ちそうな表現が、これ以上なくしっくりくる顔立ちだった。華があるというわけではないが、顔の造作は完璧に整っている。
 ただ、藍田という男はとにかく表情のレパートリーが少ない男で、ほとんど表情を見せない。それでいて、切れ長の目には常に厳しい光をたたえているか、思案げな色を浮かべている。この男にも感情はあるのだと、数少ない変化から知ることができるのだ。
 口数も少ない。言葉がもったいないとでも感じているのか、仕事絡み以外では、一切ムダ口を叩かない。大橋にしてみれば、面白味のない男だ。結婚もしていないのに、人生の墓場に両足を突っ込んでいそうな辛気臭さだ。

 藍田が新人のとき、短期間だが営業部門の仕事で同じ職場にいたが、それ以外では、一緒に仕事をしたことはない。ただ、ここ一、二年は研修でよく顔を合わせているため、藍田について知るのは、その機会で十分だ。
 観賞用のイイ男とは、旗谷はうまいことを言ったものだと思う。

「皮肉なもんだな。あいつが心の支えとは……」

 大橋はつい苦笑を洩らす。旗谷がきょとんした顔で首を傾げた。

「補佐?」
「――俺だけじゃないんだ」
「何がです」
「上から不幸を押し付けられたのは。歩む道は違えど、立派な道連れがいる」

 大橋が指さすと、旗谷と後藤の目は、再び向かいのオフィスの藍田へと向けられた。

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