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第48話
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「割れ鍋に綴じ蓋とは、あの夫婦のためにあるような言葉よ。お母さんに足りないものを、お父さんが補ってた。わたしは、お母さんのようにはなりたくなかったけど、ああいう夫婦にはなりたかった」
綾香は、姉妹でまだ和泉家で暮らしていた頃のことを話してくれる。厳しく躾けられていたわけではなく、欲しいものはなんでも買い与えられ、どこにでも遊びに連れて行ってもらってはいたものの、総子が団欒の場にいたことはあまりなかったのだという。家を守っていたのは正時で、外に出て交渉事に臨むのは総子と、役割が完璧に決まっていたのだろう。
正時はいつでも優しく穏やかだったと綾香は言った。日頃から、姉妹のどちらかが婿を取り、家を継ぐよう告げられてはいたものの、正時のような伴侶とならそれもいいかもしれないと、綾香は考えていたそうだ。
「――だけど、わたしにはできなかった。そういう性分ね。自分一人の力でどこまで行けるか知りたくなって、試したくなった。若い頃は順調だったからこそ調子に乗ってたのね。気がつけば、男社会の中で行き詰って、立ち尽くしていた。そんなとき実家に顔を出してみれば、紗香は何も変わらず……、変わらないまま、幸せそうにしてた」
紗香のために見合い相手を見繕っていると総子から聞かされたとき、綾香が感じたのは、実家から切り離されたという失望感だったという。その後、綾香は俊哉と出会い、互いに家格が理想的であると認識し合い、結婚した。そこから先の話は、和彦も知っている。
「英俊がいなくなった家で、あの人と二人きりの生活が送れるのか、ずっと考えているの」
「それって、父さんと……、別れたい、とか……?」
「そうなったら、あなた、俊哉さんと二人で暮らせる?」
ぎょっとするような問いかけに和彦は返事に詰まる。いまさら自分が佐伯家に戻るなど、まったく考えていなかった。
「……あの人との関係に波はないの。知り合ったときも、紗香とのことがあっても、ずっと一定。あの人も同じように感じているのかもしれない。だから一緒にいられる」
いつでも実家に戻ってきなさいと綾香は続けた。すべてを知った今の和彦となら、身構えることなく母親として接せられるとも。
曖昧な返事で誤魔化した和彦の気持ちを、おそらく綾香はずっと理解できないだろう。
頭の芯が疼くように痛み、低く唸った和彦はごそごそと寝返りをうつ。
とにかく疲れた一日だったと、足を引きずるようにして自宅マンションに帰り着いたまではよかったのだ。その頃から、なんとなく頭痛の気配は感じており、母親と会って話したことを優也に報告したあとには何もする気力がなくなった。
安定剤と鎮痛剤、どちらを服用すべきかと悩むのも面倒になって、まだ日も暮れていないうちからベッドに潜り込んだというわけだ。
綾香との会話がずっと頭の中を駆け巡る。険のある対応を覚悟していただけに、あんなにいろんなことを話してくれるとは予想外だったが、素直には喜べないところもある。綾香は、自分たちと和彦は家族として新たに始められると考えている節があった。
そのための障害となる、長嶺組――長嶺の男たちとの関係については、静かな口調でただ詰られた。同じぐらい、綾香は自分自身を責めていた。歪んだ環境に置いたせいで、和彦は今のような環境にいても平気になってしまったのだと。
再び仰向けとなり、唸りながら前髪に指を差し込む。知らん顔をされるより、ああして触れてもらったほうが、まだ救われた気分だった。自分はもう、佐伯家に戻るつもりはないし、戻ってはいけないのだと確認できたからだ。
いざというときがくれば、ためらうことなく自分は決断ができる。
「――もうすぐ夕方だが、寝てるのか」
前触れもなく、頭上から話しかけられる。和彦がハッと目を開くと、忌々しいほど魅力的なバリトンの主がじっと自分を見下ろしていた。
なぜいるのかと問いたかったが、理由は一つしかない。
「心配して、来てくれたのか?」
「お前が予想外の行動を取ると、反動が怖い。……顔色が悪いぞ」
和彦は自分の頬を撫でてから体を起こそうとしたが、賢吾に止められる。長居するつもりはないのか、賢吾はコートも脱がないまま床の上に座り込み、和彦と目線の高さを合わせてくる。
「宮森から、お前が甥っ子と会うのは聞かされてたんだが、まさかそのすぐあとに、自分の母親に会いに行くとはな。予想外もいいところだ」
