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番外編 拍手お礼49

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 マンションを抜け出した和彦は、散歩がてら近所のコンビニで買い物することを、ささやかな夜の楽しみとしている。
 護衛なしで出歩くことにいい顔をしない長嶺組の面々だが、三十分もかからない外出は、さすがに大目に見るようになった。
 あまり過保護にすると和彦が〈キレる〉とでも、誰かが忠告してくれたのかもしれない。なんにしても、和彦は夜のこの一時を、非常に楽しんでいた。
 ペットボトル入りのお茶とプリンを買った帰り道、コンビニの袋を揺らして歩いていた和彦は、何かが動いた気配に足を止める。
 住宅街ということで、夜も更けると車も人の通りもぐっと少なくなる場所ではあるのだが、街灯もついており、歩いていて特に不安は感じない。不審者が出たという話を聞いたこともなく、そもそも、どこから見ても男である和彦に好きこのんで絡んだりはしないだろう。
 きょろきょろと辺りを見回し、気のせいかと思いながら再び歩き出そうとして、また、気配が動いた。
 人ではない。ノラ犬だったら怖いなと身構えつつ、気配がした方向をじっと見つめる。住宅の庭に設置されたウッドフェンスの下でもぞもぞと影が動き、明らかにこちらの様子をうかがっている。
 和彦は、薄々とながら影の正体を察した。だが、予想に反してタヌキだったらどうしようかと思いながら、おそるおそるウッドフェンスの前を通る。すると、ニャーと鳴き声が上がった。
 するりと影が這い出して、ようやく明かりの下に姿を現す。
「猫……」
 ぽつりと和彦は呟く。その声に反応したわけではないだろうが、もう一度、ニャーと鳴き声が上がった。
 体の大きさからして成猫なのだろうと見当をつけるが、そもそも和彦はまったく猫に詳しくない。黒毛と赤みがかった茶色の毛が絶妙に入り混じた柄から、これをサビ猫というのだろうかと、ついまじまじと観察する。
 普段、猫と接する機会がないため、好奇心が抑え切れない。
 こんな時間に外をうろついているのだから、ノラ猫だろうかとも思ったが、それにしては肉づきはいいように見えるし、何より毛並みがきれいだ。首輪を確認しようと、猫に近づこうとしたが、途端に警戒されたため、諦めた。
 どうも昔から、動物に好かれた試しがない。
「車に轢かれるから、道路に飛び出すなよ」
 理解できるはずもないのに、そう忠告して歩き出そうとすると、すかさず猫が近づいてきて、和彦の足に体をすり寄せる。しかも、ふわふわとした尻尾まで擦りつけてくれるサービス付きだ。
 和彦は目を見開き、その場に立ち尽くした。




 診察室のデスクについた和彦は、次の予約時間まで少し間があるということで、ノートパソコンに向き合っていた。書類を作成して――というわけではなく、ネット検索を行っていた。〈猫〉、〈餌〉と単語を打ち込んだのは、気まぐれだ。
 昨夜出会ったサビ猫に、別に餌をやろうと考えたわけではない。本当に、単なる好奇心からだ。
 誰に対してのものなのか、妙な言い訳を心の中で繰り返しながら和彦は、さまざまなサイトをチェックしていく。やはりキャットフードが一番無難なのだろうかと、今度はその種類について調べていたが、ここで大事なことに気づいて愕然とした。
 ノラ猫だとしたら、餌を与えることで、あの場所に居つかせてしまい、近隣に迷惑をかけてしまうのではないか。仮に飼い猫だとしたら、他人が勝手に餌を与えていいのか――。
 いままで猫とは無縁の生活を送ってきただけに、判断がつかない。考えあぐねた結果、和彦は一番簡単な結論に辿りつく。
 あの猫に構わなければいいだけだ。そもそも、同じ場所にいるとは限らない。たった一夜、ほんの一時の出会いだったのだ。
 そう自分に言い聞かせはしたものの、クリニックでの仕事を終え、帰路につく車中で疲労感に浸りながら和彦が考えるのは、自身を取り巻く男たちのことではなく、昨夜のサビ猫のことだった。
 なんとなくソワソワした気持ちになっていたが、自宅マンション近くのコンビニが見えてきたところで、堪え切れなくなる。和彦は、ハンドルを握る組員にさりげなく声をかけた。
