血と束縛と

北川とも

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第48話

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 正面のイスに腰掛けた綾香はメニューを開くことなくアイスティーを注文する。そして、和彦が飲んでいるものを見て、ふっと表情を和らげた。
「相変わらずオレンジジュースがお気に入りなのね」
 覚えていたのだと、素直に驚いた。
「ごめん。今から会いたいなんて、いきなり連絡して……」
「和泉の家のことでしょう。最近、うちにも連絡が来るの。話すのは、ほとんど俊哉さんとだけど」
 綾香の表情にわずかに苛立ちの色が浮かぶ。それを目にした和彦は、自分が和泉家の資産を継ぐことに、きっと綾香はいい感情は抱いていないだろうなと思った。
「確信はあったのよ。あなたはきっと、あの家に取り込まれると」
「取り込まれているわけじゃ――」
「あなたには、いいおばあ様でしょう。和泉総子という人は」
「……うん。優しかったよ」
「昔からよ。英俊にはそんなに関心を示さなかったのに、あなたに対しては甘いおばあ様だった。英俊は長男だから、何があっても手放すことはないとわかっていたんでしょう。だからわたしはずっと、あなたは実家に連れていけなかった。子供に何を吹き込んでも、不思議じゃない人だったから。わたしの母親は……」
 昔、家族揃って和泉家に出かけていた中、自分だけが置いていかれていた光景がふっと蘇った。
 ここでアイスティーが運ばれてきて、一旦会話が止まる。
「いろいろ聞いたよ。ぼくを産んだ女性ひとのこと……。写真も何枚かもらったんだ。母さんにそっくりだった」
「普通の女の子だったのよ。将来は何になりたいとか、そのためにどこの学校に行きたいとか。夢見がちで、自由だった。だけどわたしが、弁護士か官僚になるために進学したいと言い始めたことで、何もかも変わった。当然、両親とも反対したけど、わたしは家を出たの。紗香にすべて押し付けて」
 綾香は俊哉と知り合い結婚した。そこから何が起こったのか、今の和彦ならわかる。
「わたしのわがままが、結果として紗香を壊した。あの子が残したたった一つの宝物も奪ってしまった」
 綾香の唇が微かに震えているのを見て、胸が痛んだ。
 こうして相対して、母親という仮面の下から現れたのは、ずっと後悔を噛み締めて苦しみ続けた普通の女性の顔だ。それを気取らせないために、頑なに和彦の前では虚勢を張り続けていたのだろうかと思うと、ただ同情してしまう。子供の頃の自分をもっと気遣ってほしかったと、今になって訴えても、もうどうしようもないことだ。
 昔話をしたいわけではないと気を取り直す。総子からも佐伯家に連絡が入っているようだが、改めて自分の口から状況を説明しておきたかった。
「……わたしには、あなたの選択について口出しする権利はない。お母さんが直接、あなたに譲りたいと言って、もう手を回しているのなら、誰が何を言っても無駄でしょうしね」
「でもぼくは、母さんがどう感じているか、聞きたいんだ。和泉の家について、母さんも関係者なんだし」
「今言ったでしょう。権利はないと。わたしはもう、和泉の家の相続に関しては一切なんの権利もないの」
 綾香の言った言葉がすぐには理解できず、首を傾げる。綾香は自嘲気味に唇を歪めた。
「――……和泉の家を出てから、あの家からの援助は受け取らないつもりで生きてきた。だけど家同士の繋がりは、そんなに簡単にはいかない。姓は変わっても、結局わたしを守ってくれたのは和泉の家だった。だったら……、利用するしかないでしょう」
 息子のために、と綾香は呟いた。もちろん、英俊のことだ。
 詳しく話を聞くと、綾香は英俊の出馬に関して便宜を図ってもらうため、自分が将来相続するはずの和泉家の土地を利用したのだという。もちろん綾香の独断でどうにかなる話でもなく、当然総子と正時が承諾した結果だ。
「和泉と佐伯の家から、英俊が離れられるなら、悪くない取引でしょう」
「そのこと、兄さんは……?」
「そう、とだけ。あの子の優秀さは俊哉さんに似ているけど、神経が細やかすぎる。紗香のようで、ときどき不安になるの……。あの子には、二つの家の名は重すぎる」
 そんな人間に、政治家と、主張の強く奔放そうな女性の夫という役割は務まるのだろうかと、ふと和彦は思う。しかも背負うのは、大企業の創業者家の名だ。実家に里帰りをしたとき、初めて英俊と衝突したが、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうな危うさを感じた。英俊は苦しんでいる。
 綾香がわが子にしていることは、かつて綾香たち姉妹が和泉家から受けた、息が詰まるような過保護さと何が違うのだろうか。
 そう指摘できなかったのは、和彦が、綾香の実子ではないからだ。
「和泉の家が贖罪として何かを譲ると言うなら、あなたの思うとおりにしなさい。どういう事態になろうが向こうは織り込み済みでしょう。いまさら、わたしが心配したところで――……」
 和彦はため息をつくと、すっかり氷が溶けたオレンジジュースを一口飲んだ。
「おばあ様が作ったという会社に行ったよ。資産の管理をしているという……。母さんも、社員なんだろ?」
「英俊が結婚したあとで、外してもらうつもりよ。……皮肉な社名。紗香はとっくにいなくなって、わたしも和泉の人間ではなくなって、それでもあの社名を変えないんだから。意地なのか、愛情なのか……」
「寂しいのかも。和泉の家に行ったけど、猫をたくさん飼ってた。あれは、昔から?」
「敷地内に居ついてはいたけど、家の中には入れなかったわ。手伝いの人たちが可愛がっていたけど、お母さんが撫でている姿なんて見たこともなかった。家の中のことが目に入らないぐらい、忙しくしてた人だから。お父さんは……こっそり餌をあげてたわね。懐かれすぎて、しまいには猫から逃げ回ってたけど」
 この日初めて、綾香が表情を和らげる。

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