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番外編 72

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「くそっ……」
 冷凍庫を覗き込んだ鷹津は、氷が足りないことに気づいて小さく毒づく。普段、氷といえば水割りを作るのに使うぐらいで、なければないでまったく困らないものだ。しかし、今は状況が違う。
 自分の迂闊さに舌打ちし、いくら冷凍庫を覗いたところで氷が湧いて出てくるはずもない。鷹津は仕方なく、残っていた氷をビニール袋に出す。製氷皿に水を張ったが、氷ができるのは朝方になるだろう。
 そんなことを考えながら簡易の氷嚢を準備する。
 発熱した佐伯は、布団に丸まってぐったりとしていた。このログハウスに向かう道中から、体調が悪そうな兆候はあったのだ。ひどい疲労と右足の怪我のせいだと判断したが、今になって、もう少し慎重に判断すればよかったと後悔している。
 ドラッグストアで買い込んだのは、足の怪我の治療に必要なものが大半で、救急箱に入っている医薬品で足りるか微妙なところだ。せめて今晩を乗り越えたら、朝のうちに山を下りて買い出しに行ける。
 寝室に入った鷹津は、ベッドの端に腰掛ける。気配に気づいた佐伯がゆっくりと顔を上げた。不自然に紅潮した頬や荒い息遣いは、さきほどよりひどくなっているように見える。
「氷を持ってきた。足、冷やすか?」
 見せてみろと鷹津が言うと、佐伯は素直に布団の下から右足だけを出す。鼻先を湿布の匂いが掠めた。骨に異常はないという佐伯自身の診立てを信じないわけではないが、あまりにひどいようなら、朝、買い出しついでに整形外科か接骨院に連れて行くしかないだろう。
 腫れている部分に氷嚢を押し当てようとして、佐伯に止められた。のろのろと片手を差し出されたので首を傾げると、氷嚢を渡せということらしい。
 佐伯は、氷嚢を自分の頬に押し当て、ほっとしたように息を洩らす。
「気持ちいい……」
「明日、氷枕を買ってきてやるよ。……俺は風邪一つひかないから、必要なんて思いもしなかった」
「……殺しても死にそうにない感じだもんな、あんた」
 弱っていても憎まれ口は健在だと、自然に鷹津の口元は緩む。
 移動中の車中では、いつ追手に迫られるわからず緊迫した空気が漂い、必要な情報のやり取りしかできなかったのだ。
「腹は減ってないか? 今すぐ用意できるのはレトルトになるが――」
 案の定、返ってきたのは、食欲がないという言葉だった。
 明らかに佐伯は痩せていた。やつれた、という表現が正確かもしれない。総和会の庇護下に入っての生活は、よほど堪えたのだろう。いくら佐伯が見た目からは想像もつかない強靭な精神をしているとしても限界はある。そこに自分の出生に関わる重荷も加わったとしたら。
 らしくないことだが、こいつの世話を焼いてやりたいと思いはするものの、具体的に何をすればいいのか、鷹津はわからない。薪ストーブに火を入れはしたものの、寝室まで暖かくなるのは少し時間がかかるため、ヒーターを引っ張り出してきてベッドの側に置いてある。電気毛布もしっかりベッドを温めているようだ。水のペットボトルもサイドテーブルに並べてある。
 ここまでしても、まだ何かやることがあるのではないかと落ち着かない。
「――……俺がお前の看病をするなんて、な。普通、逆だろ」
 思わず独りごちると、佐伯が視線を伏せたまま口元を緩める。
「蛇蝎の片割れは、意外に世話焼きなのかもな」
「そんなわけあるか」
 すぐには佐伯の側から離れる気にもなれず、鷹津は寝室の隅に置いてあるイスを、ベッドの傍らに移動させて腰を下ろす。まだやることはあるのだが、しばらく付き添ったところで差し支えはない。
 腕組みをして、ときおり佐伯が洩らす深い息遣いを聞いていると、寝室の小さな窓の外で鳥が鳴き声がした。佐伯も聞こえたらしく、もそりと頭を動かして、窓を見遣っている。
「横になったまま、森が見える……」
「正確には林だな。ここら一帯は、ブナ林が広がっている。暖かい時期はよく鳥や動物の姿を見かけるが、今はどうだろうな」
「見たいな……」
 たまたまだが、鷹津は自分の双眼鏡をログハウスに持ち込んでいる。バードウォッチングの趣味があるからではなく、登山をやっていた頃、イノシシやクマの姿がないか確かめるために必要だったのだ。長らく使うことはなく、だからといって処分もできないまま持ち続けていたのだが、意外な形で活躍できそうだ。動けるようになったら貸してやると言っておく。
「――どうして、ここなんだ」
 ふいに佐伯に問われる。
「何がだ」
「この場所を選んだ理由」
 ああ、と声を洩らした鷹津は、何げなく窓へと視線を向ける。
「この辺りの山に登っていたから、多少は土地鑑があった。近くに湯治場があって、地元以外の人間がこの時期にうろついていても、案外不自然に思われない。だから都合がよかった」
「湯治場……」
「昔、打ち身に効くと聞いて、山登りの帰りに温泉に入ったもんだ。今もあるのか知らねーが」
 温泉に入りたいなと洩らして、佐伯が深く息を吐き出す。おそらく寒いのだろうなと思ったが、もう鷹津にできることはない。ひたすら部屋が暖まってくるのを待つだけだ。
 いろいろと話したいことはあるだろうが、さすがに気力と体力の限界がきたのか、佐伯は目を閉じたまま動かなくなる。少し待ってから鷹津は腰を浮かせると、佐伯の頬に触れてみる。体温の高さに眉をひそめてから、心の中で舌打ちをする。解熱剤は飲ませたが、まだ効果は出ていないようだ。