「コンビニでちょっと買いたいものがあるから、今日はそこでぼくを降ろして、帰ってくれていいよ」
「いえ、マンションまでお送りします。先生は気にせず買い物をしてください」
「大丈夫だから。少し歩きたいんだ。まだ外は明るいから、危ないことはないだろうし」
 渋る組員を説き伏せて、なんとかコンビニで降ろしてもらうと、車が走り去るのをしっかり見送る。実のところ買いたいものはなかったのだが、とりあえず店内に入り、またプリンを購入した。
 さすがにまだ夕方という時間帯でもあり、帰宅途中の人の姿がちらほらある。和彦は落ち着きなく周囲を見回し、猫の姿はないかと捜していたが、ふと、ある光景に目を止めた。
 部活帰りなのか、ジャージ姿の女の子二人組が、歩道の隅で顔を寄せ合って座り込んでいた。昨夜、サビ猫と出会ったウッドフェンスの側だ。
 まさかと思いつつ、歩調を緩めて傍らを通りすぎると、女の子たちが猫を撫でていた。そして、サビ柄だ。ニャーと甘えた声が聞こえ、思わず凝視すると、丸い顔が心地よさそうに目を閉じている。
 撫でたい――。
 率直な願望が、危うく声になって出そうになった。ここでふらふらと猫に近づいたら、まず間違いなく不審者だ。
 和彦は後ろ髪を引かれる思いで、足早にその場を立ち去った。




 週末は一緒に過ごしたいと賢吾から連絡が入り、仕事帰りに和彦は、長嶺の本宅へと送り届けられた。
 一旦客間に入って着替えを済ませてから、賢吾の部屋で二人きりで食事をしたのだが、このときから和彦は、なんとなくだが感じていた。
 いつになく賢吾の機嫌がいいと。
 入浴後、和彦は脱衣所で髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔を眺める。賢吾の機嫌のよさの理由をあれこれと考えてみるが、まったく見当がつかない。何か難しい仕事が片付いたのだろうかとも思ったが、それにしては今晩は、やけにニヤニヤして和彦を見ているのだ。
 不気味だ、と本人を前にしては口が裂けても言えないことを、口中で呟く。
 ダイニングで冷たいお茶を飲もうとしたが、先に風呂から上がった賢吾が寛いでいる姿を見て、慌てて引き返す。結局、賢吾の部屋に戻っていた。
 特に興味を惹かれるテレビ番組もないため、座卓の上に新聞を広げて読んでいると、賢吾も部屋に戻ってくる。何も言わずテレビをつけ、チャンネルをあちこち切り替えていたが、海外ニュースに落ち着いたようだ。和彦はちらりと視線をテレビに向け、再び新聞に目を落とす。
 少しの間、思い思いに過ごしていたが、なんの前触れもなく賢吾がこう切り出した。
「――ここ何日か、毎夜部屋を抜け出して、逢引をしているそうだな、先生」
「はあっ?」
 驚いた和彦が勢いよく顔を上げると、賢吾はニヤニヤと笑っていた。楽しくて堪らない、という顔だ。
「いきなり、何言ってるんだ。なんだ、逢引って。一体誰が、誰と――」
 とんでもない濡れ衣だと、ムキになって否定しようとした和彦だが、途中で言葉を切る。思い当たる節があった。
 ますます笑みを深くして、賢吾が座卓にズイッと身を乗り出してくる。和彦の浮気を疑っている――というには、あまりに態度が不自然だ。つまり、何もかも知っているということだろう。
 あっという間に和彦の顔が熱くなってくる。必死に言い訳をしようとするが、その前に賢吾が滔々と話し始めた。
「うちの組員は優秀だ。先生はここ何日か、毎日夜になると部屋を出て行くと、報告を受けてな。なんといっても、〈前科〉がある先生だ。俺ものんびりとはしていられない。そこで、人をマンション前に待機させて、先生を尾行させた。どんな色男と会っているのかと思っていたら……」
 おそらく今、自分の顔は真っ赤になっているだろう。和彦は、賢吾に飛びかかって口を塞ぎたい衝動を懸命に抑える。しかし、力で敵うはずもなく、耐えるしかない。
 興が乗ってきたのか、賢吾はとうとう声を洩らして笑い出す。
「幸せそうに、道端で猫を撫でていたそうだな。毎日。報告してきた組員が、なんとも言えない顔をしていたぞ」
「……期待に添えなくて、悪かった」
「まったくだ。間男相手にどうやり合おうかと張り切っていたのに」
 物騒なことを言わないでくれと、和彦はぼそぼそと小声で呟く。
