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第47話
(7)
しおりを挟む和彦は数日ほど本宅に滞在することになった。その間に、自宅マンションにハウスクリーニングを入れると賢吾は言っていたが、本当に必要なのだろうかと甚だ疑問だ。よく気の利く笠野の差配により、日頃から組員たちが管理してくれていたはずで、わざわざ業者を入れるような状態になっているとも思えない。
もっともらしい理由をつけないと、和彦がすぐにマンションに帰りたがると考えたのかもしれない。
客間に転がった和彦は、耳を澄ませる。うるさくない程度に、人の話し声や足音が聞こえてくる。鷹津と生活したログハウスが非常に静かだったため、この生活音に溢れた環境にいると、戻ってきたのだなという実感がひたひたと押し寄せてくる。
障子を通して陽射しの暖かさを感じる。朝方はまだ肌寒かったが、それも日が昇るにつれて和らぎ、過ごしやすい気温となっている。こんな天気のときに散歩すると気持ちいいのだろうが、ふらりと一人で出歩ける山の中ではないため、護衛をつけなければならない。長嶺の本宅から出入りするとき、これは絶対だ。
散歩には行きたいが億劫だと、ぽろりと本音が洩れる。
昨日、本宅に到着してからずっと、軽い違和感は拭えない。三か月というのは、生活習慣を変えるには十分な時間だったのだろう。鷹津と生活を共にしている間、日々の家事はほぼ交代、もしくは半分ずつこなしていたため、何もやらなくていい本宅では、なんとなく身の置き場に困る。マンションの部屋で一人になれば、また感覚は違うのだろうが。
気が重いことは早く済ませてしまおうと、俊哉には連絡を入れておいた。肝心なことは鷹津から報告を受けているはずなので、和彦からは、長嶺の本宅にいるということぐらいしか告げることはなかった。そのあと、和泉家にも電話をかけ、総子と話すことができた。ログハウスで過ごす間に、何度か総子とは連絡を取り合っていたため、正直、俊哉とよりも気楽にやり取りができるようになっていた。
電話の向こうから猫たちの鳴き声が聞こえてきたことを思い出し、つい笑みをこぼす。
「――和彦、今いい?」
障子の向こうから突然、千尋の声がした。ぼんやりしていたため、足音に気づかなかったようだ。和彦は慌てて体を起こして応じる。
部屋に入ってきた千尋は、今日はまだ仕事で出かけないのか、ジーンズにTシャツというラフな服装だった。
二人きりになれたのはいつ以来だろうかと感慨深いに気持ちになったのは、改めて見る千尋の顔つきが少し大人びて、凛々しさを増しているように感じたからだ。
昨日は慌ただしく過ごしているうちに、移動の疲れが出た和彦は夕食をとってすぐに床についてしまったため、千尋とも三田村ともゆっくり話せなかった。忙しい男たちなので、和彦から声をかけて呼びつけるのは気が咎めるが、こうして部屋に顔を見せにきてくれるのは大歓迎だ。
千尋はいそいそと、膝同士が触れそうなほど近くに腰を下ろすと、無遠慮なほど和彦を見つめてくる。
「どうした?」
「本当に和彦が戻ってきたんだと思って、感動に浸ってる」
大げさだと苦笑した和彦は、照れ隠しに千尋の頭を手荒く撫でる。
「悪かった。……心配かけた」
「まあ、じいちゃんとオヤジから事情は聞いてたし。――それでも、寂しかった」
大人びた表情を見せていたくせに、一変して千尋は、あざとい上目遣いとなる。
「和彦といろいろ話したいこともあったのに、連絡も取れないどころか、オヤジたちですらどこにいるかわからないって言うから、ほんともう、気が狂いそうだった。俺、やつれてない?」
「……前と違いがわからない」
子供のように唇を尖らせる千尋だが、この仕種もあざとい。たまらず和彦は顔を背けて噴き出してしまう。
「そのほうが長嶺の男らしい。お前が痩せ細ってたら……、申し訳なくてこんなふうに向き合えなかった。だから、元気そうでほっとしてる」
言ってから、これは自意識過剰な発言だったかもしれないと即座に後悔する。慌てて言い募ろうとしたが、千尋が一瞬顔を歪めてから飛びついてきた。
「うわっ」
声を上げた和彦はそのまま千尋と一緒に倒れ込む。しがみついてきながら千尋が低く呻き声を洩らし、ぐりぐりと額を肩に擦りつけてくる。
少々乱暴ではあるが、怒っているわけではないようだ。和彦の脳裏に、大型の獣が爪と牙を立てないよう気をつけながら、精いっぱい体をすり寄せて甘えてくる姿が浮かぶ。
「もう帰ってこないじゃないかと思ってた……。和彦が実家の空気に触れて、家族に囲まれて、そしたら、もう〈ここ〉に帰ってくる必要はないって、気づくんじゃないかって――」
「……変な言い方だな。ぼくは催眠術にでもかかってたみたいじゃないか。気づくも何も、ここがどんな家で、お前たちがどんな人間なのかわかったうえで、世話になってたんだ。そして、戻ってきた」
不安かと尋ねると、頑是ない子供のように首を振り、ますます強くしがみついてくる。さすがに少し苦しいと思いながらも、押し退ける気にはなれず、ポンポンと背を軽く叩いてやる。
離れて生活している間に、千尋の自分に対する熱情がいくらか冷めているのではないかと、恐れると同時に、ほんの少し期待にも似た気持ちが和彦にはあった。そのことを、今は申し訳なく感じる。抱き締めてくる腕の強さや呻き声は、千尋の一途さを雄弁に物語っているからだ。
将来、自分はこの青年に何を返せるだろうかと考えていると、ようやく気持ちが落ち着いたのか、千尋がもそもそと身じろいでから起き上がる。手を掴んで和彦も引っ張り起こしてもらうと、照れたように千尋が笑った。
「久しぶりだから興奮しすぎた」
「……血気盛んでけっこうなことだな」
結局何をしに来たのかと尋ねようとしたとき、千尋がぐいっと身を乗り出してきた。
「ねえ、これから買い物行こうよ。服とかさ。そんで、俺の買い物にもちょっとつき合って」
これを渡りに船というのかもしれない。散歩に行きたいと思いつつ億劫でもあった和彦としては、千尋とともに買い物というのは魅力的だ。あれこれと買いたいものが頭に浮かび、すぐに承諾した。
千尋が護衛の相談のため客間を飛び出していき、和彦は身支度を整える。とはいっても、チノパンツに履き替えてシャツの上からジャケットを羽織るだけなので、あっという間だ。
財布をポケットに突っ込み、少し迷ったがスマートフォンは置いていくことにする。客間を出ると、ちょうど千尋もやってくる。さきほどは着ていなかったフード付きのパーカーを羽織っていた。
「十五分ほど待ってくれって」
予定になかった行動で、組員たちも大慌てで準備をしているのだと思うと、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
のんびりと並んで廊下を歩いていて中庭の一角が視界に入り、不自然に視線を逸らしてしまう。賢吾が、砂場を作り、遊具も置くために整地したと話していたが、当然、千尋も把握済みだろう。父子の間でどんなやり取りを交わしたのか気になるが、さすがに和彦は踏み込めない。
年上として配慮を示したかったが、千尋はあっさり一蹴してくれた。
「――いまだに信じられないんだ。俺が、高校生のときに〈父親〉になってたなんて。まだ直接顔を合わせたことはないけど、写真は見せてもらってる。検査の必要がないぐらい、ガキの頃の俺そっくり」
立ち止まった千尋がそう言って、中庭に目を向ける。どうやら話題に出してもかまわないらしい。
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