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第46話
(14)
しおりを挟む痛っ、と声を上げた和彦は、唇に指先を這わせる。案の定、血がついていた。これ以上ないほど空気が乾燥しているため仕方ないのだが、とうとう荒れていた唇が切れたらしい。一度気になると、つい何度も唇を舐めてしまい、それがさらに荒れを悪化させたというわけだ。
和彦はすっかり走る気が失せ、呼吸を整えながらゆっくりと歩く。散歩代わりのジョギングは、今のところ順調に続いている。切りつけてくるような寒風には慣れないが、自分の体にとって健康的なことをしているという意識を強く持てる気がするのだ。
これでまた風邪でも引いたら、鷹津に揶揄われるだろうが。
ログハウスに戻ると、室内の暖かさにほっと吐息が洩れる。鷹津から借りているウインドブレーカーを脱いでいると、テーブルで雑誌を開いていた鷹津がちらりと視線を向けてきた。
「汗をしっかり拭いておけよ」
「わかってる」
そう応じはしたものの、歩いて帰っているうちに汗は引いてしまった。むしろ気になるのは、切れた唇のほうだ。
ウインドブレーカーを他の洗濯物と一緒にまとめると、和彦は救急箱を出してくる。
「どうした。また熱か?」
鷹津がすっかり過保護になってしまったことに多少の責任を覚えながら、和彦は苦笑する。
「ワセリンがないかと思って」
「……ローションじゃダメなのか。ベッドの小物入れの中にあっただろ」
頬杖をついた鷹津が不思議そうに言う。数瞬の間を置いて、和彦は顔を熱くしながら、自分の口元を指した。
「唇が切れたから、塗るものが欲しいんだっ」
叫んだ拍子にさらに深く唇が切れた。
「そういうことか。俺はてっきり――」
「言わなくていい……」
残念ながら救急箱にワセリンは入っていない。ハチミツはあるので、応急処置として塗ってもいいのだが、つい舐めてしまってかえって唇が乾燥しそうだ。
悩む和彦に、鷹津が提案してきた。
「買い出しについてくるか? ドラッグストアで降ろしてやるから、俺が用事を済ませる間、買い物すりゃいいだろ」
「……いいのか?」
戸惑う和彦に、鷹津は苦い顔となる。
「誤解してるようだが、俺は別に、お前をここに軟禁してるわけじゃないぞ。これまでは、お前の体調が怪しかったから連れて行かなかっただけだ。――もう大丈夫だろ?」
和彦がぎこちなく頷くと、さらに鷹津が続ける。
「ついでだから、帰りに温泉にも寄ろうぜ。お前、入りたがってたろ」
退屈していた子供を外に連れ出そうとしている父親じみたものを、鷹津の口調から感じなくはなかったが、久しぶりに買い物がしたいのも、温泉に入りたいのも事実だ。和彦は救急箱を片付けると、急いで寝室に駆け込もうとして、鷹津を振り返る。
「コンビニで、コピーしたいものがあるんだ。あと、和泉の家に出したい荷物もある」
「ああ、まとめて用事を済ませろ。さっさと準備してこい」
和彦は手早く着替えを済ませると、買い物メモに、コピーを取りたい書類、和泉家に送る荷物などをまとめていく。安川商店が顧客に配っているという大きなトートバッグが思いがけず役に立ち、荷物をすべて詰め込めた。
鷹津は、薪ストーブの火を消すと、スウェットスーツの上にダウンコートを羽織ってから、ドキュメントケースを小脇に抱える。髭面もあいまって、異様な迫力を放っているのだが、考えてみればこの男は、少し前まで極道と見分けがつかないような暴力団担当の刑事だったのだ。
「どうした?」
「……見た目が胡散臭いと思って……」
「よかったな。変な輩が寄ってこないぞ」
和彦は、苦笑で返すしかなかった。
列を作って下校している小学生の一団を見て、意識しないまま和彦は表情を和らげる。まだ低学年らしく、背負ったランドセルを持て余しているように見える。
ログハウス周辺の環境しか知らなかった和彦は、山を下りてすぐに見えてきた人通りや車の数に、新鮮さを覚える。にぎわっているとまでは言えないが、寂れた印象はなく、当たり前に人が生活している光景が広がっているのだ。
