血と束縛と

北川とも

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第48話

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 どこを見ているのかわからない目をしながら、九鬼は手慰みのようにテーブルの上の文鎮に触れる。猫の丸い体を撫でる指先は男のものにしては細い。
「あの……、おばあさまの口ぶりから気にはなっていたんですが、〈何か〉あるんですか? 昔は紗香さんの件で揉め事はあったようですが、今は――警戒しなければいけないようなことがあると?」
「昔は、ではないんですよ。昔から今にかけてずっとあることです。ただ、和彦さんがいることで、脅威がより具体的になったと言いますか」
 ここで九鬼がテーブルの上に広げた地図を示す。コピーして分割した地図を繋げただけなのかと思ったが、よくよく見れば、住宅地図を拡大コピーしたものだ。しかも、一枚一枚、場所がバラバラだ。
「赤ペンで囲っているのが、和泉家が所有している不動産の場所です。書類の上で住所を眺めてもピンとこなかったでしょうが、これなら多少はわかりやすいかと思います。わたしの普段の主な仕事は、この地図の場所に出向いての管理です。不動産屋に委託もしていますが、任せっきりというわけにもいきませんから」
 和彦は立ち上がり、じっと地図に見入る。和泉家――というより祖父母が持つ影響力をこんな形で見せつけられて、ゾッとするような寒気を感じた。
「和泉家に厭われると、土地に厭われる……ですか」
「いわゆる大地主さんですからね。あそこには貸したくない、売りたくない、とか言われると、でかいビルや商業施設を手掛けているような不動産開発業者デベロッパーですら、まあ逆らうのは難しいですよね。わたしもたまにとりなしてほしいと泣きつかれたり、脅されたりしますけど、なんにもできません」
 そう言う九鬼はひどく楽しそうだ。
 イスに座り直した和彦は、気を落ち着けるために缶コーヒーに口をつける。ある程度は、総子や弁護士から説明を受けており、数えきれないほどの資料や書類にも目を通してきたが、それでもどこか現実味が乏しかったのだ。負担になるようなことはしなくていいし、信頼できる人物たちによってお膳立ても処理も済ませると言われては、そうなのかと納得するしかなかった。
 クリニック経営ですら身に過ぎたものだといまだに思っているのに、これ以上の精神的負荷を自分は耐えられるのだろうかと、ようやく新たな怖さを感じる。
 和彦がぶるっと体を震わせたところで、九鬼が追い打ちをかけてくる。
「弁護士先生から説明を受けたでしょうが、近いうちに和彦さんにはS&A合同会社の社員となってもらいます。登記等の手続きがありますが、面倒なことはこちらで請け負いますから、心配はいりません。書類の記入ぐらいはしてもらいますが。ちなみに、隣にいる二人は従業員ということになります。そしてわたしと烏丸は、業務委託を受けているという立場で、ここにいます。状況によって人が増えたりしますが、この会社の社員として登記されているのは、和泉家の方のみです。とはいえわたしは、会社と和泉家の事情をよく把握していますから、気軽になんなりとご相談ください」
 はあ、と気の抜けた返事をして和彦は途方に暮れる。今からでも断ってしまおうかと、山暮らしの中で決めた覚悟がぐらつく。和泉家で顔を合わせた、娘と孫を思う総子には親しみを覚えているが、和泉家の当主として総子が和彦に継がせようとしているものには、違和感しかないのだ。
 ただの相続ではないと、確信めいたものがある。宝箱の番人を自負する九鬼の存在が、その証拠だ。
 和彦に見せるためだけに準備したのか、九鬼はせっせと地図のコピーを片付ける。和彦の前には、役目を終えた猫の文鎮がなぜかずらりと並ぶ。誰が買い集めたのだろうかと思いつつ、ふと気になったことを尋ねた。
「業務委託ということは、九鬼さんたちの会社があるということですか?」
「一応名目上はセキュリティ会社とはなっていますが、和泉家専門の万事屋と考えてください。荒事、揉め事なんでもござれ。ややこしいかもしれませんが、すべてご夫妻が、和泉家の方と資産を守るために考えた仕組みです」
 タイミングを見計らっていたように、パーティションの向こうからのっそりと烏丸が姿を現す。外から戻ってきたところなのか、Tシャツの首回りが汗で濡れて色が変わっている。こちらの髪型は、変わらず坊主頭だ。目が合い、互いに会釈を交わす。
 九鬼と烏丸は立ったまま顔を寄せて打ち合わせを始め、あまりうかがうのも失礼かと、和彦は目の前に並ぶ猫の文鎮を眺める。どの猫も愛嬌があり、人慣れしていた和泉家の猫たちを思い出す。
「――では、出かけましょうか」
 つい前のめりとなって文鎮の猫たちの表情を見比べていると、九鬼に声をかけられる。心なしか口元が緩んでいるように見えるのは、目の錯覚ではないだろう。
「えっ、どこに……」
 慌てて和彦は立ち上がる。顎ひげをひと撫でして、九鬼はニヤリとした。
「この会社が管理する物件のいくつかを見に。他に軽く社会見学を。実感が湧くと思いますよ。ご自分が、和泉家から大事にされているのだと。あとはまあ――餌を撒きに」
 和彦は急いで、外で待つ護衛の組員に連絡を取る。その間に烏丸の姿が見えなくなり、エレベーターホールの前で再び顔を合わせたときには、ド派手な柄の開襟シャツに着替えていた。目を白黒させる和彦に、九鬼は笑いながら言う。
「威嚇用ですよ。この強面と服見て、迂闊に近づいてくる人間はいないでしょう。今日は特に気合い入ってます」
 なんだか楽しげな九鬼を横目に、賢吾の人物評の正しさをじわじわと実感する。烏丸はエレベーターに乗り込むときも黙ったままだが、和彦と目が合ったとき、軽く肩を竦めた。どこかおどけた仕種に、見た目ほど怖い男ではないのだろうかとほっとする。
 もっともその認識は、数時間ほどのうちに覆されるわけだが――。