「この間は、まともに話せなかったから……。会って話しておいたほうがいいと、優也くんが背中を押してくれた」
「今度、宮森の甥っ子に小遣いを渡しておくか」
賢吾の冗談に小さく笑うと、頬を優しく撫でられる。
「話せてよかったと思う。何もかも思い出したあとだと、これまでの母さんの態度も納得……というか、理解できたし。すっきりというわけにはいかないけど、母さんも、苦しんだり悩んだりしてきた一人の人間なんだと感じられただけ、進歩だ」
「――お前はいままでは、自分をどこにも属さない枠の外に置いているようだった。高みから見下ろしているというわけじゃなく、そうだな……、仲間に入りたくても入れない子供みたいな」
「だから、悪辣な大蛇にあっさり捕まったんだな」
賢吾が声を洩らして笑う。その低い笑い声が耳に心地いい。安定剤や鎮痛剤より、よほど頭痛に効く。
「ヤクザ一家の俺が言うなと思うかもしれねーが、お前の実家は歪だ。枠の外にいたから、こうして俺の目の前にいる。もし枠の内にいたとしたら――」
「……なあ、ぼくと母さんの会話を、どこかで聞いてたか?」
さすがに組員たちにはホテルの外で待機してもらっていたのだが、この男ならどんな細工をしていても不思議ではない。
「聞いてなくても想像はできる。今のお前の様子を見たら、なおさらだ。――何か言われたか?」
「まあ……。母親なら、言って当然のこと、とか」
言葉を濁したが、賢吾は深く追及してはこなかった。
「話せたこと自体はよかったんだ。母さんの考えがわかったし、和泉の家とのことではぼくの思うとおりにしていいと言ってもらえたし」
「実家に戻ってこいと言われなかったか?」
反射的に起き上がった和彦は、賢吾に詰め寄っていた。
「やっぱり、なんか仕掛けてただろっ」
「親なら、そういうもんだ。うちの化け狐と張り合うお前の父親ならともかく、母親のほうはそうじゃないだろ」
和彦は一気に脱力すると、もぞもぞとまたベッドに潜り込む。
「……戻るつもりはないから」
わかっていると、大蛇の化身のような男はひっそりと笑む。
「ついでに、ぼくが今弱っているのは、落ち込んでるとかじゃないからな。単に人に会って話しすぎて、疲れただけだ」
「そりゃ大変だ。仕事に無事に復帰できるまで、本宅で寝起きしてリハビリするか? 嫌と言うほど人と会って話せるぞ。組事務所にも同行させてやる」
「――……遠慮しておきます」
和彦が敬語で返事をすると、賢吾は声を上げて大笑いした。
綾香は、姉妹でまだ和泉家で暮らしていた頃のことを話してくれる。厳しく躾けられていたわけではなく、欲しいものはなんでも買い与えられ、どこにでも遊びに連れて行ってもらってはいたものの、総子が団欒の場にいたことはあまりなかったのだという。家を守っていたのは正時で、外に出て交渉事に臨むのは総子と、役割が完璧に決まっていたのだろう。
正時はいつでも優しく穏やかだったと綾香は言った。日頃から、姉妹のどちらかが婿を取り、家を継ぐよう告げられてはいたものの、正時のような伴侶とならそれもいいかもしれないと、綾香は考えていたそうだ。
「――だけど、わたしにはできなかった。そういう性分ね。自分一人の力でどこまで行けるか知りたくなって、試したくなった。若い頃は順調だったからこそ調子に乗ってたのね。気がつけば、男社会の中で行き詰って、立ち尽くしていた。そんなとき実家に顔を出してみれば、紗香は何も変わらず……、変わらないまま、幸せそうにしてた」
紗香のために見合い相手を見繕っていると総子から聞かされたとき、綾香が感じたのは、実家から切り離されたという失望感だったという。その後、綾香は俊哉と出会い、互いに家格が理想的であると認識し合い、結婚した。そこから先の話は、和彦も知っている。
「英俊がいなくなった家で、あの人と二人きりの生活が送れるのか、ずっと考えているの」
「それって、父さんと……、別れたい、とか……?」
「そうなったら、あなた、俊哉さんと二人で暮らせる?」
ぎょっとするような問いかけに和彦は返事に詰まる。いまさら自分が佐伯家に戻るなど、まったく考えていなかった。
「……あの人との関係に波はないの。知り合ったときも、紗香とのことがあっても、ずっと一定。あの人も同じように感じているのかもしれない。だから一緒にいられる」
いつでも実家に戻ってきなさいと綾香は続けた。すべてを知った今の和彦となら、身構えることなく母親として接せられるとも。
曖昧な返事で誤魔化した和彦の気持ちを、おそらく綾香はずっと理解できないだろう。
