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第47話
(20)
しおりを挟む帰宅した賢吾は、見るからに機嫌が悪かった。一足先に帰宅した千尋は気色ばんで和彦に駆け寄ってきたので、この辺りの反応の違いは、潜り抜けてきた修羅場の違いによるものかもしれない。
誰かが大蛇の尾を踏んだせいだと、和彦は苦々しく思いながら、ロールケーキを一口食べる。春の期間限定ということで、生地も生クリームもほんのりとピンク色で、桜の風味が口内に広がる。組員の奥さんが差し入れてくれたものだそうで、食後のデザートにと笠野が勧めてくれたのだ。紅茶との組み合わせは最適だったと、自分の飲み物の選択に満足していた最中だった。
和彦が寛いでいるように見えたのだろう。ダイニングにやってきた賢吾はほんのわずかに目元を和らげた。
「――美味いか?」
「ご飯も喉を通らないという状態じゃなくて申し訳ないが、美味しい」
「お前にやつれられると、あちこちから俺が責められるからな。それでいい」
そう言って賢吾の手が、さりげなく髪を撫でてくる。
「よく似合ってる」
礼を言うのも照れ臭くて、いつもと同じ髪型だともごもごと応じていると、ちょうど風呂から上がってきた千尋もダイニングにやってくる。ふらふらと和彦に近づいてくると、背後から抱きついてきて甘えるように肩に額をすり寄せる。
いきなり長嶺の男二人に絡まれて、和彦としては苦笑するしかない。とりあえず、心配されていたことはよく伝わってくる。
賢吾はあごに手をやり、何か考える素振りを見せたあと、こう宣言した。
「よし、一時間後に俺の部屋で家族会議を開くぞ」
「家族会議って……」
「もちろん、お前も同席しろ。今日のことで話を聞きたい」
風呂の前に野暮用を片付けると言って、ジャケットを脱いで組員に預けた賢吾がどっかとイスに腰掛ける。心得たもので組員が、手帳を開いて仕事の打ち合わせを始める。この様子だと、いろいろと用事を放り出して帰宅したようだ。和彦を心配して――。
千尋は、髪を乾かしてくると言い置いて自分の部屋に戻り、和彦としては、この状況で優雅にデザートを味わうのは気をつかう。せっかくのロールケーキを気忙しく紅茶で流し込むと、ダイニングから逃げ出した。
もっとも一時間後には、賢吾の部屋で改めて顔を合わせたのだが。
座卓についた賢吾は無事に風呂を済ませたのか浴衣に着替えており、肩に羽織をかけている。ちょっと見惚れるほどその姿が様になっており、和彦は苦労して視線を引き剥がす。今夜はもう何もしないという決意の表れか、座卓の上には酒肴が用意されていた。
「家族会議じゃないのか」
和彦がつい洩らすと、賢吾が軽く首を傾げる。
「飲みながらでも話せるだろ」
「……会議なんて言い出すから、どれだけ大層なものかと思ったら……」
「いやいや、大層だぜ? お前がまた狙われたことについて話し合うんだからな」
「それはちょっと大げさだ。気になる男たちがいたというだけだから」
危機感が足りないと言いたげに賢吾が微苦笑を浮かべる。和彦は慌てて言い募った。
「心配してくれているのはわかってるんだ。でも、決定的なことが起こったわけじゃない。見られてただけで――」
「お前がいくら色男でも、あとをつけるような奴はまともじゃねーんだ。お前も薄々、相手の種類は察してるんだろ」
賢吾に示され、和彦はやっと正面に腰を下ろす。いつの間にか部屋の外で待機していたらしく、一声かけて笠野が障子を開ける。和彦の前にお茶の入ったカップを置くと、すぐに部屋を出て行く。
数秒待ってから和彦は口を開いた。
「たぶん、今日の男たちは堅気じゃなかった」
「それで?」
「意地が悪いな。ぼくにわかるのは、それぐらいだ」
軽く鼻を鳴らした賢吾は、たけのこの和え物を口に運ぶ、小気味いい咀嚼音を聞きながら、和彦は座卓の隅に置かれたタブレット端末に気づく。
「――舐めたまねをしやがる」
ふいに地を這うような低い声がした。ゾクリと身震いをして反射的に賢吾を見る。忌々しいほど魅力的なバリトンの本来の使い方を、唐突に教えられた。この男の声は、物騒な武器でもあるのだ。
硬直する和彦に対して、賢吾は安心させるようにふっと笑いかけてくる。
「おっとりしたお前はともかく、周囲がどれだけ警戒しているか、探りたかったのかもな。しばらく行方をくらませていた人間が、突然またふらふらし始めたら、まあ、気になる連中はいるだろう」
ここで障子が開き、今度は千尋がするりと部屋に入り込んでくる。手には缶ビールを持っており、何食わぬ顔で当然のように和彦の隣に座った。
一旦会話が止まったのをきっかけに、三人はそれぞれ飲み物に口をつける。笠野が淹れてくれたのはほうじ茶で、香ばしい香りにほっと息が洩れる。賢吾のグラスは焼酎のお湯割りだそうだ。飲むかと問われたが、遠慮しておいた。
