血と束縛と

北川とも

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第47話

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 夕食後、和彦は一旦客間に引っ込むと、この三か月の間に溜め込んだどころではない仕事関係の雑務をこなしていた。即時対応が必要なものは、長嶺組のほうで動いてもらっていたので、いわば事後確認のようなものだ。
 賢吾には、本宅にいる間ぐらいのんびりしろと言われているのだが、昼間千尋と楽しんだ分、気が急いてしまう。
 なるべく早くにクリニックも再開したいため、詳細な予定を立てる必要もあった。導入している医療機器のメンテナンスも行いたいし、薬品やサプリメントも、年末に棚卸しはしたものの、改めて確認しておきたい。必要ならば、販売店の営業に来てもらい――。
 文机に向かい、カレンダーを傍らに置いてやるべきことを書き出していた和彦は、唸り声を洩らす。あれもこれもと思い付き、思考がまとまらなくなってくる。
 一人で考えるのは無理だと諦め、クリニックの運営を手伝ってくれているスタッフや組員に相談することにする。そう結論を出すと現金なもので、息抜きをしたくなった。
 ふらふらとダイニングに向かう。夕食の片づけが終わり、夜食の時間帯にはまだ早いため、誰もいない。この隙にと、キッチンに入ってドリッパーやペーパーフィルターなどを用意してコーヒーを淹れ、さらに電子レンジで牛乳を温める。
 コーヒーに牛乳を注いでカフェオレを完成させると、片付けを済ませていそいそとテーブルにつく。
 牛乳が多めになったカフェオレだが、穏やかな雰囲気の中で一息つくには最適な味だ。
 同じ屋根の下には千尋がいて、今頃自室で何をしているのかちらりと気にはなったが、わざわざ声をかけたりはしない。一緒に出かけた食器店で、熱心に子供用の食器を選んでいた千尋の横顔を思い返し、意識しないまま和彦の口元は緩む。突然知らされたわが子の存在を、千尋なりに受け止めようとしているのだと感じた。
 一方の稜人は、実父の存在をどんな形で知らされたのかと考えて、今度は口元を引き締める。どうしても自分自身に重なり、苦い感情がこみ上げてくるのだ。
 和彦は、自分が不幸だったと思わない。ただ、幼いうちに別の選択肢も選べたのではないかと、当時自分の周囲にいた大人たちに複雑な感情は覚える。その選択肢がなんであるか、具体的には思いつかないというのに。
「――苦いコーヒーでも飲んでいるのか」
 突然、話しかけられる。和彦が視線を上げると、廊下に立った賢吾がこちらを見ていた。考え事をしていたせいで、組員たちの出迎えの声を聞き逃していたようだ。
「いや……。どうしてだ?」
「お前がしかめっ面をしているからだ」
 賢吾はまっすぐ自室に向かうつもりはないのか、ダイニングに入ってくる。組員に脱いだコートとジャケットを手渡すと、和彦の隣のイスに腰掛けた。
「メシは食ったか?」
「ああ。あんたは――食べてきたみたいだな」
 賢吾からわずかに酒気が漂っており、表情も柔らかいというより緩んでいる。気心の知れた人物と飲食して機嫌がいいのだろうと和彦は推察した。実際、和彦の読みを裏付けるように賢吾が答える。
「今晩は、ツレたちと食事会だった。お前も戻ってきたことだし、久しぶりに気が抜けた」
 賢吾の言う『ツレ』とは、この本宅で若い頃、寝食を共にした腹心たちのことを指している。気軽に言っているが、現在の長嶺組を支える幹部たちばかりだ。
 組員から水の入ったグラスを受け取ると、賢吾は一気に呷った。カップに口をつけつつ、和彦はそんな賢吾を観察する。髪が少し乱れており、わずかに頬に赤みが差している。普段、組長という堅固な鎧をまとっているような男が、こういう人間味のある姿を覗かせると、目のやり場に困るほど魅力が増して見える。
 大蛇の毒に侵されているなと、和彦はじわりと苦い笑みを浮かべた。
「今日は子守りで疲れたんじゃねーか」
「……千尋が聞いたら怒るぞ」
「誰も千尋のことだとは言ってないだろ」
 軽く睨みつけると、賢吾はニヤニヤする。
「言ってなくても、他に思い当たる人間はいないだろ。この本宅にっ」
「もう少ししたら、増えるぞ。お前にも子守りを手伝ってもらうことになるかもな」
「あまり……、あてにしないでくれ」
