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番外編 拍手お礼35

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 秋慈の周囲は急に慌しくなってきた。
 あまり外出しない秋慈の世話のために、毎日誰かしら家に立ち寄ってはいたのだが、それでも、せいぜいが日に一人か二人だった。
 ところが今は、寸分の隙なくきっちりとスーツを着込んだ男たちが数人ずつ、昼も夜もなく家に出入りしている。目立つ真似はするなと、少し前までの秋慈ならきつく注意をするところだが、状況は変わってしまった。無難に築いてきたご近所つき合いも、これで終わりだ。奇異の視線を向けられようが、秋慈は平然としている。
 どうせもうすぐ、この家を引き払うのだから――。
 テーブルに肘をついた秋慈は、冷めた目で庭を眺める。とっくに水をやることをやめた庭の草花たちは、連日強い陽射しに晒されて、すでに大半が萎れ、もしくは枯れている。何年もかけて自分が手入れをしていた庭の惨状に心が痛まないわけではないが、どうしようもない。
 退去時には庭は元の状態に戻さなければならないし、世話に費やせる余裕はすでに秋慈にはなかった。
 荒れていく庭を見て、自分がここで積み上げてきた生活は、結局はまやかしだったのだと苦い気持ちになるため、明日にでもすべて引き抜いてしまおうかと考えていた。
 決断した以上、もう立ち止まっている時間はない。そうでなければ、今度こそ潰されてしまう。
 ふっと息を吐き出した秋慈は姿勢を戻し、テーブルの上に置いたものに視線を落とす。さきほど届けられたもので、妙に感傷的な気持ちになる原因ともいえる。
 たとう紙を開くと、淡い青灰色の着物が現れた。きちんと手入れをしながら保管していたのだろう。秋慈の記憶に残っているものより、色合いが鮮やかに見えた。
 どういう意図でこんなものを送ってきたのかと考えていると、電話が鳴った。なんとなくだが、電話の相手は予測がついた。出たくないと思わなくもないが、電話に出なければ、きっと家まで押し掛けてくるだろう。
 仕方なく秋慈は子機を取り上げた。
『――俺の送ったものは見てくれたか』
 久しぶりだというのに挨拶もないあたりが、この人らしいなと、秋慈はそっと苦笑を洩らす。昔、抗争の最中に喉を潰されたという電話の相手は、低く掠れた声を発する。少し言葉が聞き取りにくいが、そんなことは、声の持つ凄みの前では些細なことだ。ただ一声を聞いただけで、人はハッとして神経を尖らせ、言葉に耳を傾けるのだ。
「見ました。……よく、こんなものを残していましたね。懐かしさよりも、これを着ていた頃の自分を思い出して、顔から火が出そうですよ」
『よく似合っていたが。俺の手元にあっても仕方ないから、いい機会だから返そうと思ったんだ。それと、お前の復帰祝いに、新しい着物を仕立ててやろうと思った』
「それは……」
『病気でひどく痩せていたと聞いたが、もう体重は戻ったんだろう?』
「まあ、近いぐらいには。ただ、体力的には、まだ少しかかりそうです。わたしも四十ですから、何もかも昔のようにはいきません」
 感慨深げに電話の相手が声を洩らす。
『そうか……、お前ももう四十か。俺も歳を取るはずだ』
「いろいろと気苦労が多そうですね。――聞いていますよ。総和会の中での、あなた……というより、組の現状は」
『余計なことは言うなと釘を刺しておいたのに、誰だ。お前に告げ口をしたのは』
 さあ、と答えて秋慈ははぐらかす。胸の内では、相変わらず食えない人だと、ひっそりと呟いていた。釘を刺していたどころか、秋慈の耳に入るよう人を動かしていたはずだ。そして、秋慈が自分に接触してくることを企んでもいただろう。だからあえて、秋慈は動かなかった。
 昔から電話の相手は、秋慈を嵐の中心へと引き込もうとするのだ。まるで、自分と心中しろと言わんばかりに。
 昔馴染みである、大蛇の化身のような男も食えないが、あの男はまだ、秋慈に対して遠慮がある。しかし、今秋慈が話している相手はそれがない。
『――第一遊撃隊を、また動かすそうだな』
「そろそろ働かないと、肩身が狭いですから」
『会長はむしろ、お前がこのまま隠居してくれることを願っていたかもな。何しろ今は、総和会の組織改革を始めるという話があるぐらいだ。余計な火種を抱えたくはないだろう』
「あれだけ締め付けておいて、今度は組織改革ですか。相変わらず働き者ですね、長嶺会長は……」
『芝居が上手いな。これぐらいの情報、とっくに耳に入っていたんだろう。――秋慈』
 名を呼ばれた途端、ゾワッとした感覚が秋慈の肌に走る。
 低く掠れた声には、底知れない強い感情が滲み出ていた。総和会での不遇に対する恨みと、地位にしがみつく執着、慕ってくれる部下たちを守ろうとする優しさと。秋慈がうかがい知れないだけで、もっとたくさんの感情を内包しているはずだ。
 秋慈がさっさと総和会から身を引いたあとも、この人は総和会での居場所を、足掻きながらもしたたかに自分の力で確保し続けていたのかと思うと、素直に称賛すべきなのだろう。総和会は、そういう男たちが大半なのだ。
 だからこそ、自分や、賢吾――長嶺組組長は一線を引きたがるのだが。
「……久しぶりにあなたの声を聞いて、また寝込みそうですよ」
 誇張でもなんでもない秋慈の言葉に、受話器を通して笑い声が返ってくる。
『身が燃えるか』
 この声は、毒を含んでいる。数年かけて、体調だけでなく精神的にも落ち着いた秋慈を、狂奔へと駆り立てる。
「ああ、嫌ですね……。本格復帰するまで、本当に、あなたとだけは話したくなかったんですよ……」
『お前がそう思っているだろうと考えて、着物を送って、こうして電話をかけた。嫌でも、俺の存在を思い出せただろう』
 返事もせず秋慈が黙り込むと、相手は再び笑い声を洩らしたあと、最後にこう言って電話が切られた。
『――早くお前の顔が見たいな、秋慈』


