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第48話
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しおりを挟む夕方までに少しでも胃を軽くしたくて、和彦は千尋と共に靴を履いて玄関を出る。このまま外に散歩に出かけたいところだが、二人の立場ではそういうわけにはいかず、味気ないことこのうえないが、本宅の敷地内をぐるぐると歩く。利点としては、護衛がいらず、他人の耳も気にしなくていいというところだ。
千尋はハーフパンツのポケットに指を引っ掛けながら、ひらひらと目の前を飛んでいくモンシロチョウを目で追う。和彦は、そんな千尋を眺める。見た目だけなら、まだ十分学生で通るのだが、この青年は大きな組の跡目で、しかも子持ちだと思うと、なんとも味わい深い。しかもTシャツで隠れた背には、立派な刺青を背負っている。
「虫取りって、子供好きだよね?」
突然の千尋からの問いかけに面食らいながらも、応じる。
「たぶん。あー、でも、最近の子はどうだろうな。虫を怖がる子も多いんじゃないか」
「うちの庭、けっこう昆虫が来るから、楽しめるかなと思って」
稜人のことかと、和彦は口元を綻ばせる。
「部屋に、昆虫図鑑を置いてやったらどうだ。虫取り網に虫かごも準備して、夏になったら、セミも来るだろう」
「ガキの頃、近所の公園でセミを採りまくって、それをオヤジの部屋に放ったことがある」
「……わかってたけど、命知らずだな、お前。――で、そのあとどうなったんだ」
千尋は意味深に笑ってから、いきなり話題を変えた。
「オヤジがウナギみたいだと言った男は、和彦を連れ回してどうしたかったの?」
戸惑ったのはほんの数瞬で、和彦は今日の出来事を思い返す。一応、九鬼と烏丸と出歩いている間中、つかず離れずの距離で護衛もついていたので、和彦の行動自体は長嶺組にも把握されている。ただし、あちこち足を運んだビルの中までは入ってこられなかったため、長嶺組がもどかしい思いをしていたと、千尋の表情から理解した。
「和泉家が所有している不動産を見て回ったんだ。実物を見ておいたほうがいいと言われて。それに法務局にも連れて行かれて、登記簿謄本の取り方も教わった。社会勉強だそうだ。そのうち、資産管理会社に社員としてぼくも加わることになるみたいだから、その下準備みたいなものだな。もっとも、名前だけのものだ。ぼくは管理や運用だとかさっぱりだし、口出しするつもりもない。ただ、受け入れることで、おばあ様とおじい様が安心するなら、それでいい」
「……それでいい、という顔じゃないよ、和彦」
父親によく似て千尋も鋭い。和彦は渋面を浮かべそうになり、自分の頬を撫でる。
「ぼくが相続するよう言われているビルも見てきたんだ。本来は母――ぼくを産んだ人に任せるはずだったものだけど、ぼくに、と。利用客の多い駅前にあるから、地価が高くて、相続税がエグいことに……」
千尋に何げなく住所を問われて答える。あいにく和彦には馴染みのない土地で、九鬼の運転で駅周辺を移動したとき、ビルやマンション、ショッピングモールが混在するにぎやかな街の様子に、ひたすら地価の高さに思いを馳せて気が遠くなりかけた。
いつ誰から連絡が入るかわからず手放せないスマートフォンを、千尋は素早く操作する。歩きながら和彦も覗き込むと、地図の検索サイトが表示されている。
「ビルの名前は?」
「えっと、キリエ和泉ビル」
和泉家所有の物件名は、だいたい住所の地名と和泉姓を合わせて、非常にわかりやすいものになっている。
「ビルの中に入ったんでしょう? どんな感じだった」
それが、と和彦は言葉を濁す。情報を出したくないということではなく、とにかく表現に困るのだ。悩む和彦に対して、千尋はニヤニヤとしている。その様子から察するものがあり、千尋の脇腹を肘で小突く。
「お前、おもしろがってるだろ」
「和彦って、波乱万丈な人生歩んでるなー、と思って。しかも予想外の方向で」
「……何割かは、お前も責任があるんだからな」
話しながら歩いているうちに、庭に入る。稜人のための小さな公園が整備されている中庭から、いくつかの樹木が植え替えられており、うまく根が張ってくれるか今は様子見のようだ。それに伴い、あまり使っている様子のないゴルフの練習ネットが隅に移動している。孫可愛さで、ここもそのうち遊具であふれるのかもしれないなと、つい想像してしまう。
「――……飲食店が多めの雑居ビルなんだ。最上階はオフィス専用で。五階建てだけど、この高さのビルにしては延床面積はかなりあると九鬼さんは言ってた。実際、ビルの中を歩いてみたけど、たくさんの店が入って迷路みたいに入り組んでて、ついて歩くのが精いっぱいだった。夜のほうがもっとにぎわってて人も多いと言われたけど、それでも、古いビルなのに活気があった」
