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第47話
(17)
しおりを挟む久しぶりに自宅マンションに戻ってきた和彦は、書斎に荷物を運びこんだ組員が引き上げるのを待ってから、腰を落ち着ける前に各部屋を見て回る。
心配するまでもなく手入れが行き届いており、大げさではなく埃一つ落ちていないのではないかとすら思える。カーテンや寝具も入れ替えられており、当然、クローゼットには春物が並んでいる。さらに冷蔵庫の中は、和彦が好みものばかりが収まっていた。
「さすが……」
笠野が目を配っていたとのことなので予想はしていたが、まさに至れり尽くせりだ。
書斎に入ってドアを閉めると、ようやく一人きりになったのだと実感する。本宅の居心地は確かによかったのだが、完全に一人きりとなって味わう解放感の心地よさは、別ものだ。
これで心置きなく作業ができると、床の上に座り込んだ和彦は、組員に運んでもらった段ボールを開ける。ログハウスに残してきた和彦の私物で、すでに季節外れとなった冬服の他に、買い込んでいた本や雑誌も入っている。そして何より大事な、和泉家の相続関係の書類や資料も。和彦が長嶺の本宅に滞在し始めた翌々日には、なぜか秦の手によって届けられたものだ。
和彦が鷹津の身の安全についてさほど心配していなかったのは、この荷物の存在があったからだ。秦に手を回せるほど余裕があったということは、総和会に身柄を押さえられなかったという証明になる。
長嶺組――というより賢吾が、鷹津を追っているのかどうかは、正直よくわからない。互いに忌々しい存在だと思っていても、利用できると認め合っている節もある男たちだ。和彦からあれこれは聞けない。
この荷物の中に九鬼の名刺も入っていたので、それ以外のものにも長嶺組のチェックは入っているだろう。和彦が和泉家から受け継ぐことになるものについてどう感じているか、これもまた和彦は賢吾には聞けない。
大蛇の潜む賢吾の目に、肉欲以外の〈欲〉を見たくないのだ。
荷物を取り出し分類していくと、最後に、厳重に梱包されたプラスチック製の食品保存容器が残る。中に入っているものが万が一にも濡れたり、傷ついたりしないようにという、鷹津なりの気遣いだ。
大きく深呼吸をしてから和彦は保存容器の蓋を開け、ビニール袋に包まれた小さなアルバムを取り出す。和泉家で別れ際に総子が渡してくれたもので、収まっているのは、すべて紗香の写真だ。
自分では平気なつもりだったが、最初の一枚を見た途端、和彦の胸は詰まる。おそらく病院で撮ったものだろう。パジャマ姿の生気の薄い横顔を見せており、背景は殺風景だ。写真を撮られることが嫌いだったということから、隠し撮りに近い写真だろうとうかがえる。
紗香のことを思い出せたとはいえ、ほんの欠片ほどの記憶だ。それでも、写真を眺めていると込み上げてくるものがある。一度、ログハウスでアルバムを開いたときに鷹津の前で涙を流してしまい、あのふてぶてしい男を動揺させたぐらいだ。和彦自身、自分の反応に戸惑い、以来、一人きりになれる場所でしかこの写真は見ないと決めた。だから、長嶺の本宅でも段ボールの底に仕舞ったままにしておいた。
「はー、ダメだな……」
もうこの世にいない実の母親に対して、感傷的になっているが故の反応かもしれないし、もっと素直な感情の揺れ故の反応かもしれない。
とにかく、このアルバムは和彦にとっての聖域となった。本棚に並べるのははばかられ、デスクの引き出しに仕舞っておく。
片付けを終えてやることがなくなると、コーヒーを淹れるためキッチンに立つ。カップなどを準備していると、テレビもつけていないのにどこからか音楽が聞こえてきて、耳を澄ませる。なんの音だろうかと首を傾げた数瞬後に、慌ててキッチンを飛び出す。いまだに耳慣れていない、スマートフォンの着信音だった。
書斎で充電中だったスマートフォンを取り上げたときには、すでに電話は切れていた。てっきり長嶺父子のどちらかと思ったが、表示された名を見て和彦は苦い表情となっていた。
言い訳をして後回しにしていた自分が悪いのだ――。
重苦しいため息が出そうになるたびに、和彦はそう自分に言い聞かせる。一方で、気持ちを整理する時間もほしかったのだと、また言い訳を重ねてしまう。
自分のペースで物事を進めたいと願うのは、今の環境では難しい。事情も感情も利害もが絡み合い、嫌でも和彦自身に決断と行動を促してくる。
「いや、そう大げさなものでもないのか……」
堪らず独りごちると、運転席の組員が背後をうかがう素振りを見せる。なんでもないと言いかけて、まったく違うことを口にしていた。
「本当にすまない。こちらの都合で、いきなり呼び出すことになってしまって」
和彦の言葉に、前列の組員二人はのんびりと笑う。
「気にしないでください。組からしてみれば、先生が何も言わずに出かけられるほうが、よほど怖いんで。よくぞ、連絡してくれました」
大層に褒められることでもないのだがと、つい複雑な表情となってしまう。
実のところ、黙ってでかけようかと一瞬思わなくもなかったが、正体不明の人物に尾行されたばかりなのもあって、実行には移せなかった。和彦も命は惜しい。
和彦のスマートフォンに残っていたのは、実家の電話番号だった。何事かと反射的にかけ直して電話に出たのは、母親である綾香だ。用件は端的で、年明けからいままでの出来事について報告がほしいというものだった。和泉家からの相続の件もあり、綾香の言い分は至極もっともだ。そう理解していても、和彦は自分から佐伯家に連絡を取ることができなかった。俊哉個人の携帯電話に連絡を取るのとは、わけが違う。
何もかも知った今となっては、佐伯家の家族の一員として振る舞うことが、ただ苦しい。俊哉はともかく、綾香や英俊にとっては、〈佐伯和彦〉という存在はなかったことにしたほうがいいだろうし、そういうものとして日常を送っていてほしいと願ってすらいた。
だからこそ、今から実家に来られないかという綾香の言葉は意外で、困惑はしたものの拒否はできなかった。ふと気になって、俊哉はまだ仕事中ではないかと尋ねたとき、綾香は沈黙した。
沈黙の意味は理解したつもりだ。つまり、俊哉は知らないし、知られたくないのだ。
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