 ぐったりとした和彦の様子を見るなり、長嶺の本宅の台所を取り仕切っている笠野は、開口一番にこう問いかけてきた。
「先生、おやつにゼリーはいかがですか?」
「……食べる」
 ふらふらとダイニングに足を踏み入れようとして、思いとどまる。先に着替えてくると言い置いて、再びふらふらとした足取りで今度は客間に向かう。
 スーツを脱いでハンガーにかけてから、あまり役に立たなかったブリーフケースは文机の下に押し込んでおく。洗面所で手と顔を洗ってダイニングに戻ると、テーブルにはすでにおやつと冷たいお茶が用意されていた。
 ゼリーはゼリーでも、フルーツゼリーだ。ガラス瓶を取り上げ、照明の光にかざして眺める。マスカットの薄緑が美しく、美味しそうだ。
「手土産でいただいたんですよ。有名なパティシエのお店のものだとかで。先生がいらして、ちょうどよかったです」
「ふらっと立ち寄ったのに、なんだか申し訳ないな。こんないいもの……」
 そう言いながらも、和彦は遠慮なく食べ始める。
「今日は朝から出かけられていたんですか?」
「朝から、ついさっきまで……」
「忙しかったみたいですね。お昼はきちんと食べられましたか?」
「鰻重をご馳走してもらった。いつもなら、まだ胃がいっぱいなんだけど、動き回ったから……」
 おかげでこの美味しいフルーツゼリーも食べられる。
 この時間、いつもであれば笠野は夕食の仕込みで忙しいはずだが、今日は比較的のんびりしている。コンロの掃除を始めたところで、和彦は声をかけた。
「もしかして今日はもう、キッチンは使わないのか?」
「あー、先生はご存知ないんでしたね。花見会の日は、本宅に残っている人間は、外に食べに行くか、弁当をとります。組長について参加している組員も多いですからね。だったらいっそ、厨も休めという昔からの方針です。先生が食べる分ぐらいでしたら、すぐに準備できますから遠慮なく――」
 和彦は苦笑いで断る。夕食は、マンションに戻る途中で食べればいい話だ。
「そうか、花見会だった……」
 九鬼の勢いに巻き込まれているうちに、すっかり頭から抜け落ちていた。
「本宅のこの雰囲気だと、トラブルは起きてないみたいだな。それでも組長は大変だろう。延期の件で何か言われるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をしてないといいんだけど」
「むしろ、物騒な笑顔を浮かべていらっしゃるのではないかと」
 そちらのほうが怖いなと、和彦が納得しかけたところで、廊下からにぎやかな足音が近づいてくる。案の定、姿を見せたのは千尋だった。
「留守番ご苦労様」
 そう言って和彦が笑いかけると、千尋は唇を尖らせる。
「留守番じゃなくて、待機、って言ってほしいなあ。これでも、朝からずっとピリピリしてたんだよ。オヤジのことは少しも心配してないけど、和彦のことは気になって、気になって。花見会じゃなければ、俺もついて行きたかったぐらい。それで――」
 ウナギ男はどうだったと問われて、危うくむせそうになる。
「……ウナギ男じゃなくて、九鬼さん。半日ほど一緒に行動したけど、特に問題はなかった。話しやすい人だったし」
 和彦の隣のイスに腰掛けた千尋の前にも、フルーツゼリーが出される。
「いろいろ連れ回されたらしいじゃん。あちこちのビルに行ったり、街中にある駐車場を見学もしてたとかって。昼メシは、お高い鰻屋だっけ?」
 思わずスプーンを置いた和彦は、嬉々とした顔でマスカットを口に入れる千尋をじっと見つめる。強い輝きを放つ目が、犬ころのような人懐こさをかなぐり捨て、ヤクザらしい冷徹さを覗かせる。
「今日はオヤジの代わりに、俺が和彦の行動の報告を受けてた。ついさっきまで」
「まあ……、そうなるか。お前、大変だったんだな、今日は。花見会の報告も受けてたのに」
「労わる気持ちがあるなら、晩メシ一緒に食べようよ。オヤジはどうせ夜中まで帰ってこないから、なんか配達頼んでさ」
 千尋は、和彦が断るとは微塵も思っていない様子だ。帰宅途中でどこかの店に寄るのも、本宅に配達を頼むのも大差はない気がして、和彦は頷いた。

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