血と束縛と

北川とも

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第48話

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 テーブルに頬杖をついた和彦は、斜め向かいに座っている優也の様子をじっと見つめる。手土産の桜餅を食べながら。
 最近、人と会う機会の多さに伴い、手土産も頻繁に選んでおり、すっかり和彦も楽しんでいる。今日はあえて和菓子を選んでみたが、優也はひょいひょいと口に運んだあと、手ずから淹れた渋めのお茶をぐいっと飲み干してから、黙々と和彦の話を聞いて、ときおりコピー用紙に何かを書き込んでいる。その合間にさりげなく、残りの桜餅が入った箱をテーブルの下に隠していたが、和彦は気づかないふりをする。気に入ってくれたのなら何よりだ。
 ここは、優也の部屋だった。和彦が初めて足を踏み入れたときはひどい有り様だったが、今はすっかり片付いており、開け放たれた窓からは心地よい風が入ってくる。玄関に通されたときにさりげなく確認したが、城東会の組員によって切られたドアのチェーンは新しいものに取り換えられていた。
 引きこもりから脱したのを物語るように、ハンガーラックには春物の服がかかっており、白のスプリングコートが特に目を惹く。
 優也によく似合いそうだなと思ったときには、ふっと疑問が口をついて出ていた。
「あの白のコート、自分で選んだのか?」
「んあ? ああ、コート……。叔父さんが買ってきたんだ。出歩くようになったから必要だろうとか言って」
「趣味がいいな」
「あの人、結局のところシスコンなんだよ。僕の母さんが、似た色のコートを着てて似合ってたとか語り出してさ」
「おとなしく聞いてたんだ」
 和彦がニコニコしながら言うと、気恥ずかしそうに優也が視線を伏せる。
 ひどい風邪で痩せ細って荒んでいた優也の姿しか記憶になかったのだが、久々に顔を合わせてみると、実年齢よりずっと若く見える彼のことを、叔父の宮森が過保護にするのもわかる気がした。
 こけていた頬はいくらか肉がついており、血色のよさもあってずいぶん健康的に見える。それでいて華奢なあごのラインはそのままで、すっきりとした一重の目や、桜餅を二口で食べたとは思えない小さな口のおかげで、小動物のように愛らしい印象を受ける。人によっては加虐性が刺激されるのかもしれないと、引きこもっていた経緯を知っているとついそう考えてしまう。
 一昨日、九鬼たちに伴われて〈社会見学〉を行った和彦は、いよいよ相続というものが現実味を帯びてきて、なんとも落ち着かない。今すぐという話ではないうえに、和泉家やその関係者は何も心配はいらないと言い続けてはいるものの、悠然とはかまえていられない。何かしなければと気ばかりが急いてしまうのだ。
 そこで思い当たったのが、元税理士事務所勤務という経歴を持つ優也だ。数字に強い優也を使ってもらってかまわないと前に宮森に言われていたが、今まさにそのときではないかと、連絡を取った。ちょうど顔も見たかったということもある。とんとん拍子で話はまとまり、こうして優也の部屋を訪れたというわけだ。
「――なんとも言えない気持ちになるよな。親が遺してくれたものを相続するって。僕はまだ子供だったから、大学入るときまで叔父さんが管理してくれてたんだけど、それでも通帳見せられたときは、いろいろ込み上げてきた」
 優也が苦々しい口調で洩らす。簡単に説明した和彦の事情を踏まえての彼の言葉は、なんの抵抗もなく胸の奥に吸い込まれる。
「あんたの場合、事情が込み入ってそうだから、もっと複雑な気持ちだろうけど」
「だからずっと気を使われてる。祖母からは、面倒な手続きとか金銭的な負担とか、何も心配いらないと言われて……」
「それもう、法的にちょっと問題ありな手段使ってでも、あらゆることを進めて片付けるってことじゃん。あんたの周り、怖い人間多すぎ」
「……長嶺組の人間だけじゃなく、まさか母方の祖父母が、常在戦場みたいな覚悟を決めているとは思いもしなかった」
「大地主ともなると、潜ってきた修羅場がヤクザと大差ないのかもなー。僕、ヤクザにも大地主にも詳しくないけど」