活気がありすぎて、とんでもないトラブルに遭遇してしまったのだが。
昼間の出来事を思い出し、和彦は微妙に顔をしかめる。あの場に長嶺組の護衛がいなくて正解だったのだろう。そうでなければ、下手をすれば警察沙汰だ。
「和彦、なんかおもしろいことがあったような顔してる」
「別におもしろいことは……」
「でもなんかあったんでしょ」
千尋の勘が鋭いのか、自分がわかりやすすぎるのかと自問しつつ、隠すようなことでもないので正直に話す。
「部屋の又貸しというのかな。最初は〈健全な〉マッサージ屋として経営してた店が、今日行ったら――」
「エッチな店になってた?」
「事前にタレコミがあったとかで、ぼくの案内のついでに潰しますね、とか言って、もう大変なことに……」
ビルの管理をやっていると、契約内容とは違う店舗がしれっと経営をしていることが意外にあるらしい。立地のいい場所だけに、生き馬の目を抜くしたたかな商売人には魅力的なビルなのだろう。もしくは、田舎に引っ込んでいる地主という噂だけを聞いて、舐めていたのか。
見せしめとばかりに烏丸が、いかがわしい格好をした従業員や裸の客を店の外に追い立て、さらには店内を荒らしまくる一方で、九鬼は電話で契約者を速やかに呼びつけていた。和彦は、唖然として見守っていただけだ。
「九鬼さんの護衛の人、ヤクザのフロント企業の用心棒をやってたらしいけど、その経歴はここに活きているのかと、ちょっと感心した。効率的な暴力の使い方だった」
「ヤバイ。俺もその場にいたかった。楽しそう」
「……お前ならそうだろうな」
こちらは心臓に悪かったと、無表情で店内の備品を破壊し尽くす烏丸の姿を思い返し、少し遠い目をする。
庭を通り抜け、玄関前に戻ってきたところで、さらりと千尋に問われる。
「気に入った? いつか和彦のものになるというビル」
この問いに答えるのはおこがましいなと、曖昧に笑って返す。本来は、紗香のものであったビルなのだと、そんな思いがどうしても拭えない。それに、総子と正時の決断次第では、綾香のものとなっていたかもしれないのだ。言葉は悪いが、棚ボタだと他人から謗られても和彦は反論できない。
「何もかも急すぎて、本当に大丈夫なんだろうかと不安になる。……おばあ様が急ぐ気持ちもわかるんだけど」
先日実家に出向きながら、綾香の前から逃げ出した自分の行動を悔やむ。自分の口から、綾香に報告したいことがありすぎる。そして綾香の口からは、自分を産んだ女性のことを聞いてみたい。
紗香のことを考えるとき、和彦の心は頼りなくふわふわと揺れる。思い出にもなりきれない、しかし記憶というほどはっきりとした輪郭を持たない〈母親〉の存在に、いまだにどう寄り添えばいいのか戸惑うのだ。
敷地内の散歩を続行しながら、千尋はまだスマートフォンで地図を眺めている。転ぶぞと窘めると、聞こえているのかいないのか、千尋は首を傾げている。
「千尋?」
「――ビルがある辺りの住所、聞いた記憶があるんだよなー。けっこう前に、じいちゃんが話してたような……」
「楽しい話題で出たと言ってくれ……」
「いや、じいちゃんが電話で誰かと話してるのをちらっと聞いたぐらいで、そんなのを覚えてた俺の記憶力をまず褒めてよ」
和彦はおざなりに千尋の頭を撫でてやる。
「……ここ、ヤクザの抗争とかある場所なのか?」
「聞いたことないなあ。昔、地域の洗浄とか言ってヤクザが一掃されたらしいんだよね、そこからまた、いろんな組織が入り込んでぐっちゃぐちゃになって問題になったあと、大きい組同士が話し合って、いい感じに収まった、と」
「なんか適当だな」
「勘弁してよっ。俺が生まれるよりずっと前の話だよ。歴史の勉強じゃんっ」
千尋にそう言わしめる場所が、なぜ守光の口の端に上ったのか。
「じいちゃんに聞いてみる? それとも、長嶺組の生き字引的な、引退した組員をオヤジに紹介してもらうとか」
「……一応、和泉家のことだから、機会があれば九鬼さんにまず聞いてみるよ。何か問題があったわけでもないのに、大事にするのは気が引ける」
「こういうのって、問題が起きてから対処すると、たいていさらに大事になるんだよね」
したり顔で頷く千尋の頭を軽く指先で弾いたものの、和彦はふと、今日九鬼が何げなく洩らした言葉を思い出していた。
『――餌を撒きに』
一緒に移動している最中、動物に餌を与える場面などなかったし、九鬼もそれらしい素振りは見せなかった。
何かを暗喩した言葉だったのだとしたら、それは――。
「ウナギ男、か……」
ふと和彦が洩らした言葉に、千尋が不思議そうな顔をする。
「何?」
「お前の父親の、人を見る目の正確さに感心してたんだ」
確かに九鬼は、掴みどころのない男のようだ。
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