 ひとしきり笑ってから、上機嫌な面持ちのまま賢吾がこんな提案をしてきた。
「猫が好きなら、飼えばいいだろ。先生が毎夜会いに行っているノラ猫だろうが、血統書付きの猫だろうが。俺も千尋もアレルギーはないから、マンションで飼う分には問題ないぞ」
 和彦は目を丸くして、一瞬、心が浮き立つものを感じたが、すぐに苦笑して首を横に振る。
「毎日、きちんと部屋に帰れる人間ならいいけど、ぼくの場合、ここに何日も泊まることがあるし、患者を診るために急に呼び出されて、付きっきりになることもあるから。落ち着かない環境に置いておくと、猫がかわいそうだ」
「優しいな、先生は」
「別に、優しくない……。今の生活だって、ここの組員に見てもらっているのに、さらに猫まで増えたら、申し訳ないんだ」
「そんなこと気にする奴らじゃねーけどな」
 賢吾に手招きされ、気恥かしさを感じつつも和彦は側へと行く。肩を抱き寄せられ、髪に顔を寄せられた。
「先生は、猫を飼ったことはあるのか?」
「……ない。猫どころか、生き物は何も。家の人間はみんな、好きじゃなかったんだ。汚いと言って。ぼくも、そういうものかと思って、なんというか、生き物に触ることに、後ろめたさがあったから。でも――」
「猫を撫でて、吹っ切れたか?」
 もう意地を張る気にもなれなくて、和彦は頷く。
「ぼくが動物に構っていたと知ると、眉をひそめていた家族は側にいないのに、どうして遠慮していたのかと思った。変なところで、実家で暮らしていた頃の感覚が抜けていなかったんだと、ちょっと驚いたな」
「そんな先生を目覚めさせた猫だ。やっぱり飼ったらどうだ? 世話なら、遠慮せずに組の者に任せたらいい」
 賢吾のほうこそ優しい――というより甘いなと、和彦は密かに笑みをこぼす。そっと賢吾にもたれかかると、肩にかかった手にわずかに力が込められた。
「ぼくが撫でていた猫は、人懐こかった。慣れてないぼくにもたっぷり撫でさせてくれて、甘い声で鳴いてくれて。実は、飼ってみたいなと思ったけど……」
「けど?」
「一昨日、コンビニに張り紙がしてあったんだ。猫を捜してます、って」
「その猫だったのか?」
 ああ、と答えると、なぜかくしゃくしゃと髪を掻き乱された。
「コンビニのバイトの子に聞いたら、その子も、猫に気づいていて、もう連絡したって言ってた。よその家から引き取られてきたばかりで、興奮して逃げ出したらしい。昨日は猫の姿はなかったし、張り紙もなくなってたから、無事に飼い主に引き取られたんだと思う。よかったよ」
「よかった、と言っているわりには、声が少し残念そうだ」
「そんなことない。やっぱり、飼い主に大事にされるのが一番だ。それにぼくは、生き物を飼うのに向いてない」
「……残念だな。一度ぐらいは、猫相手にフニャフニャになっている先生を見てみたかったのに」
 そう言う賢吾の声は、柔らかな笑いを含んでいる。和彦も思わず笑い声を洩らしていた。
「残念だったな」
 猫の話は、これで終わった。そう、和彦は思っていた。
 布団に入る頃になって、唐突に賢吾がこんなことを言い出した。
「――今度一緒に、猫カフェとかいうところに行くか?」
 数秒ほど、賢吾の発言が理解できなかった。和彦は瞬きも忘れて、布団の上に胡坐をかいている賢吾をまじまじと見つめる。
「はあ?」
「猫がいるんだろ、猫カフェというぐらいだ」
 今夜の賢吾の上機嫌ぶりはなんなのだと、和彦は空恐ろしさすら感じる。やはり口が裂けても言えないが。
 賢吾が布団に入り、端を捲ったので、意図を察した和彦は同じ布団に入る。
「猫は飼えない、でも撫でたいというなら、そこに行くのが一番だと思うが。近所のノラ猫を構ってもいいが、見つけるのは大変だろ」
「……あんたよく、猫カフェなんてものを知ってたな」
「俺はけっこう、物知りだぜ」
 得意げに言う賢吾がおもしろくて、布団で口元を隠しながらくっくと笑い声を洩らしていた。
「一緒に、ということは、あんたも猫を撫でるのか?」
「いいや。俺は、猫を撫でている先生を、撫でるんだ」
 ニヤニヤと賢吾が笑っている。和彦は布団を引き上げると、頭の先まで隠れた。

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