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第48話
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「言わぬが花、という言葉を知っているか、先生?」
柔らかく窘められ、さすがにこれ以上踏み込むことはできなかった。続けて守光が洩らした言葉を聞けば、なおさらだ。
「ただ一つ言えることは、佐伯俊哉は冷たく美しい男だったということだ。忌々しいことにな」
二人は口を閉じ、雨を眺め続ける。気まぐれな天気らしく雨足はすぐに弱まり始めた。
「――さて、昔話はここまでだ。これからの話をしようか」
そう言って守光が始めたのは、事務的な話だった。
和彦と総和会の間で進められていた病院建設について、一旦凍結ということになったというのだ。率直に感想を述べるなら、非常にありがたかった。和彦としては経験も何も足りない人間が、小規模ながらクリニックを一つ任されているだけでも重圧なのだ。そこに、総和会という大組織の意向を受けて形ばかりとはいえ病院運営を任されるなど、分不相応というレベルを超えて無謀だった。
「あんたがいない間に、土地の取得についてちょっと面倒が起きて、いっそのことここは手を引いておくかという話になった。あんたが戻ってくるという確信もなかったことだしな」
「……ぼくにはまだ早かったということです。ご面倒をおかけしたことは、本当に申し訳ないとは思いますが――」
「気にしなくていい。もともとの計画のついでに、あんたを囲い込めればと下心があったうえでのことだ。あんたは無事に長嶺の男に戻ってきたし、規模の大きな計画が頓挫するのは珍しいことでもない。それに当分は、注意しておきたい案件もあるしな。総和会の外で目立つ動きは避けるべきと、忠告された」
誰から、と問いかける前に、異変を感じたように守光が視線を動かし、和彦もつられて同じ方向を見る。透明なビニール傘を差したうえに、二本の傘を持った南郷が歩いてくるところだった。
東屋の前で立ち止まった南郷が、空を見上げてから傘を畳む。
「せっかく傘を持ってきたんですが、少し遅かったようですね」
雨の勢いはすでに衰え、霧のような小雨となっている。この程度なら雨宿りも必要なさそうだ。
屋根の下から出た和彦は傘を断り、南郷に倣うように空を見上げて目を丸くする。虹が出ていた。こういうとき、同行者に知らせたくなるものだが、あいにくそこまで気安い相手がこの場にはいない。守光と南郷は、虹に気づいているのかいないのか、本部の建物に移動してお茶を飲む相談を始めていた。和彦は黙っておくことにした。
守光と並んで石畳を歩く。先を行く南郷は、スマートフォンで誰かと話している。聞く気がなくとも聞こえてくる物騒な内容に、和彦はソワソワしてしまう。意識を逸らすため守光に話しかけた。
「この白い花、きれいですね。なんという名前なんですか?」
「ユキヤナギだ。気に入ったなら、賢吾に頼んで、長嶺の本宅にも植えてもらったらどうかね。日当たりさえ気をつければ、育てるのは簡単だ」
「……いえ、本宅の庭に同じ花が咲いていたんです。それで、名前が気になって」
「わしがいたときはなかった花だ。たまには庭木を入れ替えているようだな。自分の代になったら、とっととコンクリートで埋めるとか言っていた奴なんだが」
賢吾が言いそうな憎まれ口だと、笑みをこぼしたそのとき、白い花に集っていたハチがふいに和彦に向かって飛んでくる。軽く手で追い払っただけで、あっさりとハチは白い花にまた寄っていく。その様子を見ていた守光が、ふいにこんなことを言った。
「――あんたの周りを飛ぶ羽虫がいたと聞いたが、問題ないかね」
一瞬、さきほどのハチのことかと思ったが、冷徹な守光の眼差しを見て、そうではないと気づく。
「あの、なんのことか……」
「遠い土地からわざわざこっちにやってきて、巣を作り始めているらしい。いつの間にか、な。第一遊撃隊の御堂辺りは把握していたようだが、なぜかわしは、賢吾から聞かされた」
ここまで言われれば、伊勢崎組のことを指しているとわかる。なんと答えるべきかと、和彦は目まぐるしく頭を働かせる。御堂の名が出た以上、迂闊なことを言えば迷惑がかかる。
