血と束縛と

北川とも

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第48話

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 車の後部座席で和彦はぼんやりと、外を流れていく景色を眺める。いくらか散り始めている沿道の桜の花だが、それでもまだ目を細めて見入るほどには美しい。
 今ごろ賢吾も、同じように桜の花を眺めているのだろうかと、ふと思う。
〈諸事情〉により日程がずれ込んだ総和会主催の花見会は、現在、無事に進行中のようだ。組員宛てに報告が入っており、車内は比較的安穏とした空気が漂っている。
 例年、桜が見ごろを迎える前に開催される花見会が、今年は見ごろを過ぎかけた時期に開催される。そのことで何かと探りを入れられた賢吾はうんざりしており、原因のいくらかを負っている和彦としてはなかなか心苦しいところだ。とにかく花見会が無事に終了すれば、長嶺組や総和会に漂っていた緊迫感も薄れるはずだ。
 留守番組の千尋は、本宅に来ないかと和彦を誘ってきたが、あいにく今日は予定が入っており、今まさに向かっている最中だった。
「――本当に、大丈夫ですか?」
 助手席の組員が、ちらりと振り返る。今日の予定が決まってから、何度となく同じ質問を長嶺組の人間からかけられている。和彦は微苦笑で応じる。
「信用してほしいと、向こうからの要望だから。それに、どういう相手と場所なのか、組長自身が会って確かめたんだろう?」
「帰りの車でその組長が、『掴みどころがなさすぎて、ウナギみたいな男だ』と、珍しく困ったような声でおっしゃられてましたよ……」
「それは――」
 本当に珍しい。
 軽く咳払いをして和彦を気を取り直す。会う前に、不安を煽るようなことは言わないでほしいとは、口に出しては言えなかった。
 初対面ではないのだからと自分に言い聞かせているうちに、目的地に着く。オフィス街にある十階建てのビルだった。平日の日中ということもあって通りを行き交う人の姿は多く、悪目立ちしたくない和彦の服装はスーツだ。
 ブリーフケースと、手土産のクッキー入りの紙袋を手に車を降りようとすると、組員に念を押される。
「我々は近くのコインパーキングに車を停めていますから、何かあればすぐに連絡をください」
 わかったと頷いて、ビルに入る。一階はガラス張りの見通しのいい空間が広がっており、住宅会社のショールームが入っている。厳重なセキュリティがあるわけでもなく、エントランスを通り抜けてまっすぐエレベーターホールに向かう。扉が開くのを待つ間に案内板を確認したが、一階以外に二階も住宅会社が入っており、他の階には弁護士事務所、NPO法人事務所、カルチャーセンタ―など、一目で業種の想像がつく名が並んでいる。ただ、和彦の目的の階に一つだけ、社名からでは判断のつかないものがある。
『S&A合同会社』。和彦がこれから向かうオフィスだ。
 エレベーターで五階に上がり、壁の表示に従い廊下を歩く。同じデザインのドアが並んでいるため、うっかり社名のプレートを見逃すのではないかという心配は杞憂に終わる。あらかじめ連絡を入れておいたおかげか、和彦の訪問を廊下で待っている人物がいた。
「――おはようございます」
 そう言って九鬼は大きくて薄い唇に笑みを刻んだ。反射的に和彦は腕時計に視線を落とす。時間は九時五十分。約束の時間は十時だったが、この反応は、来るのが早すぎたのだろうかと困惑する。
「和彦さんは見た目どおり、時間にきちんとしていますね」
「いえ、社会人としては当然のことで……」
 応じてから、これは皮肉を言われたのだろうかと小首を傾げる。ヤクザの庇護を受けている人間が、一般人からはどう見られがちなのか、ついつい忘れそうになるのだ。
 和彦の微妙な反応に気づいたのか、九鬼は声を上げて笑った。
「すみません。他意はないんです。普段わたしらが接するのは、驚くほど常識がない人間と、図々しい人間が多いもので、たまにきちんとした人にお会いすると、妙な感動があるんですよ」
「はあ……」
「人を待たせて、マウント取ろうとする輩、わたし大嫌いでしてねー。それなら、事前アポなしで押し掛けられたほうが、笑顔で迎えられます」
 これは賢吾のことだなと、さすがに察した。
 ここで九鬼が表情を改め、恭しく頭を下げた。
「改めまして、九鬼蓮巳はすみです。本日はようこそお越しくださいました」
 和泉家の〈身内〉である九鬼に礼を失した態度は取れないと、緊張気味に和彦も応じる。すると九鬼は破顔した。
「もっと気楽にいきましょう。なんといっても和泉家の関係者同士ですから」
 九鬼が示したのは、ドアに記された『S&A合同会社』の名だ。速やかにそのドアを開けて、中に入るよう促された。
 オフィスに入って正面に小さなカウンターがあり、そこに置かれた花の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花の名を、和彦は知っている。紗香が好きだったというベゴニアだ。左側に設けられた応接セットのテーブルの上にも、同じ鉢があった。
