血と束縛と

北川とも

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第46話

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 道に積もった雪には、わだちはおろか、人の足跡すら残されていない。溶け始めて水分を含んで重くなりつつ雪を踏みしめて、和彦は背後を振り返る。そこには、二人の足跡がログハウスから続いている。
 陽射しを受ける雪の眩さに思わず目を細める。数日ぶりに外に出たせいで、外の明るさにまだ順応できないのだ。何より、寒さに。
 外出時の標準装備であるセーターを含めた重ね着の上から、ダウンコートを羽織り、ネックウォーマーに毛糸の帽子や手袋を身につけて、さらに鷹津から、あらゆるポケットにカイロも突っ込まれたが、それでも突き刺すような冷気を感じる。ただ、新鮮な空気に触れるのは心地いい。
 数歩あるいては立ち止まる和彦に、鷹津は急かすことなくついてくる。今回の散歩コースは、前回和彦が歩いた道とは逆方向になっている。こちらは比較的坂が緩やかなうえに、足を滑らせたところで山から転がり落ちる心配もないという。とはいっても、ふくらはぎの辺りまで積もった雪は想像以上に歩きにくく、容赦なく乏しい体力を削っていく。転がり落ちるまでもなく、その場に倒れ込みそうだ。
 ネックウォーマーで口元まで覆っていたが、息苦しさに耐え切れず下ろす。吐き出した白い息がキラキラと輝きながら大気に溶ける。思い切り息を吸ってから咳き込むと、鷹津に背をさすられた。
「……病み上がりが無茶するなよ」
「多少無茶しないと、体力が戻らないんだ」
「その結果、また熱を出す事態にならなきゃいいがな」
「たぶん、今回は大丈夫だ」
 目に見えるものではないが、自分の体のことなので実感できるものがある。ようやく、気力が体内を巡り始めたのだ。体力が落ちようが、手足を動かす原動力にはなる。
「――お前は、わかりやすいな」
「何が?」
「駅でお前を捕まえてここに連れてきてからずっと、拾われてきた猫みたいに不安げな様子だったのが、今はやっと性根が据わった顔つきになった」
「今朝鏡を見たら、やつれたままだったけどな」
 苦笑いしながら和彦は自分の顔に触れる。
「そういう意味じゃねーよ。……わかっててとぼけるんなら、もう何も言わんぞ」
 道の傍らに広がるブナ林から、甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。なんの鳥かと尋ねたが、鷹津から返ってきたのは、知らん、という素っ気ない一言だった。少しの間立ち止まり、鳥の姿が見えないかと目を凝らしても、気配はもうない。枝から雪が落ちたのをきっかけに、再び歩き出す。
「……拾われてきた猫かどうかはともかく、不安だったのは確かだ。体は思うとおりに動かないし、何かやろうにも気力が湧かない。あんたはひたすら甘やかしてくるだけだし。ゆるゆると、このまま時間が流れていけば楽になっていくのかなと思った」
 突き詰めれば、自分は何者でなければいけないのかを見失っていたのかもしれない。両親についての真実を教えられ、自ら封印していた記憶を取り戻した結果、〈佐伯和彦〉を構成していたものを削り取られたようなものなのだ。そう、和彦は感じた。ログハウスで生活しながら、どこか他人事のように空虚となった自身を眺めていたが、案外早く変化は訪れた。
「ぼくはけっこう図太くて、逞しいみたいだ。自覚はあったけど、改めて実感してる……」
「俺はとっくに知ってた。いや、お前以外の奴はみんな知ってるかもな」
 和彦は素早く雪を掬い上げると、鷹津にぶつけてやる。動じるでもなく、鷹津はニヤニヤする。もう一回雪をぶつけようとしたが足を滑らせ、大きくバランスを崩そうとして、すかさず強い力で引っ張り上げられた。和彦は鷹津に掴まりながら体勢を直す。
「足がふらふらじゃねーか。もう少しがんばれよ。休める場所がある」
 鷹津に掴まったまま呼吸を整える。雪を掻き分けるようにして歩いていたせいで、疲れた足が重くなっており、爪先から寒さが這い上がってくる。鷹津のほうは息も乱しておらず、和彦を支えながら足取りはしっかりしている。