顔を強張らせて口ごもる和彦に、ふっと守光は微笑みかけてきた。
「あんたに聞いても仕方のないことか。――極道の考えることは、極道にしかわからん。たぶんな」
雨に濡れるよりも、このやり取りのほうが体が冷えた。
この後、守光の部屋でお茶を飲み、引き止められるまま昼食まで共にしてから、ようやく本部を辞した。
車の中で和彦は、自分は本当に聞きたいことが聞けたのだろうかと思い返すが、気疲れのせいかすぐに思考は空回りを始めた。漫然と車窓から眺める外の景色には、一時的に降った雨の名残りはすでになく、虹もとっくに消えている。
車は自宅マンションへと向かう。賢吾からは本宅でもマンションでも、好きなほうに戻ればいいと言われており、遠慮なく自宅を選ばせてもらった。一人になりたかったのだ。
ふらふらと部屋にたどり着き、ドアを開けた途端、ふわりと風が吹き抜けた。一瞬覚えた違和感の正体は、すぐに気づいた。窓は施錠しているので、風が室内から吹いてくるはずがない。つまり――。
バタバタと靴を脱いでダイニングに駆け込むと、ちょうどキッチンからカップを手にした賢吾が出てきた。なぜか、寛ぐ気が全身から溢れ出ているスウェットスーツ姿だ。
「……何、してるんだ」
「茶を淹れてた。コーヒーを飲みたかったが、道具に勝手に触ると、お前が気を悪くしそうだからな」
「ぼくはそんなに狭量じゃない――じゃなくて、どうしてぼくの部屋にいる」
お茶を一口啜ってから、悪びれるでもなく賢吾はニヤリとした。
「当然、お前の顔を見たかったからだ」
「朝、本宅でしっかり見ただろう。……ここに帰ると、ぼくは本部を出てから決めたんだ。なのにあんたは、先に着いてた。しっかり着替えまで済ませて。つまり、最初から予測してたんだな。ぼくの行動を」
「蛇の千里眼を甘く見ないでもらいてーな」
蛇にそんな特殊能力はないだろうと思ったが、和彦の口から出たのは軽いため息だった。一人になりたかったはずなのに、こうして賢吾を目の前にすると、自分はこの男に会いたかったのだと実感できる。
カウンターにカップを置いた賢吾が両腕を広げる。誘われるように歩み寄り、賢吾の腕の中に収まる。戻ってこられたのだと心底安堵しながら、和彦も賢吾の背に両腕を回した。
柔らかく窘められ、さすがにこれ以上踏み込むことはできなかった。続けて守光が洩らした言葉を聞けば、なおさらだ。
「ただ一つ言えることは、佐伯俊哉は冷たく美しい男だったということだ。忌々しいことにな」
二人は口を閉じ、雨を眺め続ける。気まぐれな天気らしく雨足はすぐに弱まり始めた。
「――さて、昔話はここまでだ。これからの話をしようか」
そう言って守光が始めたのは、事務的な話だった。
和彦と総和会の間で進められていた病院建設について、一旦凍結ということになったというのだ。率直に感想を述べるなら、非常にありがたかった。和彦としては経験も何も足りない人間が、小規模ながらクリニックを一つ任されているだけでも重圧なのだ。そこに、総和会という大組織の意向を受けて形ばかりとはいえ病院運営を任されるなど、分不相応というレベルを超えて無謀だった。
「あんたがいない間に、土地の取得についてちょっと面倒が起きて、いっそのことここは手を引いておくかという話になった。あんたが戻ってくるという確信もなかったことだしな」
「……ぼくにはまだ早かったということです。ご面倒をおかけしたことは、本当に申し訳ないとは思いますが――」
「気にしなくていい。もともとの計画のついでに、あんたを囲い込めればと下心があったうえでのことだ。あんたは無事に長嶺の男に戻ってきたし、規模の大きな計画が頓挫するのは珍しいことでもない。それに当分は、注意しておきたい案件もあるしな。総和会の外で目立つ動きは避けるべきと、忠告された」
誰から、と問いかける前に、異変を感じたように守光が視線を動かし、和彦もつられて同じ方向を見る。透明なビニール傘を差したうえに、二本の傘を持った南郷が歩いてくるところだった。
東屋の前で立ち止まった南郷が、空を見上げてから傘を畳む。
「せっかく傘を持ってきたんですが、少し遅かったようですね」
雨の勢いはすでに衰え、霧のような小雨となっている。この程度なら雨宿りも必要なさそうだ。