「顔を合わせたときに、健康に気を配ってくれるだけでいい。子供の頃の千尋に、体質が似ているんだ」
 今は健康そのものの千尋だが、幼少期は病弱だったと聞いたことがある。生まれた頃からこの家で生活していた千尋はともかく、稜人の場合は体調だけでなく、ストレスのほうも大丈夫なのだろうかと今から心配になってくる。
 ついつい稜人に、幼い頃の自分の境遇を重ねてしまう。余計なお節介で済めばいいが、と和彦はふっとため息を洩らす。
 空のグラスを弄びつつ、賢吾は穏やかな眼差しをそんな和彦に向けている。なんとなく気恥ずかしさを覚えて、わざと素っ気なく片手を振る。
「早く部屋に戻って休んだらどうだ」
「休むにはまだ早いな」
 意味ありげな笑みと謎解きのような返事に、和彦は慌ててカップを手に立ち上がろうとする。
「そ、そうかっ……。ぼくは部屋で、クリニック関係のあれこれを片付けないといけないから、これで――」
「冗談だ。もう少しつき合ってくれ」
 目を眇めた賢吾にそう言われ、手首を軽く掴まれる。この手を振り払える勇気は和彦にはない。素直に座り直すと、賢吾はある人物の名を口にした。
「宮森に――」
「宮森さん?」
「今日一緒に飲んでいて、お前への言付けを預かった」
 和彦は、長嶺組若頭と長嶺組傘下城東会組長という肩書きを持つ男のことを思い出す。物騒な肩書きに反して、見た目はごくごく普通の顔立ちをしており、佇まいもまっとうな勤め人のよう。話してみればそれとなく極道らしい地金も透けて見えるが、和彦に対しては終始紳士的だった人物だ。
 宮森とセットで思い出すのが、彼の甥の存在だった。
「もしかして、優也くんのことか……?」
「忘れられているんじゃないかと、宮森が心配していたぞ。あいつもなかなか過保護だからな」
 声を洩らした和彦は、額に手をやる。最後に優也と電話で話せたのはいつだったかと、記憶を辿る。実家に帰っているときに軽く世間話をしたのだが、まさかあのあと、長らく連絡が取れない状況になるとは想像すらしていなかった。そして本宅に戻ってきてからも、まだメールすら送っていない。
「……薄情者だと思われてるな。優也くんに」
「向こうも、お前が大変な状況だったことぐらいは宮森経由で知らされているから、気に病むな。宮森も別に責めたくて、俺に話したわけじゃない。よければ、また連絡を取ってやってくれないかと言っていた」
 和彦としてはもちろん、避けられていないのなら優也と連絡を取るつもりだ。さっそく今からでもとソワソワし始めた和彦に対して、賢吾は顔をしかめる。
「気にかける相手があちこちにいて大変だな。――俺はいつ、相手をしてもらえるんだか」
「相手をして、って……、こうして話してるじゃないか」
「それで俺に我慢しろと?」
 露骨に妖しい流し目を寄越され、反射的に和彦は立ち上がる。自分が捕食される寸前の小動物になった気分で、今度こそダイニングから逃げ出す。賢吾が怖かったというのもあるが、二人きりになるといまさらながら気恥ずかしい。そして、後ろめたさを自覚してしまいそうになる。もちろん、鷹津と三か月も一緒に暮らしていたことに対してだ。
 嫉妬した、とあっさり口にしていた賢吾だが、胸の内はそう単純なものではないだろう。和彦の中に根付く鷹津への感情に気づいたうえで、じっくりと探っているのかもしれない。大蛇の口で呑み込めてしまえる程度のものかどうか。
 客間に戻った和彦は、再び文机に向かう気にもなれず、スマートフォンを手にする。千尋が勝手に入れてしまったアプリには触らず、登録されているアドレスの中から優也のものを探し出す。
 慣れないフリック入力に四苦八苦しながら、優也に送る文面を打ち込んでいると、風呂の準備ができたと障子の向こうから声をかけられた。
 賢吾は先に入らなかったのだろうかと気にしつつ、作業を中断し、着替えを抱えて客間を出た。
 脱衣場のカゴに着替えを入れてシャツを脱ごうとしたとき、前触れもなく引き戸が開き、ぬっと賢吾が入ってくる。驚きすぎて声も出せず固まる和彦と目が合うと、悪びれた様子もなくニヤッと笑いかけてきた。
 我に返って咄嗟に風呂場に逃げ込もうとしたが、易々と腰を抱えられて捕まる。逞しい胸に引き寄せられ、有無をいわせず唇を塞がれた。

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