 この男の安定感はどこから来ているのだろうかと、ふと思った。肉体的な強靭さのことではなく、精神的なものについてだ。出世は望めないにしても公務員の職を捨て、暴力団組織にケンカを売るようなまねをした挙げ句、厄介事の権化のようなものである和彦を懐に抱え込んでいる。なのに微塵も不安さを覗かせないのだ。ふてぶてしい、の一言では済ませられない。
 鷹津が歩き出し、掴んだ腕から手が離せないまま和彦も続く。
「――どうした。急にまじまじと俺の顔を見て」
「あんた、怖いとか不安だとか感じるネジが抜け落ちてるんじゃないかと思ったんだ。いまさらながら」
「俺は、食えないクソどもとのつき合いが長いからな。覚悟と準備があれば、ビクビクする必要はない。いざとなれば、外国に高跳びするって手もある。お前も連れて」
「……つき合いがいいな」
「秦の奴が何回も言ってたんだ。二人分のパスポートぐらい用意してやるってな。俺については、お前の用心棒にでもなってくれればいいと思ってたんだろ。あいつは妙に、お前を気に入っているし」
 いつだったか、鷹津と秦が一緒に飲んでいる光景を思い出し、和彦はふっと笑う。
「なんだかんだで、仲がいいよな。あんたと秦」
「やめろ。気色悪い」
 心底嫌そうに吐き出す鷹津がおもしろい。しかしすぐに真剣な横顔を見せ、ぽつりと鷹津は洩らした。
「お前が何もかも投げ出したいと言うなら、俺はすぐに海外に逃がすつもりだ。お互い余計なしがらみを抱えちまってるが、目に見える鎖で手足を縛り付けられてるわけじゃない。行こうと思えば、どこにだって行ける――と、お前の世話を焼きながら、ずっと考えてた」
 分厚いダウンコートを通しても感じられる鷹津の腕は、和彦をどこまでも引っ張っていく逞しさと力強さがある。大言壮語ではなく、鷹津は実行する男だ。対して自分はと、今のひ弱さに和彦はため息をついた。
「ぼくは……、考えることを放棄してた。気力が湧かないまま、周りのお膳立てに甘えて、ただ悲劇の主人公になりきってた」
「そうは言うが、けっこうな生い立ちだろ。お前。正直、もっと塞ぎ込まれて、八つ当たりされるのは覚悟していた」
「あんたは何も悪くないのに?」
 珍しく鷹津が一瞬、きまり悪そうな顔をする。俊哉と繋がっていたことを責められると思っていたのかもしれない。ただ和彦としては、鷹津の心情を推察するのは難しいことではなかった。
 鷹津が指さした先に、数軒の小さな建物が並んで建っており、軒下にはベンチも置いてある。観光客相手の土産物屋だそうだが、冬の間は閉めており、誰もいないのだという。ベンチに積もった雪を払って、二人並んで腰掛ける。腰から冷たさが伝わってくるが、それ以上に足が冷え切っているので、さほど気にならない。
「――総和会相手にぶつけるなら、お前の父親……佐伯俊哉しかいないと思っていた」
 和彦は手袋を外してカイロで指先を暖めながら、鷹津の告白を聞く。
「お前はどんどん総和会に引き込まれて、取り返しのつかないところまで行くのは目に見えてる。そうなる前に、状況を掻き回したかった。が、二人が既知の間柄だったというのは、予想外だったがな。もっとも、悪くはない手だったようだ。相手の出方の予想がつくというのは、やりにくいからな。そのせいなのか、性分なのか、佐伯俊哉は慎重だった。それに、人使いが荒い。いかにも官僚様ってやつだな」
「本人に会ったら、そう伝えておくよ」
 鷹津に笑いかけた和彦だが、すぐにうろたえることになる。カイロごと、きつく手を握り締められた。
「俺は、最善の策を取れたということだな。だからこうして、お前は今、俺の隣にいる」
「……下手したら、コンクリ詰めにされたり、海に沈められたりしたかもしれないのに、よくやるよ」
 ログハウスに連れて来られてから、ようやく初めて、取り繕うことなく会話を交わせていた。鷹津はずっと、和彦が自ら行動を起こすのを待っていたのだろう。ただ静かに――。

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