 ヤクザには詳しいんじゃないかと心の中で指摘しておく。
 優也がシャーペンを置いたので、和彦がコピー用紙を覗き込もうとすると、素早く裏返しにされた。
「さっきから何を書いてたんだ」
「あんたが相続するというビルの家賃収入をざっと計算してみた」
「……数字に強いって、そういう……」
「冗談。話の要点を書いてただけだよ。相続税ぐらいなら計算してあげてもいいけど、周りから心配しなくていいと言われてるなら、あんたは知る必要はないだろ」
 それはわかっているんだがと和彦が口ごもると、優也がため息をつく。
「そもそも相続の話は年始にされて、しっかり弁護士先生からも説明受けたんだろ? いまさら何にうろたえてんだよ」
「なんだろう……。自分でもよくわからない。状況の理解はしているのに、本当にぼくに権利はあるのかって――」
「あんたが受け取らないなら、誰に権利がある。母親が遺して、息子が継ぐ。しかも祖父母は乗り気。どこもおかしいところはないけど」」
「ぼくは、母親が二人いるんだ。生んでくれた人と、育ててくれた人と。そして、二人は姉妹なんだ。育ててくれた人は存命で、戸籍上の母親となってる」
 書かないと気が済まない性分なのか、優也はコピー用紙に簡単な家系図を書き、そこに和彦は修正を加えつつ、育ての母親との仲について説明する。円満な仲とは言いがたいということを。
 家系図を眺め、優也は一声唸った。
「なんかさー、あんたがウジウジするのもわかる気がするわ。込み入ってる度合いがこっちの想像を超えてる」
 そう言って優也が、コピー用紙に書いた綾香の名を指先で示す。
「あまりうまくいってないとか言ってたけどさ、この人の意見を聞くのはどうよ。相続について同意するにしても、嫌がるにしても、どう思ってるのか確認するのは大事だと思うぜ。法的なことは弁護士先生に丸投げできるけど、感情的なものは本人同士で話すしかない」
 ため息が出たのは、先日実家で綾香と顔を合わせたときのことを思い出したからだ。そのとき、相続についても話すつもりだったのだ。なのに和彦はその場から逃げてしまった。
「……気が重い。でも、筋は通すべきだとわかってはいる」
「話せるときに、話しておいたほうがいいって。いついなくなるかわからないんだしさ。僕のところみたいに」
 優也がふいに片手を突き出してくる。スマートフォンを出すよう言われ、勢いに圧されて和彦はなんとなく従ってしまう。一応組関係者の括りに入る優也に見られて困るような情報が入っていないからこそだが、さすがに何をしようとしているのか気になって手元を覗き込む。
「実家――でいいのかな。この時間、あんたの母親は家にいる?」
「たぶん。今は在宅で仕事をしているみたいだし……って、何してるんだっ」
 優也が実家に電話をかけているのを見て、慌てて止めようとするが、素早く躱される。
「思い立ったがなんとやらで、今日中に会ってきなよ」
 ぽいっと投げ返されたスマートフォンから、女性の声が聞こえてくる。いまさら電話を切るわけにもいかず、和彦は覚悟を決めざるをえなかった。



 別れ際にひらひらと手を振っていた優也の姿を思い返し、和彦は顔をしかめる。彼が高熱を出して寝込んでいたとき雑な扱いをしたことを、実は恨まれていたのかもしれないと、ふっと考えてしまう。
 そんな不穏な考えを、優雅なピアノの調べがかき消す。待ち合わせ場所であるホテルのカフェラウンジはピアノの生演奏が売りらしく、周囲のテーブルでは、聴き入っている客の姿は一組、二組ではない。それ以外の客たちは、見た目も華やかで美味しそうなデザートブッフェを堪能している。女性客が多いのは、そのせいかもしれない。
 頬杖をつき、美しい庭をぼんやりと眺める。今こうして、綾香の到着を待っている自分が信じられなかった。優也が強引な行動に出なければ、綾香と会うのはいつになっていたかと、複雑な心境ながら感謝はしておく。
「――そうしている姿、若い頃のお父さんそっくりね」
 ふいに傍らから声をかけられる。ビクリと体を震わせた和彦が視線を上げると、パンツスーツ姿の綾香が立っていた。

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