屋根の下から出た和彦は傘を断り、南郷に倣うように空を見上げて目を丸くする。虹が出ていた。こういうとき、同行者に知らせたくなるものだが、あいにくそこまで気安い相手がこの場にはいない。守光と南郷は、虹に気づいているのかいないのか、本部の建物に移動してお茶を飲む相談を始めていた。和彦は黙っておくことにした。
守光と並んで石畳を歩く。先を行く南郷は、スマートフォンで誰かと話している。聞く気がなくとも聞こえてくる物騒な内容に、和彦はソワソワしてしまう。意識を逸らすため守光に話しかけた。
「この白い花、きれいですね。なんという名前なんですか?」
「ユキヤナギだ。気に入ったなら、賢吾に頼んで、長嶺の本宅にも植えてもらったらどうかね。日当たりさえ気をつければ、育てるのは簡単だ」
「……いえ、本宅の庭に同じ花が咲いていたんです。それで、名前が気になって」
「わしがいたときはなかった花だ。たまには庭木を入れ替えているようだな。自分の代になったら、とっととコンクリートで埋めるとか言っていた奴なんだが」
賢吾が言いそうな憎まれ口だと、笑みをこぼしたそのとき、白い花に集っていたハチがふいに和彦に向かって飛んでくる。軽く手で追い払っただけで、あっさりとハチは白い花にまた寄っていく。その様子を見ていた守光が、ふいにこんなことを言った。
「――あんたの周りを飛ぶ羽虫がいたと聞いたが、問題ないかね」
一瞬、さきほどのハチのことかと思ったが、冷徹な守光の眼差しを見て、そうではないと気づく。
「あの、なんのことか……」
「遠い土地からわざわざこっちにやってきて、巣を作り始めているらしい。いつの間にか、な。第一遊撃隊の御堂辺りは把握していたようだが、なぜかわしは、賢吾から聞かされた」
ここまで言われれば、伊勢崎組のことを指しているとわかる。なんと答えるべきかと、和彦は目まぐるしく頭を働かせる。御堂の名が出た以上、迂闊なことを言えば迷惑がかかる。
顔を強張らせて口ごもる和彦に、ふっと守光は微笑みかけてきた。
「あんたに聞いても仕方のないことか。――極道の考えることは、極道にしかわからん。たぶんな」
雨に濡れるよりも、このやり取りのほうが体が冷えた。
この後、守光の部屋でお茶を飲み、引き止められるまま昼食まで共にしてから、ようやく本部を辞した。
車の中で和彦は、自分は本当に聞きたいことが聞けたのだろうかと思い返すが、気疲れのせいかすぐに思考は空回りを始めた。漫然と車窓から眺める外の景色には、一時的に降った雨の名残りはすでになく、虹もとっくに消えている。
車は自宅マンションへと向かう。賢吾からは本宅でもマンションでも、好きなほうに戻ればいいと言われており、遠慮なく自宅を選ばせてもらった。一人になりたかったのだ。
ふらふらと部屋にたどり着き、ドアを開けた途端、ふわりと風が吹き抜けた。一瞬覚えた違和感の正体は、すぐに気づいた。窓は施錠しているので、風が室内から吹いてくるはずがない。つまり――。
バタバタと靴を脱いでダイニングに駆け込むと、ちょうどキッチンからカップを手にした賢吾が出てきた。なぜか、寛ぐ気が全身から溢れ出ているスウェットスーツ姿だ。
「……何、してるんだ」
「茶を淹れてた。コーヒーを飲みたかったが、道具に勝手に触ると、お前が気を悪くしそうだからな」
「ぼくはそんなに狭量じゃない――じゃなくて、どうしてぼくの部屋にいる」
お茶を一口啜ってから、悪びれるでもなく賢吾はニヤリとした。
「当然、お前の顔を見たかったからだ」
「朝、本宅でしっかり見ただろう。……ここに帰ると、ぼくは本部を出てから決めたんだ。なのにあんたは、先に着いてた。しっかり着替えまで済ませて。つまり、最初から予測してたんだな。ぼくの行動を」
「蛇の千里眼を甘く見ないでもらいてーな」
蛇にそんな特殊能力はないだろうと思ったが、和彦の口から出たのは軽いため息だった。一人になりたかったはずなのに、こうして賢吾を目の前にすると、自分はこの男に会いたかったのだと実感できる。
カウンターにカップを置いた賢吾が両腕を広げる。誘われるように歩み寄り、賢吾の腕の中に収まる。戻ってこられたのだと心底安堵しながら、和彦も賢吾の背に両腕を回した。
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