「この会社のS&Aの意味、総子さんから聞いてます?」
「いえ……」
「Sは紗香さん、Aは綾香さんだそうです。娘さんたちに苦労させないためにと、そういう目的で作った会社だったらしいんですけどね……」
 九鬼に伴われて奥へと進むと、デスクが六つ並んでおり、その二つを中年の男女が使っている。和彦に気づいて、女性のほうからちらりと目礼されたが、それだけだ。九鬼に手招きされて、部屋を区切るパーティションの向こうへと移動する。こちらは、大きなテーブルが鎮座しており、そこに地図が何枚も広げて置いてある。壁には、使い込まれたファイルが隙間なく差し込まれたキャビネットが並んでいる。
 実務特化の彩りのないスペースだと感じたが、地図の上にいくつか置かれた小さな文鎮が、どれも猫を模ったものだと気づいて、つい和彦の口元は緩む。
 九鬼がいそいそとイスを引き寄せ、座るよう促される。和彦は腰掛ける前に、クッキー入りの紙袋を差し出した。
「甘いものは大丈夫だと思ったので……」
「よくわかりましたね」
「初めてお見かけしたとき、菓子パンを召し上がっていましたから」
 紗香の墓参りをする直前の出来事だ。思い出したのか、九鬼はにんまりと笑った。
「堅苦しいですねー。この間も言いましたが、もっとフランクにいきましょう。気楽に話してください」
 イスに座った和彦の前に、冷蔵庫から取り出した缶コーヒーが置かれる。
「給湯室がフロア共有なので、茶を淹れに部屋を出入りするのも面倒だし、そもそもここ、客も来ないですしね。買っておいて冷蔵庫に入れておくほうが効率的だし、経済的なんですよ。文句言う人もいませんし」
 そう言いながら九鬼は、和彦の隣に座った。和泉の家で食卓を共にしたときはあまり不躾に見ることはできなかったが、今は違う。和彦は、体の向きを変え、しっかりと九鬼と向き合う。自分にとっての味方となりうるか確かめるために。
 今日の九鬼は、冬に会ったときより伸びたウェーブがかった髪を一つにまとめていた。こちらが職場でのスタイルなのかもしれない。きちんと手入れされた顎ひげにノーネクタイの黒のシャツ姿は、一見フランクそうな雰囲気も相まって、クリエイターっぽさがある。だがおそらく、地金は賢吾とそう変わらない。
 和彦に値踏みされていると感じたのか、唇の端をわずかに上げた九鬼はシャツの片袖のボタンを外し、肘まで袖を捲った。現れたのは、手首近くまで彫られた刺青だ。特に目を惹く艶やかな赤。よく見ればそれは、陰影すら緻密に彫られた瑞々しい花弁だ。葉や茎は墨一色で彫られているせいか、より花の艶やかさが増して見える。
「――牡丹の花ですよ。唐獅子とセットが定番なんですけど、若かった頃は、なんだかダサく思えたんですよね。そもそも刺青を入れるのを思いとどまれという話なんですけど」
 九鬼はあっという間に袖を下ろしてしまい、結局牡丹の花の全容を見ることはできなかった。
「まあ、つまり、わたしはこういう人間です。足は洗ってはいますが、今でもけっこうズブズブです」
「ズブズブ……ですか」
「わたしの仕事はね、宝箱を守る番人のようなものだと思っています。宝箱にいいものが入っていると気取ると、いろんな悪党が寄ってきて、中身を暴こうとするどころか、盗もうとする。そうされないよう、あれこれ手を講じるんですよ。元悪党のわたしが」
 この会社は、和泉家が所有する資産を管理し、運用を行っている資産管理会社だと聞いている。和彦は漠然と、粛々と機械的に一連の仕事が行われているイメージを持っていたが、目の前の九鬼の様子はそれを裏切るものだ。表面的は穏やかなのに、どこか好戦的で、ヒヤリとする鋭さがある。
 こんな男がオフイスでおとなしく、事務仕事をしているのだろうか――。
 和彦の顔の強張りに気づいたのか、九鬼は軽く頭を下げた。
「すみません。普段、熱心にわたしの話を聞いてくれる人間がいないもので、ちょっと興が乗り過ぎました。和彦さん、聞き上手ですね」
「……いままで縁遠い世界だったので、そういうものかと思いまして……」
「おや、佐伯家のほうでは資産管理は?」
「父が中心になって、親族たちで上手く管理しているようです。……ぼくは、佐伯家とはこれまで距離を置いていたので、詳しくは把握してないですし、この先関わることもないと思いますし……」
「それは大変けっこう」
 ぎょっとするようなことを言って、九鬼は軽く手を叩いた。
「和泉家のほうでがっつり関わってもらいますから、負担は軽いに越したことはない。わたしは正直、和彦さんが裏の世界に免疫をつけてもらっていて、ありがたいと感じているんですよ。刃物を怖がる人間に、いきなり刃物を扱えとはいえない。それは刃物にとっても不幸ですから」
「つまり、あなたは刃物だと?」
「必要なときによく切れますよ」

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