頭の芯が疼くように痛み、低く唸った和彦はごそごそと寝返りをうつ。
とにかく疲れた一日だったと、足を引きずるようにして自宅マンションに帰り着いたまではよかったのだ。その頃から、なんとなく頭痛の気配は感じており、母親と会って話したことを優也に報告したあとには何もする気力がなくなった。
安定剤と鎮痛剤、どちらを服用すべきかと悩むのも面倒になって、まだ日も暮れていないうちからベッドに潜り込んだというわけだ。
綾香との会話がずっと頭の中を駆け巡る。険のある対応を覚悟していただけに、あんなにいろんなことを話してくれるとは予想外だったが、素直には喜べないところもある。綾香は、自分たちと和彦は家族として新たに始められると考えている節があった。
そのための障害となる、長嶺組――長嶺の男たちとの関係については、静かな口調でただ詰られた。同じぐらい、綾香は自分自身を責めていた。歪んだ環境に置いたせいで、和彦は今のような環境にいても平気になってしまったのだと。
再び仰向けとなり、唸りながら前髪に指を差し込む。知らん顔をされるより、ああして触れてもらったほうが、まだ救われた気分だった。自分はもう、佐伯家に戻るつもりはないし、戻ってはいけないのだと確認できたからだ。
いざというときがくれば、ためらうことなく自分は決断ができる。
「――もうすぐ夕方だが、寝てるのか」
前触れもなく、頭上から話しかけられる。和彦がハッと目を開くと、忌々しいほど魅力的なバリトンの主がじっと自分を見下ろしていた。
なぜいるのかと問いたかったが、理由は一つしかない。
「心配して、来てくれたのか?」
「お前が予想外の行動を取ると、反動が怖い。……顔色が悪いぞ」
和彦は自分の頬を撫でてから体を起こそうとしたが、賢吾に止められる。長居するつもりはないのか、賢吾はコートも脱がないまま床の上に座り込み、和彦と目線の高さを合わせてくる。
「宮森から、お前が甥っ子と会うのは聞かされてたんだが、まさかそのすぐあとに、自分の母親に会いに行くとはな。予想外もいいところだ」
「この間は、まともに話せなかったから……。会って話しておいたほうがいいと、優也くんが背中を押してくれた」
「今度、宮森の甥っ子に小遣いを渡しておくか」
賢吾の冗談に小さく笑うと、頬を優しく撫でられる。
「話せてよかったと思う。何もかも思い出したあとだと、これまでの母さんの態度も納得……というか、理解できたし。すっきりというわけにはいかないけど、母さんも、苦しんだり悩んだりしてきた一人の人間なんだと感じられただけ、進歩だ」
「――お前はいままでは、自分をどこにも属さない枠の外に置いているようだった。高みから見下ろしているというわけじゃなく、そうだな……、仲間に入りたくても入れない子供みたいな」
「だから、悪辣な大蛇にあっさり捕まったんだな」
賢吾が声を洩らして笑う。その低い笑い声が耳に心地いい。安定剤や鎮痛剤より、よほど頭痛に効く。
「ヤクザ一家の俺が言うなと思うかもしれねーが、お前の実家は歪だ。枠の外にいたから、こうして俺の目の前にいる。もし枠の内にいたとしたら――」
「……なあ、ぼくと母さんの会話を、どこかで聞いてたか?」
さすがに組員たちにはホテルの外で待機してもらっていたのだが、この男ならどんな細工をしていても不思議ではない。
「聞いてなくても想像はできる。今のお前の様子を見たら、なおさらだ。――何か言われたか?」
「まあ……。母親なら、言って当然のこと、とか」
言葉を濁したが、賢吾は深く追及してはこなかった。
「話せたこと自体はよかったんだ。母さんの考えがわかったし、和泉の家とのことではぼくの思うとおりにしていいと言ってもらえたし」
「実家に戻ってこいと言われなかったか?」
反射的に起き上がった和彦は、賢吾に詰め寄っていた。
「やっぱり、なんか仕掛けてただろっ」
「親なら、そういうもんだ。うちの化け狐と張り合うお前の父親ならともかく、母親のほうはそうじゃないだろ」
和彦は一気に脱力すると、もぞもぞとまたベッドに潜り込む。
「……戻るつもりはないから」
わかっていると、大蛇の化身のような男はひっそりと笑む。
「ついでに、ぼくが今弱っているのは、落ち込んでるとかじゃないからな。単に人に会って話しすぎて、疲れただけだ」
「そりゃ大変だ。仕事に無事に復帰できるまで、本宅で寝起きしてリハビリするか? 嫌と言うほど人と会って話せるぞ。組事務所にも同行させてやる」
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