「用があったら呼べよ。隣の部屋にいるから」
 佐伯が小さく頷いたのを確認してから、鷹津は部屋を移動する。
 ソファに腰を落ち着ける余裕はまだなく、さほど広くないリビングダイニングをぐるりと見ましてから、ガシガシと頭を掻く。事前の準備として、生活用品や保存食を運び込んではいたのだが、鷹津自身が忙しく外で動き回っていたため、大半を整理できていない。段ボールに入れたままだ。生鮮食料品は、明日まとめて配達してもらうことになっているので、それまでに冷蔵庫も片付けておきたい。
 自分だけなら必要最低限のもので生活できるのだが、佐伯に同じような生活は強いられなかった。
 物音を立てないよう気をつけながら段ボールから次々と品を出していき、サイドボードや収納ボックスに仕舞っていく。今すぐ必要でないものは、明日、外の小屋に運び込むことにする。
 冷蔵庫の中はアルコールの類やつまみになる缶詰ばかりで、自分はいままで、このログハウスでどうやって過ごしていたのだろうかと、鷹津自身も首を傾げたくなる。いや、そもそも刑事時代から、どこに住もうが冷蔵庫の中はこんなものだった。佐伯を匿って生活するということで、がらりと意識が変わったのだ。
 空いた段ボールを畳んでいると、テーブルの上に置いてある携帯電話が鳴り始める。この携帯電話の番号は、ごく限られた相手にしか知らせていないため、特に身構えることなく鷹津は電話に出た。
「――変わったことはないか」
 声を抑えて問いかける。ぶっきらぼうな鷹津の応対に慣れている秦静馬は、短く笑い声を洩らした。
 鷹津は寝室を気にかけながらソファに腰掛ける。
『総和会の人間が、うちの店に押しかけてきましたよ』
「総和会だけか?」
「長嶺組からはまだ接触がないですね。つまりまだ――」
 事態を把握できていない。総和会は、佐伯が連れ去られたと長嶺組に報告をしていないのだ。
「お前のところに押しかけてきたってことは、総和会も手の打ちようがないってことか」
『わたしが、長嶺組長にチクるってわかりきってますからね。というか、もうチクりました。もうすぐ長嶺組の方々も、こちらに来ると思いますよ』
 ヤクザの大組織の人間が押しかけてきたというのに、秦の口ぶりは余裕たっぷりだ。長嶺組の後ろ盾があるというのも理由だろうが、この男自身がヤバイ修羅場をいくつも潜り抜けてきたからだろう。だから鷹津も、いくつかの工作に秦を協力させたのだ。
 鷹津に対して恩義や尊敬の気持ちなど欠片ほど抱いていないだろうが、なぜか秦は、佐伯には非常に好意的だ。
『あの人が来ましたよ』
「あの人?」
『南郷さん。追及されるのは今日で二度目ですけど、怖い人ですよね。きっと感づいてますよ、わたしが何か知っていると』
 当然だが、秦は、鷹津たちがどこに身を隠しているか知らない。秦も、教えろとは言わない。
「……ということは、俺が動いていると察してるだろうな。だからといって、何もできないだろうが」
 佐伯を匿った時点で、総和会と長嶺組、そして佐伯家との駆け引きが激しさを増し、だからこそ身動きが取れなくなる。こちらに有利にことは進められると、佐伯俊哉は淡々とした声で言っていたが、鷹津は懐疑的だ。総和会や長嶺組がどうこうではなく、あの男は、自分の息子の意思をまったく考慮していないように見えるからだ。
 佐伯は無力な小動物ではない。いざとなればどんな獰猛な獣すら手懐けてしまえる、得体の知れない生き物だ。その生き物の牙が、なぜ自分には向かないと佐伯俊哉には思えるのか――。
『鷹津さん?』
「いや……。南郷は何か言ってたか」
『先生の行き先について心当たりを聞かれたぐらいですね。本当に知りたいというより、わたしの反応を観察したかったのでしょう』
 ですが、と秦が言葉を続ける。
『今日はそんな余裕あったんでしょうかね。かなりイライラしてましたよ』
「へえ、あの男が……」
 南郷の顔を思い浮かべ、鷹津は皮肉っぽく呟く。綱渡りのような佐伯の連れ去り計画となったが、結果として、南郷のプライドを大きく傷つけられたのかもしれない。
 今後のことについて簡単に打ち合わせを済ませてから、電話を切ろうとしたとき、これが本題だと言わんばかりに秦が尋ねてきた。
『――それで今、先生は?』
 一瞬、説明も面倒なので、もう休んでいると言おうかと思ったが、鷹津は正直に佐伯の状況を説明する。
「逃げるときに足を痛めた。そのせいなのか、疲れが出たのか、熱を出して寝込んでる」
『病院は……?』
「そこまでじゃない、と医者本人の診立てだ。ひどくなるようなら、明日にでも病院に連れていく」
『しっかり面倒を見てくださいね。鷹津さんと違って、先生は繊細ですから』
 秦の口調はどこまでも真剣だ。こいつも佐伯に手懐けられてるなと苦笑しつつ、鷹津は電話を切る。
 秦に言われたからではないが、鷹津はまた寝室に行き、佐伯の様子をうかがう。ウトウトはしているようだが、息遣いは相変わらず苦しそうだ。
 額に汗が浮かんでいるのに気づき、そっとタオルで拭ってやると、鷹津はイスに腰掛ける。佐伯の顔を見つめながら、知らず知らずのうちにこんな言葉が口を突いて出ていた。
「大した奴だよ、お前は……。俺にここまでさせやがって」
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