「……しばらく、ぼくは本宅に近づかないほうがいいかもしれない」
ぽつりと和彦が呟くと、千尋が大仰に目を剥く。
「何言ってんのっ」
「いや、いままではぼくが一番弱い立場だったから、当然のようにここで庇護されてたわけだけど、近いうちに、お前の――稜人くんが滞在することになるんだろ。ぼくが厄介事を運び込むわけにはいかない」
今日本宅に戻ってから、あれこれと組員たちに世話を焼かれながら考えていたことだ。目が離せない小さな子供が本宅にいて、和彦の護衛によって負担をかけるのは本意ではない。何より、稜人自身が怖い目に遭う可能性は、限りなく潰しておきたい。自分が幼少時に体験したことを思い出してから、和彦は子供に対する見方がやや変化していた。
真摯な気持ちで訴えたというのに、なぜか長嶺の男二人は顔を見合わせたあと、声を洩らして笑い始めた。
「どうして笑うんだ。ぼくは冗談を言ったつもりはないんだが……」
「うちの先生は生まじめだと思ってな」
賢吾に『先生』と呼ばれて鼓動が跳ねる。少しだけ嬉しいと思ってしまった。
「そういう心配するの、和彦ぐらいだよ、きっと。うちなんて厄介事の巣窟みたいなところなのに」
「お前……、実家だろ。そういう言い方……」
「実家だからよくわかるんだって。だから、和彦が心配しなくていいよ。多少のことなら、ここにいる大蛇がぱくっと呑み込むから」
もっとも、と賢吾が言葉を引き継ぎ、両目に剣呑とした光を宿す。
「それらしい理由をつけて、お前が俺たちから距離を置きたいというなら、話は別だがな」
「……だったら最初から、戻ってこない」
和彦がじっと見つめ返すと、賢吾はすぐに降参した。
「悪かったな。お前がいじらしいから、つい意地悪を言っちまったな」
「意地が悪い中年男は嫌われるからな」
千尋の発言に対して、賢吾は澄まし顔でグラスに口をつける。
家族会議と言いながら、こんなことを話していていいのだろうかと疑問に感じたところで、賢吾がふいにタブレット端末を取り上げ操作してから、和彦に差し出してきた。
「秋慈が送ってきた画像データだ。お前も見たほうが手っ取り早い」
意外な名が出て和彦は目を丸くする。御堂秋慈の灰色がかった髪と秀麗な顔立ちが鮮明に脳裏に浮かび上がった。
最後に御堂と会ったのは昨年末の総和会の本部だったが、知らず知らずのうちに顔が熱くなってくる。御堂は元オンナとして、傷ついて脆くなっていた和彦を抱き締めて、慰めてくれたのだ。そのとき一度だけ唇を重ねた。二人だけの秘密で、賢吾にも言ってはいけないという御堂の忠告を、和彦はしっかりと守っていた。
「あいつも食えない奴だからな。クラゲのような細くて長い毒を持つ触手を、いろんなところに伸ばしている。これぞという餌や敵に刺して毒を流し込むんだ。俺は一応身内だと判定されているようだから今は平気だが、そうじゃない相手には――。あいつが優しいのは、オンナに対してだけだろうな」
そう言う賢吾の口ぶりと眼差しから、薄々とながら和彦と御堂の間に何かあったことを察しているようではあるが、嫉妬や怒りといったものを感じない。賢吾にとっても御堂は、大蛇が牙を向けない身内に含まれているようだ。
「お前の里帰りからの経緯について簡単に説明したついでに、尾行のこともぽろりと洩らしたら、心当たりがあったらしい。持つべきものは、総和会第一遊撃隊隊長の友人だ。――俺が切り出さなきゃ、いつまで情報を仕舞い込んでおくつもりだったのか気にはなるが」
受け取ったタブレット端末に視線を落とす。表示されていたのは見知らぬ男の画像だが、明らかに隠し撮りされたものだ。しかも一人ではない。和彦が次々と画像を確認していく様子を、賢吾と千尋は黙って見守っている。
画像には、数人の男たちを個別に、街中を移動する様子や建物から出てきた瞬間などが収められていた。ありふれた服装をしており、外で見かけても自然にすれ違うであろう特徴のない男たちに見えるが、撮った側がこめた意図や敵意が、画像を通して和彦には伝わってくる。この画像の男たちは、おそらく賢吾たちと同種だ。
「この人……」
和彦は、ある画像で手を止める。地味な色合いのスーツを着た、不自然なほど真っ黒な髪色をした二十前半に見える男を見た途端、おぼろだった脳内の映像がしっかりと輪郭を持つ。今日、コーヒーショップで見かけた男だった。
パッと顔を上げると、目が合った賢吾が眉をひそめる。
「今日見た男か?」
「たぶん、そうだ……。これ、誰なんだ?」
「――伊勢崎組の組員だ」
これもまた意外な名だった。和彦が目を開くと、賢吾はサディスティックな笑みを口元に浮かべた。
「お前が今思い浮かべたのは、組長である伊勢崎龍造か、その息子である伊勢崎玲か、興味があるな」
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