年明け、鷹津に連れられてログハウスに向かうときはすでに日が落ちており、町の様子はほとんどわからなかったし、そもそも和彦に車の外に目を向ける余裕はなかった。
のんびりとした雰囲気の町だった。道路沿いにきれいな川が流れており、近くにキャンプ場もあるようだ。自然を観光の目玉にしているところなのだろう。
「一応この辺りが、メインストリートになる。ドラッグストアの真向かいにスーパーがあるし、道路沿いに少し歩くことになるが、コンビニもある。観光だと思って、うろうろしてみろ。なんか珍しいものがあるかもしれない」
「……もしかして、別行動になるのか?」
「俺は俺で、片付けておく用事がある」
あえて深くは追及しない。ほぼ四六時中、和彦と一緒に過ごしていては、そうそう人と会うこともできず、電話するにも気を使っていたはずだ。わかったと頷いた和彦は、ひとまずコンビニで降ろしてほしいと告げる。和泉家に出す荷物というのは書類で、コピーを取っておきたかったのだ。封筒などもその場で購入すればいいかと、手順を考えているうちにコンビニの駐車場へと車が入る。
車を降りようとした和彦に、鷹津がグローブボックスから何か取り出して、ポイッと投げて寄越してきた。
「これ……」
てのひらに収まるサイズの、一見コントローラーのような機器だ。キーホルダー金具がついており、小型ライトかとも思ったが、すぐに違うと気づく。察した和彦が顔をしかめると、鷹津は苦笑いを浮かべた。
「そんな顔するな。さっき歩いてた小学生たちも、ランドセルにつけてただろ。――防犯ブザーを」
「ぼくは三十男なんだが」
うっかり間違えて買うはずもなく、最初から鷹津は、和彦に渡すつもりで準備していたのだ。
「万が一だ。物騒な連中にここの場所は知られていないはずだが、何があるかわかんねーからな。これも、教えた制圧術も、出番がないに越したことはない」
待ち合わせ場所をスーパーの休憩所に決めて、二人は一旦別れる。
鷹津の車が走り去るのを見送ってから、和彦は防犯ブザーをダウンコートのポケットに仕舞う。反射的に周囲を見回したのは、身についた習性だ。人の姿があると、不穏な気配はないかと探ってしまう。大丈夫、と口中で呟いて和彦はコンピニに足を踏み入れた。
店内に客の姿はなく、おかげでゆっくりとコピー機を使うことができる。購入した封筒にその場で書類を入れると、カウンターで発送伝票を書いて荷物を受け付けてもらう。これで、最優先の仕事は終わった。
和彦は缶入りのカフェオレを買ってコンビニを出ると、のんびりと歩きながら口をつける。まっすぐ引き返してドラッグストアに向かってもよかったが、鷹津の勧めもあって、違う道を歩いてみることにする。入り組んだ道に進まなければ、迷うこともないはずだ。
小さな商店がいくつか並んでおり、特に用もないのに金物屋の店先に並んでいる調理器具を眺めていると、また下校途中の小学生に出くわす。考えてみれば、今はまだ午前中だ。この時間にすでに下校しているということは、何か行事でもあるのかもしれない。
そして、平日の午前中から一人でフラフラしている自分は、不審者に見えるかもしれないと、いまさら和彦は気づいてしまう。小学生たちの列が横を通り過ぎるとき、防犯ブザーを鳴らされたりしないだろうかと、少しだけ緊張した。結果、防犯ブザーを鳴らされるどころか、大きな声で挨拶をされ、慌てて返すことになる。
子供たちの元気さと明るさが眩しい。楽しそうに話しながら歩く彼らの後ろ姿を見送った和彦は、これ以上小学生と出くわしても気まずいので、そろそろ引き返そうかと、辺りを見回す。途中に出ていた案内板のようなものには、もう少し歩けば民俗資料館があると記されていたが、正直さほど興味はない。どうせなら土産物屋を覗いてみたい。
カフェオレを飲み終え、やっと探し出した自販機横のゴミ箱に缶を捨てた和彦の視界に、十メートルほど先の古びた看板が飛び込んでくる。書店という文字を無視できるはずもなく、ふらふらと近づく。営業中なのを確認すると、すぐに済ませるからと心の中で鷹津に言い訳しながら、店に足を踏み入れた。
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