 夕方、いつものように顔を出した二神は、庭に立つ秋慈を見るなり、眉をひそめた。
 もうすっかり高温多湿の季節だというのに、二神は相変わらず喪服のような漆黒のスーツを身につけているが、この姿を見られるのも、あとわずかだ。秋慈が第一遊撃隊に復帰することが、総和会内の幹部会で正式に認められると同時に、普通のスーツを身につけるのだそうだ。
「……その仕事は、我々がやると言ったでしょう」
 ああ、と声を洩らした秋慈は、持っていた花を足元に落とす。汗だくになって、枯れた草花を引き抜いていたが、庭の半分も終わらなかった。
 身を投げ出すようにして縁側に腰掛け、軍手を外す。二神はすぐにグラスに麦茶を注いで戻ってきた。受け取り、一気に飲み干した秋慈は、大きく息を吐き出した。
「お前に見つかる前にやめようと思ったけど、夢中でやっていたら、すっかり忘れていた」
 秋慈の隣に正座した二神は、痛ましげに庭を眺める。
「あんなに熱心に手入れをしていたのに、荒れるのはあっという間ですね、庭」
「そもそも周りから、無趣味だ、無趣味だと言われるのが癪で始めた庭いじりだ。わたしはそんなに、植物に興味があったわけじゃない」
「それでも、楽しそうでしたよ。庭に出ているときのあなたは」
「人並みの穏やかな生活ごっこができたからな」
 意識しないまま秋慈は、皮肉っぽい笑みを洩らす。
「――何か、ありましたか? テーブルの上に、見覚えのない着物がありますし」
「若い頃、着ていた着物だ。知人が送ってくれた」
「それはどういう……?」
 二神のその問いには答えず、秋慈は話を続ける。
「総和会は、十一の組がある。二つに割れて対立するにしても、絶妙な数だ。どうしたって、残り一つの組が力を握ることになるからな。だが長嶺会長は、そういう仕組みを壊そうとしているんじゃないかと思う」
 二神が身じろぎ、秋慈に顔を近づけてくる。ここで聞き耳を立てる者などいないが、それでも慎重に、些細な危険すら近づけまいとするかのように。
「わたしより切実な危機感を持っている人間が、総和会の中にはいる。自分が吹き飛ばされそうな嵐が起こる前に、ささやかながら巨木を揺らす風が吹かないかと、待ち望んでいるのかもな。……わたしが復帰すると、誰に対して、どんな風を吹かせられるだろう」
 秋慈がそっと笑みをこぼすと、二神はピンと背筋を伸ばし、膝の上で拳を揃える。真摯としか表現できない眼差しを、まっすぐ秋慈に向けてきた。
「……何があろうが、俺は――隊の者たちは、全身全霊をかけて、あなたを守りますよ。もう二度と、あなた一人に重荷を背負わせたりはしません」
「重荷なんて思ったことはない。わたしが勝手に体を壊して、お前たちに迷惑をかけたんだ」
「隊が活動を休止したあとも、総和会で俺たちが無事にいられたのは、あなたと会長の間で、何かしらやり取りがあったからでしょう」
「さあな。もう忘れた」
 サンダルを脱いで縁側に上がった秋慈は、正座をしたままの二神を見下ろす。
「明日、いつもより多めに人を寄越してくれ。さっさと庭を片付けて、引っ越しの準備を急ぐ。――そして、幹部会に挨拶を済ませて、復帰の承認をもらわないとな」
「了解しました」
 風呂に入りたいと言うと、即座に二神が立ち上がり、準備のために部屋を出ていく。
 一人残った秋慈は、テーブルの上に置いたままの着物を眺める。厄介なものを送ってくれたものだと思いながらも、着物に染みついた思い出そのものは、決して、疎ましいものではない。
「ああ、本当に厄介だ……」
 そう呟いた秋慈だが、口元には淡い笑みを浮かべていた。
 総和会に復帰することに、周囲が危惧するような、悲壮な覚悟は必要ではなかった。
 どうやってあの組織の中で泳いでやろうかと考えると、電話で言われた通り、身が燃えるのだ。どうしようもなく。

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